嗚呼‼志村けん! 同時代を共に生きた人の訃報に思う2020年03月31日 10時35分44秒

★誰が彼を殺したかとか考えてはならない。

 志村けんが亡くなった。コロナウィルスに殺されたとして、若者たちの間でもその感染の怖ろしさを啓蒙する、感染拡大防止の「象徴」となった。
 そして昨日は、ファン、芸能人のみならず世界中から彼を追悼する声明が出され、改めて彼の存在の大きさと死の衝撃の大きさを知らされた。
 彼の身体を張ったギャグは広くアジア各国でも認知され高い人気があったことを初めてその死で知らされた。※しゃべくり漫才では日本でどれほど人気を得た者も海外では吹き替えたとしてもまず通用しないであろう。言葉の壁を越えた彼独自の「動き」のギャグだからわかりやすく世界中で愛されたのだ。
 そう、我も昨日の昼のニュースで訃報を知り、昨日は一日中ずっと彼のことを思い出していた。様々な感慨が湧いた。

 追悼している昨今人気ある芸能人たち、ファンの皆さんは、多くが皆同様に、彼を見て育ったとか、大人になったと語り、いかに当時のドリフターズの公開番組が子供たちに広く絶大な人気があったか今さらながら窺える。
 だが我は、そんな彼らよりもっと年寄りだから、ややその感慨は異なる。むろんその頃はドリフの放送は毎週欠かさず家族で観ていたし、こんなに笑える面白いテレビがあるのかと感嘆した記憶が今もある。
 当時はコント55号も笑えたし、その後の漫才ブームもかなり面白かったはずなのだが、それは今思うとそのときの一過性でしかなく、あのドリフの身体をはったダイナミックかつ多彩なギャグの詰め合わせセットと比べると今はほとんど何も思い出せない。そう、ドリフはともかく楽しかった。その思い出は今もまったく色褪せやしない。

 我は、うんと幼い頃、ドリフではなくクレージーキャッツからテレビで見始めて、その流れでドリフが荒井注を加えた五人組で本格的に活動開始した頃から知っている。
 ※志村けんは、注の脱退前に、番組内でもう一人の相方?と時おり「お試し」で登場してきたのだ。そして彼は替わって正式メンバーとなったわけだが、当初は、楽器のできない若造が入って大丈夫なのかと違和感と危惧すら覚えた。

 今だから書くが、まず最初は映画で彼らドリフターズを知って、明朗快活な超才人集団クレージーキャッツに比べて何て暗くつまらない奴らだと当初は呆れ果てた記憶がある。だが、テレビの公開放送で彼らは子ども相手にまさにブレイクしたのだ。
 その頃のことから書こうと思ったが、絶対に長くなるし、またの機会に回すとして今書くべきは亡くなられた志村けんである。特にその死の意味だ。

 ウチの近隣、東村山の人である。我の幼馴染の父親が小学校の教頭先生で、その関係から、志村の父もまた厳格な教師であることはデビューした頃から知っていた。その父たちの集合写真すら見せてもらい、そんな教頭センセイの息子があんなバカなことをやっているのか!と驚き感心した思い出もある。
 哀しみと共に様々な思い出や感慨が次々湧いて来るが、思えば約半世紀、ずっと「そこ」にいた人が突然亡くなった戸惑いに今はまだそれを整理して書くところまで気持ちが落ち着かない。
 さておき、各界からたくさんの追悼コメントの中に、「私が志村さんを殺したのかも」という自責のようなツイートも見かけた。そしてまずはそれについて 我が思うことを書くことにした。
 
 人の死は、常に哀しみや嘆き、つまり悲哀、悲嘆と共に、憤りのようなやるせない怒りを伴うものだ。
 コロナウィルスが原因で、誰かある人が死んだ、命を奪われたとして、それをうつした人、つまりウィルスを運んできた人、感染源だと推定された人が、その死の原因だと指弾されてはたまらないだろう。
 また家族や友人知人、あるいは職場などで密接な関係にあった人からうつされたと判明したとしても、その「感染源」の人を恨んだりしてはならないと思うし、ときにそのうつした当人は回復したのに、うつされた側の人が万一亡くなったとしてもそこで誰にも責任は問われるべきではないはずだ。感染というのはまず無意識、無自覚の上で起きたことであり、その感染源の人もまた被害者なのだから。

 ただ人間の感情として、うつした人、ウィルスをもたらした人は、亡くなった人の家族等からすれば、「あの人が――、あの人のせいで」とその悲しみからのやるせない気持ちが転じた怒りを向けられるかもしれない。
 また、そのウツシタとされる当人も、自分のせいで、あの人は死んでしまった、自分が殺したと、自責の念に苛まれるかもしれない。
 「濃厚接触者」の特定は感染拡大阻止に向けてきわめて重要なことだが、それが判明し世に知られるとまたそこでその人に対して世間から白い目で見られたり差別を受けたり糾弾されることも多いのではないか。我も近しい人を死なせて似たような経験とその自責の意識をもったことがある。

 だが、こうも考える。人の死とは、あくまでも個人的なもので、そこにウイルスがあった、持ち込まれたとしてもうつる人はうつるし、感染しない人はうつらない。それで感染しても重症化する人は死ぬこともあろうし、存外カンタンに治りすぐに回復してしまう人もいるはずだ。このウイルスの致死率は特別に高くはない。
 それだけのことであって、もしそこで死者が出たとしてもその「死」の責任は誰か個人に向けられてはならない。絶対に誰かの責任に転化してはならない。誰が殺したとか、私が殺したのかもという言質は真に慎むべきである。
 ビートたけしが、志村が感染し入院中のときに、いみじくも感想として率直に語っていたが、「運の悪い人がロシアンルーレットのように・・・」、というのは実際のところ正しいように我は思える。
 
