亡き母の誕生日に思ったこと2016年12月09日 05時47分07秒

★夜明け前の闇の中で

 9日、金曜の早朝である。外はまだ真っ暗だ。今さっき、八高線の一番電車が走って行った。
 この数日、日中はケアマネや訪看さんや、出入りの人が来たり何かと慌ただしく、夜は疲れて早く寝てしまっていたのでブログ更新することもできなかった。
 昨晩も10時頃から倒れ込むように寝て、4時過ぎに目が覚めて、しばらくベッドの中で聖書とか読んでいた。で、起きだしてこれを記している。

 12月7日は母の誕生日であった。翌8日は、母が言うところの「大東亜戦争」が始まった日、つまり太平洋戦争開戦の日であり、ジョン・レノンの命日でもある。
 様々な思いがかけめぐる。
 戦後が70年過ぎて風化してしまえば、まして「開戦」の日のことなど誰も今の人は知らないしほとんどのメディアも取り上げない。
 日本は、大国アメリカへ、無謀にも軍事テロをこの日仕掛けて、結果として中国大陸で続けていた戦争以外にも新たにアメリカを敵国として迎えてしまい本土空襲、沖縄は地上戦の末占領、そして原爆投下へと破滅への道を突き進むのである。
 今の目でみれば、日本がアメリカに戦争を仕掛けることは、子供が大人に、しかも大男にケンカを売るようなものであって元より勝てるはずもなかった。時の指導者の愚かな選択と見識を嗤うのはたやすいが、その頃は軍部のみならず多くの人々の目と心が曇っていたのである。
 結果として日米の軍人のみならず多くの民間人、アジアの人々が戦禍に苦しみ傷つきその命も多数失われてしまった。
 どんなときでも常に変わらぬ「真理」は存在しているし、それに則して常に正しい判断をしないとならないわけだが、その実際のとき、「今」の時点では人はそれが見えずにたいがい判断を誤る。そして失敗を繰り返す。
 常にどんなときでも目先のことに囚われず予断を持たずに道を違えぬようにできたらと願うが、まずこの我が身こそそれは難しいことを痛感している。

 さておき・・・ 
 母が今も生きていればこの7日で87歳であった。9月8日に旅立ったのだから後三か月生きていてくれれば、とか、もう少し生かしておきたかったと考える。が、生かすも殺すもそれは神の意思、神の計らいだったのだと今は思える。我が、親を生かすというのは僭越であり驕りであった。
 もっとも若い歳で親を亡くされた方にすれば、86歳まで生きたのだから十分長生きだし、それ以上の長寿を望むのは傲慢、高望みだと批判されるだろう。
 しかし、母の父は88歳、母の母は百歳近くまで生きた長生きの血筋としては、本人も我も当然のこと、米寿、卒寿ぐらいまでは母は生きるものと思い込んでいた。さすれば年上である夫=我が父を先に送り、心残すことなく母も安心して旅立つことができたであろうに。
 今でも癌に侵されなければ、母はもっともっと長く、母の母の歳に近づくまで生きたと信ずる。まさに命を奪った憎きは癌である。
 こうした悔いはいつまでも残る。そしてもう取り返しがつかない、後戻りできないことであるならば、今さら思い悩むことは無駄であろう。
 大事なことはその「失敗」から何を学び、何を今後に生かしていくかだ。そしてその「失敗」の中にも少しでも「良いこと」を見出すことだ。

 思えば、それまで誰よりも元気であった母の身体に異変が起きたのは、ちょうど八十歳になった夏からだった。
 突然、原因不明の高熱が出て、それが収まったかと思うと、胃痛や腹痛が続き、しだいに食事が摂れなくなり痩せて来た。原因がわからずあちこちの病院にかかり精密検査も何度もやった。高名な漢方薬局にも通って薬も飲んだ。

 が、原因がわからぬまま食べられないため40キロ以上あった体重は30キロ近くまで落ち、手足には浮腫みも出て来て、顔には死相さえ現れて、ようやくかかりつけの立川の病院の内視鏡検査で、大腸に癌があることが発見され手術となった。癌によって腸が癒着してイレウス=腸閉塞のようになっていたのであった。
 しかし、その時点で衰弱がかなり激しく手術に耐える体力がないため、まず鼻から栄養を胃に流し込んで体力をつけてから開腹手術して、癌の部位と癒着した大腸をかなり長く切除した。
 それが2011年の春先のことで、母は、大震災を病室で迎えた。難手術であったが成功し、すぐに口から食事もとれるようになり、生死に関わる大手術だったはずなのに、母はあっという間に退院できた。

