誰もが皆愛しき誰かのために・続き ― 2016年12月13日 18時04分29秒
★我にも新たな「誰か」との出会いを。
【前回の続き】
都会であろうと地方であろうと、街中の小売商店がなくなるのは昨今の風潮であろう。八百屋しかり、肉屋、本屋、酒屋しかり、昔から長く続いていた個人経営の商店が次々と消えていく。
代わって、駅前や街道筋にはコンビニが新たにでき、そこで弁当や酒類、雑誌、文具、生活雑貨など「とりあえず」のものはほぼ買える。
ゆえに都会では個人商店がなくなろうと大して困りはしない。が、地方、田舎では、シャッター商店街には開いている店はなく、コンビニに行くまでも車がないと行けやしない。
今、山梨県の山間部に暮らしてみて、生活するのに近くに商店がないことが最大のネックだと常々思う。むろん、インターの出入り口辺りには、広大な駐車場を持つ巨大スーパーやショッピングモールは出来ている。そこに行けばほぼ何でも都会にいるのとまったく変わらない品ぞろえのものを買うことができる。ただ、そこに行くには車がないととてもじゃないが行けやしない。
今、北杜市須玉の山里に仮住まいがあるわけだが、そこにたどり着くまで通り過ぎる、かつての須玉町の商店街は、さびれた酒屋や衣料品店、床屋は数件やってるのが見られるが、肉や魚を扱っている食料品店はただの一軒もない。かろうじて食堂も一件だけはある。
しかしこの町にも人はまだ住んではいるので、いったい皆さんどこで買い物しているのかと訊くと、山のふもとに位置する、インター口近くの地域スーパー「やまと」を利用するのだと言う。
じっさい須玉の町には、やまとしか生鮮食料品を扱う店はなく、そこは夜遅くまでやっているので、年寄りたちは誰か車の運転ができる人に頼んで乗り合わせて買い物に行き、まとめ買いしてくるらしい。
この八ヶ岳山麓には、他にもいくつかJRの駅と駅前商店街を持つ町が点在しているが、我が須玉がいちばん何もなく、最寄りの駅辺りには商店街すらない。そもそも「駅前」がない。住民は仕方なく車でスーパーやまとに行くしかないのだ。
ちなみに我が古民家からそのスーパーまでは約5キロ。麓まで山道を上り下りするからとても自転車では行けやしない。車でも15分はかかる。
都会でも同様だが、まして地方、田舎では近くに食料品を扱う店がないことは死活問題であり、我も行くときは韮崎のスーパーや「やまと」で、しこたま食べ物を買い込み持ち込んで行く。
※今はネット通販で、どこにいようと本やCD、衣料品、雑貨をはじめ大概のものは宅急便で配送してくれる。しかし、問題は生もの、生鮮食料品であり、それは冷凍のはともかく、やはりどこかの店に出向かないと手に入らない。
そんな八ヶ岳山麓で、肉や魚、パンなど、高級食材が何でも手に入るユニークなスーパーがあるときき、前から行きたいと思っていた。それが「ひまわり市場」であった。この辺りは個人商店はやってても夜は6時には閉めてしまうことが多いから夜8時までの営業は有難い。
観光案内所などで無料で配布されているこの地区のタウン誌、情報誌の地図をたよりに今回初めて訪れた。ウチからはさらに八ヶ岳山麓を北上し車で30分ほどだった。都会の感覚ではかなり遠いがコチラではまあ、近所である。
噂通り、そこは山中でも新鮮な魚や上質な肉類、その他手作り高級パンなど、意欲的な品ぞろえのわりと大きなスーパーで、やや全般的に値段も高いが、この地区にこうした専門的食料品店があって本当に有難いと思った。一言で言えば、多摩地区でいえば、三浦屋とか、紀伊国屋、成城石井を思い浮かべてもらえば想像つくかと思う。地元産の野菜や食材以外にも各地から良質なこだわりの食品を意欲的にそろえて並べている。
聞くところによると、別荘族向けに始めたらしい。まあ、軽井沢ならこうした高級食料品店はいくらでもあるのだろうが、ここは八ヶ岳なのである。冬などなかなか来る客も少なく経営は難しいかとも思うが、何しろこうしたスーパーは他に一つもないのだから、何とか続いてもらいたい。
そこで我は半額になっていた惣菜とパンなど数点買った。全国各地から取り寄せたお菓子類も充実していて、安全かつ手作りの自然食品も揃って心惹かれる食材も多々あった。誰か女の人を連れてきたらきっと喜ぶだろうと思った。
帰り道、真っ暗な道を車で下りながら、この店の事を誰かに話したりここにまた誰か連れて来たいなあと思った。が、前ならば、まず第一に戻ったらすぐに「報告」していた母がいないことを思い、愛しき女友達も既にいないわけで、もう誰にも話すことも誘うこともできないのだと気がついた。
