さあ、2月。春はそこまで2020年02月01日 07時57分41秒

★弱気の虫と自己否認を乗り越えて

 というわけで、今年一年間、毎月開催していく「月刊・共謀」コンサートのまず初回、一回目は終わった。
 そしてのんびり息つく間もなく今月末の第二回目へと駒を進めなくてはならない。終わったことをあれこれ悔やんだり思い返している暇はないわけだが、どんな様子であったか、誰がどのように出たかぐらいはきちんと記録しておかねばならないだろう。
 それで、出演された方々の画像は各自最低一枚づつは載せて拙ブログで「報告」をし終えた。ついでにそこに短いコメントもつけてと思い、書きだすと我のことだからついついまた長くなり余計なことまで書いてしまう。
 そんなで終わってから一週間近くかかってしまった。むろん父の在宅時の介護の傍らだからちまちましか進められない。
 そしてその作業や関係者とメール連絡しながら自問もしてしまう。いったい俺は何をやっているのかと。

 自分がやっていることが正義だとは思わないが、多少は意義ある、価値あることだという思いはある。それに関わったことで、誰かが喜び、少しでも何かの役に立てばまさに幸甚である。※いや、それ以前に、コンサートを企画することは面白く、好きな音楽で、好きな人たちと一緒に何かやれることはとてつもなく素晴らしいことだ。

 でも逆に、結果として誰かに面倒かけたり心配させたり、時に怒らせ不快な思いにさせたりもするのならば、それはすべきことだったか、という自問が常に湧いて来る。
 我は躁鬱気質ではないと思うけれど、モノゴトがうまく進み高揚しているときは、やって良かった!!と思うけれど、それが一たび失敗すると、やはりダメだったか、自分の責において失敗に至ったと鬱々と自問する。
 そうした弱気の虫、つまり自己否定というか、何やってもダメだと否認の気分と、いや、そんなことはない、と自ら叱咤して頑張ろう!、頑張らねば、という気分とが振り子のように振幅をもって常に揺れ動いている。
 そうした「弱気の虫」が前面に出て、つい書いてしまったブログの回も多々あるし、自らを励ますがためにもあえて虚勢をはったように、「前向き」のときもまた多いかと思う。

 まあ、我のダメはダメとして、背が低いとかと同じように、先天的なものなのだから、それを踏まえてうまくその条件下でやっていくしかない。例えば、背が低い者が、高い枝にある柿の実がとれないからといって嘆き落ちこむのは無意味なわけで、何か方法を考えるか低い枝にある別の実を捜すしかない。ときには背の高い人が通りかかったら頼んで採ってもらうことだってできるかもしれない。

 そう、自分一人で何もかもやれなくたって仕方ないのである。時に誰かに頼ったり、お任せしたりもできるかもしれないし、結果としてできずに失敗してもまたそれはそれで全ての「現実」なのだから受け容れるしかない。

 こうした画像や映像の記録もできる範囲でやって、ときに失敗したりしてもそれはそれで仕方ない。完璧にやろうと考えると苦しくタイヘンになるし、うまくいかないとまた自分を責めてしまう。
 いちばん肝心なことは、そうした我の「気分」の良し悪しではなくて、いかに公的・世間的に呼びかけて始めたこの毎月開催のコンサートが無事に滞る事なく、今年一年開催し続けられるかだ。
 ならば、あれこれ事前も事後もあれこれ思いも事後処理にも囚われることなく、できるだけシンプルに簡便にいかに粛々とやっていけるか、だけだ。

 我は何でもタイヘンに、面倒に考えてじっさい結果的に何でもそういう風にしてしまう傾向、性格であって、前からぼけまる氏をはじめ多くの友人たちから指摘されご心配おかけしてきた。
 できるだけ考えないというわけにはいかないと思うが、あれこれ考えずに、昔流行った言葉を使えば、「書を捨て街に出よう」という気分でやっていかねばならない。それこそが人生の処方であろう。何でもまず動いてみて、あれこれ「考える」のはその後にしていくことだ。
 まあ、一つだけ問題は、我の職掌が、その「書」に関わる事だということだけだが。

 ともかく、一週間があっという間のように、一か月もあっという間に終わる。今日から2月。ならば、一年だってあっという間だろう。
 その一年間の中で、どれだけ最良のことが我はできるかだ。

 今朝も晴れた。まだ朝晩はかなり冷え込むが、今年は暖冬、次回、二回目の「月刊・共謀」コンサート開催日の頃には、もう春本番となっていることだろう。
 春はもうすぐそこまで来ている。そう信じて、良い季節に向けて焦らず諦めずに歩を進めていく。
 まだここで終わるわけにはいかない。