二択では決められないこと考2019年01月27日 10時11分53秒

★「日本人」「性別」そして・・・

 大坂なおみ選手の全豪テニス女子シングルでの初優勝した試合を昨夜、晩飯の支度しながら見るともなしに見ていた。日本人初の快挙だそうである。
 そのこともあっていろいろ考えた。「日本人」って何なのだろう、と。
 
 我が知る限り、テレビの中などや身近でも日本人よりも達者な流ちょうな日本語を話し、日本文化についても現代の若者よりよほど詳しい外人が何人もいる。漢字も読めるし我よりもしっかり間違いなく正しく書ける。見かけも昔でいう紅毛碧眼のガイジンであったりする。
 そして逆に、名前も見かけも日本人そのものでも海外生活が長かったりして、日本語もろくに話せない「帰国子女」もたくさんいる。
 そして昨今では、就労目的で来日した外国人の親に連れられ日本に来て(日本で生まれて?)、最初から日本の学校に通い日本語がペラペラの子も都内では多い。
 また、そうして外国人との間に増えた国際結婚の結果、肌の色も目の色も名前も異なる「日本人」子女も、何かで読んだことだが、生まれてくる子の30人に一人の割合を占めているとか記憶する。
 ということは、都内の学校では、各教室には必ず「ガイジン」の生徒が1人以上いることになる。その子の国籍が「日本」であるかはともかくも。
 
 また、在日の人たちのことも考えるとき、日本人と異なる人種であれ、代々日本で生まれ育ち、日本の税金を支払い日本社会で働きこの国で暮らすしかないとしたら、国籍は違っていてもそれは我と同じ「日本人」なのだと思う。当人のアイディンティティ―、何人であるかとの自認はそれぞれだと思うけれど。

 その人が日本人かそうでないかを決めるのは、単に「国籍」なのであろうか。国籍さえ日本であれば、日本に住まず日本語ができなくて日本文化について何も知らなくとも「日本人」なのであろうか。肌の色や見かけはまったく関係ないことであるのは当然として。

 カズオ・イシグロというノーベル賞作家が英国にいる。彼は、名前も見かけも石黒一雄という、どこから見ても「日本人」であるが、彼は日系作家ではあるが、国籍は今は日本ではないので、日本人ではない。
 長崎で生まれて幼少期に親の仕事の関係でイギリスにわたり今も向うで英語で執筆活動を続けている彼は、おそらく日本語は大坂選手よりも達者であろうが、自らも国籍同様、「日本人」だとは自認していない。
 もし、彼が今も国籍が日本のままであったらば、マスコミは、英国在留の「日本人」がノーベル文学賞受賞!!と大騒ぎしたことだろう。

  また、国技とされる相撲の世界などでは、外国人力士が常時多く活躍している。引退後も親方などとして相撲の世界にいるためには日本国籍が必要だと聞いたことがあるが・・・
 そうあれこれ考えるとき、日本人であるかどうかは、「国籍」だけで決めるのが正しいのであろうか。国籍さえ日本であれば、あるいは変更すれば、「日本人」になるのだろうか。いや、外国でも同様に、我がもし、米国籍を取得し、米国人になれたら、英語ができなくともアメリカ人として生きていけるのだろうか。

 話はそれるが、書面などで自らの「性別」を記載する欄に、このところ男と女の二択以外に選別支というべきか、きちんと二択内だけで選ばなくとも良いようなケースがネット上などでは増えてきた。
 日本のお役所ではまだそんな曖昧な「選択支」はないようだが、性同一障害の人たちが声を上げたりして、生物学上の性とは異なる様々な性自認が許容される社会への過渡期の今、それはとても良いことだと思える。
 自らが男性、女性であるかを決めるのは、見かけではないし、生物学上の「生まれつき」でもないという認識がようやく広がってきている。

 ジェンダー論について書き出すと長くなるのでふれないが、自らの性自認がまず優先される世の中にしだいになっていくのは、まさに時代の流れであろう。
 自分が男か女かを決めるのは、戸籍謄本ではないし、同じく日本人かそうではないかを決めるのは、同様に「国籍」ではないのではないか。
 では、それならば、いったい何がそれらを決定づける素因というか、いちばん大事なことなのであろうか。※長くなるのでもう一回書き足したい。もしご関心あらばつまらないことだろうが続きをお読みください。