人は、例えば旅先で、感動する様な風景を見たり、美味しいものを食べたり、特別な体験をすると、それを「誰かに」伝えたい、話したい、願わくば追体験させたいと思うものだ。
それは観た映画だっていい。とても面白く、感動したならばそれを誰かにぜひまた観てほしいと思う。
ただ、それは、どこの誰だってかまわないというのではなく、感動が大きいほど、ごく親しい、愛しく思う人に伝えたい、分け与えたいと願うはずだ。
我にとってまずそれは、母であった。そして何人かの親しい女友達や友人たちが続く。その母を失い、また、恋しく思っていた人をも失くしてしまうと、たとえば、こんな「ひまわり市場」に行ったこと、見知らぬ土地に行き、体験したことや感動したことを、伝える相手がいないことに気づかされた。
そして、人は誰もがそうしたこと、ごく親しい、とても大切に思う愛しい人、誰かのために、その感動を語り分け与えたいと思っていることにも気づく。
とても美味しいものをまず一人で食べたら、これを、あの人にも食べさせたいと考える。素晴らしい風景を見たら、それもあの人を連れて来て、二人で見、その人にも感動を与えたいと思う。
お歳暮やお中元ともなるとそれは儀礼でしかなく、単なる双方の思惑のやりとりでしかないが、本来、プレゼントとはそうしたものてばなかったのか。クリスマスのそれだって同様だ。
自分が体験した感動を誰か大切に思う特別な人に伝えたい、追体験してもらいたいと誰もが願う。世界を動かしているのはそうした思いではないのか。
人は愛しき誰かのために。
今、我にはそうした人がいない。いや、友達なら何人かいる。誘ったり、何かを送ればそれなりに喜んでもらえると信ずる。それは嬉しい。しかし、本当に伝えたい、共に追体験して感動を分かち合える人はもういない。それが淋しい。そして少し哀しい。
街灯など一つもない真っ暗な県道をハイビームで車を走らせながらその思いに心塞がれた。寒さが今年は特に辛く厳しいと思うのは我が心と深く関係しているのかもと。この淋しさはいったい何だろう。
まだ見ぬ、我が思う愛しき誰かと、いつか会えると信じて、諦めずに生きて行こう。この思いをその人に伝えたい。
【前回の続き】
都会であろうと地方であろうと、街中の小売商店がなくなるのは昨今の風潮であろう。八百屋しかり、肉屋、本屋、酒屋しかり、昔から長く続いていた個人経営の商店が次々と消えていく。
代わって、駅前や街道筋にはコンビニが新たにでき、そこで弁当や酒類、雑誌、文具、生活雑貨など「とりあえず」のものはほぼ買える。
ゆえに都会では個人商店がなくなろうと大して困りはしない。が、地方、田舎では、シャッター商店街には開いている店はなく、コンビニに行くまでも車がないと行けやしない。
今、山梨県の山間部に暮らしてみて、生活するのに近くに商店がないことが最大のネックだと常々思う。むろん、インターの出入り口辺りには、広大な駐車場を持つ巨大スーパーやショッピングモールは出来ている。そこに行けばほぼ何でも都会にいるのとまったく変わらない品ぞろえのものを買うことができる。ただ、そこに行くには車がないととてもじゃないが行けやしない。
今、北杜市須玉の山里に仮住まいがあるわけだが、そこにたどり着くまで通り過ぎる、かつての須玉町の商店街は、さびれた酒屋や衣料品店、床屋は数件やってるのが見られるが、肉や魚を扱っている食料品店はただの一軒もない。かろうじて食堂も一件だけはある。
しかしこの町にも人はまだ住んではいるので、いったい皆さんどこで買い物しているのかと訊くと、山のふもとに位置する、インター口近くの地域スーパー「やまと」を利用するのだと言う。
じっさい須玉の町には、やまとしか生鮮食料品を扱う店はなく、そこは夜遅くまでやっているので、年寄りたちは誰か車の運転ができる人に頼んで乗り合わせて買い物に行き、まとめ買いしてくるらしい。
この八ヶ岳山麓には、他にもいくつかJRの駅と駅前商店街を持つ町が点在しているが、我が須玉がいちばん何もなく、最寄りの駅辺りには商店街すらない。そもそも「駅前」がない。住民は仕方なく車でスーパーやまとに行くしかないのだ。
ちなみに我が古民家からそのスーパーまでは約5キロ。麓まで山道を上り下りするからとても自転車では行けやしない。車でも15分はかかる。
都会でも同様だが、まして地方、田舎では近くに食料品を扱う店がないことは死活問題であり、我も行くときは韮崎のスーパーや「やまと」で、しこたま食べ物を買い込み持ち込んで行く。
