映画「愛」とフォークソング「愛」2013年04月14日 21時06分28秒

★愛こそ全てであるわけだが・・・

 愛だけが人を動かし世界を変えていく。そのことに些かも迷いはない。
 ただ問題は自分にはその「愛」が不足していることで、古本「愛」はもとより最近では音楽愛、それもフォークソングについての「愛」も何だか嘘くさく思え自信がなくなってきた。となるといったいオレは何を愛しているのだろう。自己愛は誰だって持っている。しかしそれだけでは人は生きていけやしない。対象として何を愛するか、愛していくかだ。

 今日は自らが司会し企画した無頼庵フォークソング講座の日。一応2ないし3名の参加者はいるはずなのだが、常時来てくれる2名のうち一人が今日は体調悪いと開始直前連絡が入り、けっきょく一名だけ。なので話を先に進めるわけにもいかず、ギターの練習などはやって後は、撮りためたフォーシンガー達のライブビデオ映像などをテレビで眺めて懇親会もなしでお帰りいただいた。それもこれも自分の不徳の致すところである。

 三留まゆみさんの「映画塾」のほうは、回を重ねるごとに盛況で、羨ましくも不思議にさえ思う。が、考えてみると、音楽、それも自らも表現できるフォークソングと観る映画は同列におくことも語ることもできないと気づく。つまり、「映画」というものは、最初から愛する対象が決まっていて、存在してあるものなのだ。だから好きなそれを愛し、熱く語ることはできる。そうした同好の士も数多いる。

 しかし、自分のやろうとしている「フォークソング」に関してはよほどの研究者のような目的意識がない限り、別に集って語るほどのものではない。人気あるシンガーご自身が語り唄う集いならばそのファンは集まろう。しかし、純粋にフォークソングとその歴史について皆で勉強し直すようなワークショップ、それも無名の講師の企画など人が集まるはずがない。
 何故なら、「うた」など誰だって誰でも自ら唄えば良いだけのことで、その表現手段は語り集うことではなく、個人的にもすぐ始められることなのであった。つまり自らが唄い出せば済む話であって、そこが映画という、ある作品を通して皆が語り集うことができる対象とそもそも違うのであった。

 宝塚のように、「音楽」でもその対象を強く愛しファンが集い語り合えるものもなくはない。が、フォークソングとはそもそも民衆が自ら実践すべき表現行為なのであって、それは熱く語る「作品」ではなくもっと身近な個々のものであった。人気シンガーならきっとファンの集いとかそんな場があって、たぶん映画と同じく皆で各々その魅力を語るのかもしれない。でもそれはごく稀であり、改めて気づいたことは、音楽=うたとは聴くもの、自らも唄うものであり、映画は、観るもの、かつ語るものなのであった。映画の表現行為とうたの表現行為はそもそもが違っていたのだった。この企画始めてみてわかったことだ。
 ゆえにフォークソング講座など人は集まらない。むろん、その根本原因は自分の不徳の致すところ、あらゆる「力」の無さが原因なのはわかっている。だからと言って、幸い一人でも参加者が来てくれるかぎり続けていく。衆寡敵せず、でかまわない。

 今の時代は名のあるシンガーが出るフォークコンサートだって客が入らないのである。ならば人は集まらないというのが前提としてやっていく。そのうえで、自分のこの小さな手のうちにもささやかでも「音楽」はある。心に流れるメロディーがある。それを来てくれた方と語り合いたいと願う。

カセットデッキを修理に出した。2013年04月15日 22時09分18秒

★高速で、藤野のアナログ修理工房へ

 今日は昼から、うっとこのプロデューサーでんでん氏の依頼で、以前記事にした藤野の、アナログ家電なら何でも修理してくれるシゲさんのお宅へ共に行き、壊れて鳴らないオーディオ機器を何台か預けてきた。