 それからも経過を見るために定期的に病院通いは続いたが、一度だけ抗癌剤はワンクールやったものの、以後、癌は沈静化しこの数年、まったく普通に、病気前の生活が送れていたのだ。
 今年は年明けから体調崩して、何度も入退院を繰り返したが、思えば、この手術後の5年間は、「おまけ」のようなもので、立川の病院で癌が発見された時点でかなり手遅れギリギリの状態であったことを思えば、80歳そこらで死ぬはずの人が、余分に86歳までは生きられたわけで、そう考えればもう十分に有難いことであったのだ。

 俗に癌は手術で一度は治ったとしてもまた3年後、もしくは数年すれば必ず再発されると言われている。清志郎もそうだったし、一度は「復活」できてもまた癌が再発しそれで助からないという事例はいくらでもある。
 その例に倣ってやはり母も再発した癌の前には無力で、闘い破れたわけだが、自宅での看護は大変であっても、この数か月の母との濃密な時間が与えられたことと、母の死を通して多くのことを学び得たことは我にとって財産と力になった。
 そのおまけの5年間をもっと有効に、迫り来る死を意識して大事にすごすべきであったと今にして気づくが、普段は癌のことは忘れてノンキに暮らせていたのだからそれはそれで良かったのであろう。元気で健康ならば、何も死に怯え日々の生活を彩られる必要はないのだから。

 我が親の死を通して学び得たことをいくつか記しておく。
 
 ⒈人は70代までは老いてもほぼ元気に普通の、それまで通りの日常生活は送れる。が、八十代に入ると確実に体調は衰えて来て異変も起こり得る。その覚悟を持つべし。

 ⒉癌は誰にでも起きるし、特に原因不明の高熱や体調異常はまず癌を疑うべき。すべての事には原因がある。異変が起きたら、収まってもそのままにしないで早めに必ず検査すること。

 ⒊そして、早期発見なら癌はほぼ治る。が、また数年後、必ず再発する。そしてそのときは、まず死ぬ。ならばこそ、復帰しても癌治癒後の人生こそ真に有意義に大切に生きなくてはならない。

 ⒋人の死は、残された生者を哀しまさせるだけでない。死後の「後かたづけ」に大いに煩わさせる。死者は生者を煩わすもの、と心得て、我自らも含めて、「死後」の後始末について、何がどこにあるか、亡きあとはそれをどうしてほしいか、日頃からきちんと書き記したり遺族にしかと伝えておくべきなのだ。死んだ後のことはカンケイない、知ったこっちゃないと考えてはならない。それも病んでからでは遅い。元気なうちに、だ。

 ⒌ゆえに、日々死を想って生きること。それは実際難しいが、人は自らも含め必ず死ぬという前提で、何事も捉えて生きて行かねばならない。

 もっともっといくらでも思い浮かぶが、大事なことは上記かと思える。ご参考になれば幸甚である。

 この我がいつまで生きられるのか、それは神のみぞ知る。たとえこの身が病に倒れなくても明日、不慮の事故で死ぬかもしれない。
 しかし、父母の事例に頼るならば、あと20年は、このまま変わらず、体調不良は常の事だとしても、普通の生活を何とか送れるはずだろう。
 ただし、八十代に入ったら何が起きてもおかしくない。死の覚悟をきちんと固めて、我の死後、我の負の財産で、親族を苦しめることのないように、その20年間のうちに、我が抱えているボーダイなガラクタ類をどうするのか手を打たねばならない。
 ある意味、我の残りの人生は、その「片付け」のためにある。

 ただ、無年金者としては、親たちの残してくれたささやかな財産を食いつぶしてしまえば、生きていく術はない。老いた独り者がどうやって日々何とかしのいで生きていくか、それこそが我の人生の最大のテーマとなろう。

 そのことも折々このブログが続く限り赤裸々に書き記していこう。我にできることはそのぐらいしかない。そう、赤裸々に。死の前には何も恥ずかしいことも隠すことも何もない。