※今はネット通販で、どこにいようと本やCD、衣料品、雑貨をはじめ大概のものは宅急便で配送してくれる。しかし、問題は生もの、生鮮食料品であり、それは冷凍のはともかく、やはりどこかの店に出向かないと手に入らない。
そんな八ヶ岳山麓で、肉や魚、パンなど、高級食材が何でも手に入るユニークなスーパーがあるときき、前から行きたいと思っていた。それが「ひまわり市場」であった。この辺りは個人商店はやってても夜は6時には閉めてしまうことが多いから夜8時までの営業は有難い。
観光案内所などで無料で配布されているこの地区のタウン誌、情報誌の地図をたよりに今回初めて訪れた。ウチからはさらに八ヶ岳山麓を北上し車で30分ほどだった。都会の感覚ではかなり遠いがコチラではまあ、近所である。
噂通り、そこは山中でも新鮮な魚や上質な肉類、その他手作り高級パンなど、意欲的な品ぞろえのわりと大きなスーパーで、やや全般的に値段も高いが、この地区にこうした専門的食料品店があって本当に有難いと思った。一言で言えば、多摩地区でいえば、三浦屋とか、紀伊国屋、成城石井を思い浮かべてもらえば想像つくかと思う。地元産の野菜や食材以外にも各地から良質なこだわりの食品を意欲的にそろえて並べている。
聞くところによると、別荘族向けに始めたらしい。まあ、軽井沢ならこうした高級食料品店はいくらでもあるのだろうが、ここは八ヶ岳なのである。冬などなかなか来る客も少なく経営は難しいかとも思うが、何しろこうしたスーパーは他に一つもないのだから、何とか続いてもらいたい。
そこで我は半額になっていた惣菜とパンなど数点買った。全国各地から取り寄せたお菓子類も充実していて、安全かつ手作りの自然食品も揃って心惹かれる食材も多々あった。誰か女の人を連れてきたらきっと喜ぶだろうと思った。
帰り道、真っ暗な道を車で下りながら、この店の事を誰かに話したりここにまた誰か連れて来たいなあと思った。が、前ならば、まず第一に戻ったらすぐに「報告」していた母がいないことを思い、愛しき女友達も既にいないわけで、もう誰にも話すことも誘うこともできないのだと気がついた。
人は、例えば旅先で、感動する様な風景を見たり、美味しいものを食べたり、特別な体験をすると、それを「誰かに」伝えたい、話したい、願わくば追体験させたいと思うものだ。
それは観た映画だっていい。とても面白く、感動したならばそれを誰かにぜひまた観てほしいと思う。
ただ、それは、どこの誰だってかまわないというのではなく、感動が大きいほど、ごく親しい、愛しく思う人に伝えたい、分け与えたいと願うはずだ。
我にとってまずそれは、母であった。そして何人かの親しい女友達や友人たちが続く。その母を失い、また、恋しく思っていた人をも失くしてしまうと、たとえば、こんな「ひまわり市場」に行ったこと、見知らぬ土地に行き、体験したことや感動したことを、伝える相手がいないことに気づかされた。
そして、人は誰もがそうしたこと、ごく親しい、とても大切に思う愛しい人、誰かのために、その感動を語り分け与えたいと思っていることにも気づく。
とても美味しいものをまず一人で食べたら、これを、あの人にも食べさせたいと考える。素晴らしい風景を見たら、それもあの人を連れて来て、二人で見、その人にも感動を与えたいと思う。
お歳暮やお中元ともなるとそれは儀礼でしかなく、単なる双方の思惑のやりとりでしかないが、本来、プレゼントとはそうしたものてばなかったのか。クリスマスのそれだって同様だ。
自分が体験した感動を誰か大切に思う特別な人に伝えたい、追体験してもらいたいと誰もが願う。世界を動かしているのはそうした思いではないのか。
人は愛しき誰かのために。
今、我にはそうした人がいない。いや、友達なら何人かいる。誘ったり、何かを送ればそれなりに喜んでもらえると信ずる。それは嬉しい。しかし、本当に伝えたい、共に追体験して感動を分かち合える人はもういない。それが淋しい。そして少し哀しい。
街灯など一つもない真っ暗な県道をハイビームで車を走らせながらその思いに心塞がれた。寒さが今年は特に辛く厳しいと思うのは我が心と深く関係しているのかもと。この淋しさはいったい何だろう。
まだ見ぬ、我が思う愛しき誰かと、いつか会えると信じて、諦めずに生きて行こう。この思いをその人に伝えたい。
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