 聞けば、志村けんは長年の多量の飲酒と、喫煙で肝臓と肺など身体はボロボロだったらしい。喫煙は先年肺炎で入院して以降やめていたとのことだが、やはり今回死に至らしめるだの負荷は間違いなく与えていたはずだ。
 今回の突然の彼の死は、誠に残念で痛ましく悔やまれるが、コロナウィルスがその引き金を引いたということだと我は考えている。むろん感染しなければ、今も健在であったことは間違いないことだが。
 そして誰もがよりいっそうの感染拡大防止に向けて注意喚起は必要なことは言うまでもない。

 ともあれ、あくまでも「死」とはその人だけのものだ。故意の殺人事件はともかく、特にこうした感染症の場合は、死の報に、誰か他者がしゃしゃり出て死んだ当人に代わって、誰々があの人を殺したとか何々のせいであの人は死んでしまった、と迂闊に騒ぐべきではない。
 それこそがモノ言えぬ死者を冒涜することだし、死んだ人もまた自分の死によって悩み苦しむ生者が生まれたらば浮かばれまい。
 そう、志村けんもまた。
 
 けんさんお疲れさまでした。最高かつ真のお笑い芸人でした。本当に大好きでした。今さらながらですが。。。彼の魂に平穏と安らぎを。合掌

都知事は、行くなと名指しした業種の店舗への減収補償を確約すべきではないのか2020年03月31日 21時51分53秒

★感染拡大防止のためとはいえ・・・

 小池都知事は、昨晩、何だかその必然性がよく分からない緊急記者会見をまたもしてその場で、コロナウィルスのさらなる拡大感染抑止のためとして今後は夜間の外出と同時に、大人にはバーやナイトクラブなど店舗の利用、若者たちには、ライブハウスやカラオケボックス等の利用を当面は自粛するよう呼びかけた。
 つまりそうした場、その業種のお店には利用者は行くな!ということだが果たしてそれだけですむ話か。

 確かにそうした密室、密接した交際、さらには人が密集する場は、ウィルス感染が起こりやすいことは誰でも理解できる。
 が、では、その誰もが利用を控える期間、その業種、都知事から名指しされた、例えばカラオケボックスなどは利用者激減して収益減少は当然確実となるわけで経営者及びそこで働く人たちはどうやって喰っていけば良いのだろうか。都知事はそれをどこまで考えたうえで口にしているのか。
 自粛を呼びかけるのはたやすい。確かに日々感染者数がウナギ登りの現在、抑止の可能性あることは都民及び国民は何でもすべきであろう。もはやそれしか打つ手はないのかと我すら考えてしまう。
 が、誰にもまず生活がある。そうした店側は利用者が激減し結果として給与が滞ったり、あるいは倒産、解雇されて無収入となればコロナ以前にそのお店の関係者たちは全員生きていく道を断たれてしまう。どうしたら良いと言うのか。都知事は何も言っていない。都として独自の支援も「考える」とか報じられはしているが具体策は何もわからない。

 その種の店には行くな、利用するなと名指しで強く「自粛」を呼び掛けるのならば、名指しした業種の店舗には、都が責任もって減収額の補填・保障をまずすべきではないのか。そうしないで単に利用者側だけに行くなと自粛を呼びかけるのはあまりにも無責任な話だと憤るのは我だけではあるまい。
 つまるところ、都も国もこうした無責任な自粛「要請」は、そこにそのときの経済的減収の「責任」をそもそも取る気がないから故で、あくまでも「要請」という名で責任回避し逃げているに過ぎない。

 が、そうしたやり方では、誰もがやがて従わなくなろう。補填なければ、休業も含め要請を間に受け自粛して自ら困窮を望む者はいなくなるはずだし、利用者、客側もやがて近くその要請に従わなくなっていく。
 先の戦時中も統制経済となったものの、庶民の多くは、その裏で「闇」で売買して物資は横行していたし、自ら買い出しにも出向いて政府の意のままには決してならなかった。
 同様に今回はっきりと業種を名指しして、利用を控えるようにと口にしたのだから、その責任を小池都知事は取らねばならない。このままでは誰も大人しく自粛を続けなくなる。

 私的には、都に対して、この期間、ライブ等イベントを予定していた都内のライブハウス、及び予定のあったライブが出来る場全部に対して、大小の規模は問わず、店舗ごとの経済的損失をきちんと補償、補填すると公約すべきだと我は求めたい。※さらにはその中止となったライブの出演者などミュージシャン、スタッフなど関係者すべても同様に、なのだが今は話を広げない。
 要は、金の問題なのである。東京五輪も、あれだけ予定通りの開催に拘ったのも、「延期」までして夏に開催したいのも全ては「金」の問題であるし、コロナウイルス感染拡大抑制もまた「金」に裏付けされなければ効果はあるまい。

 残念ながら人の命の価値も金で動く世の中なのだから、個人の経済的損失をできる限り国が埋めないかぎり、このウイルスは簡単には終息しない。金さえあれば安心して国民はどんな困窮にもじっと我慢もできよう。
 我もだが、先が見えない不安というものは、実はお金からの不安に裏打ちされているのである。つまりこのまま手持ちの金でやっていけるのか、大丈夫なのかという不安は、自らにふりかかるコロナウィルス感染拡大の不安よりも実は大きいのである。

 政治家は都民、国民の不安に、「要請」を繰り返すばかりではなくきちんと向き合え。自粛のつけを支払え。