 前回は、双方初めてで、やや緊張もしたが、皆互いに共通の友人知人もいることもわかって二度目でもあり話がはずみついつい何時間もおじゃましてしまった。
 直るかはともかく、もうメーカーでは交換パーツもない、修理対応期間を終えたとして受け付けてくれない機器をともかく診てくれるのだから実に有り難い。
 今回自分が持ち込んだのは、以前愛用していたディアックの高級カセットデッキで、知る限りカセットテープを鳴らすのには最良のデッキで、何としてももう一度使えたらと長年捨てずに保存していたものだった。
 その機種は、カセットの走行が安定するよう、スタビライザー機能で、テープをがっしり押さえつけるというシステムで、ガタガタ、フラフラ、カセットが動かないので音もすごく良くなる。カセットとはおもえないほどの音質だったと記憶している。
 それが修理不可能のときのため、もう一台ソニーの中級機も持ち込んだからどちらかは使えるようになるだろうと期待している。

 カセットテープのデッキは持ってなくはない。ただ、音質が良くなく走行性もややムラガあり、信頼に足りえなかった。何で今頃カセットかと訝る人もいよう。今パソコンに入れた音の波形処理ソフトを用い、古いアナログ音源を、レコードでもカセットでもパソコンに取り込んで、デジタル化する計画の途中なのだ。
 そのためにはカセットでもレコードでも手持ちの最良の機器で再生しないとならない。それをパソコンに取り込み、永久保存していくのであるから。

 今だって、カセットデッキの現行品は売ってなくはない。しかし中国製かタイ製で、鳴ることは鳴るがまったくおもちゃのような低機種でかつての国産高級機の足元にも及ばない。実は、タスカムの業務用、カセットテープ・CDレコーダーも持ってはいる。でもそれも肝心のカセットデッキ部分が安物過ぎて再生した音が良くない。ゆえにやはりデッキは旧い、壊れてはいても昔のが最良だと考え今回、でんでん氏がシゲさんの工房に行くとのことでついでに自分のも持ち込んだというわけ。

 内からは高速使えば1時間程度のところだけれど、上り下りの山道なので何だか今日はひどく疲れた。やはり高速道路は緊張もする。

商売とは顧客あってのものなのに2013年04月16日 10時10分51秒

★家電の修理とメンテナンスについて思う

 これもまた「時代」なのかと嘆きつつ、1円でも安く買いたいという消費者心理がいけないのだと自らも反省もしている。

 前回、もう修理がきかないオーディオ機器などを直したり調整してくれる仕事をしている人の話を書いた。相模湖の方に居を移した工房を訪ねて話をしてきた。
 まあ、それがオーディオアンプでもレコードブレイヤーでも販売・購入後何十年も経ってしまったものならメーカーが受け付けなくても当然であろう。壊れたとしてもその交換パーツを何十年も抱えていたら商売として成り立たない。だからこそこうした個人の、奇特なメカニックに長けた人の存在が有難く注目されている。

 使い捨ての本家・米国はともかく、西欧の感覚、特に訪れたことのある仏、独、英などでは知る限り、家電は壊れても何度でも修理して使い続けている。だからかなりの年代物でも今も車にしろオーディオに至るまで古いものが街中で家庭で現役であった。
 それは彼らがケチであると同時に物を大事にする精神、選び抜いて一度手に入れたものはとことん使い続けるという理念や伝統が歴史ある都市に住む人たちには根付いているという証かと考える。
 メーカーが修理対応しなくなっても街中には、家電の古いパーツだけ扱う専門店があったし、どんなに旧いものでも時計から車まで壊れても修理して使い続けていく、モノを大事にする精神と習慣は常識であった。

 翻ってこの国、戦後の焼け跡から復興し、高度経済成長を体験しGNPだけは世界有数の経済大国になった日本は、米国に倣って何でも使い捨て、買い替えの文化が根付いてしまった。
 三日に一度は新製品が出る、と揶揄されたほど、次々と新商品が登場し、しかもさらに価格は安くしないと売れやしない。結果、1円でも安く作り売り切るために、生産拠点は人件費が安い東アジアに移り、食べ物から衣類、生活用品、家電までバカ安大国となってしまった。そして買ってもらうためにモノの価格は競って下がり値崩れを起こし、当然品質は下がりよりさらに使い捨ての風潮は根付いてしまった。
 何でも新しく、しかも安く買えるならわざわざ古いものを直し、修理して使い続ける理由がない。

 アベノミクスでは、物価が上がることこそが景気回復につながるのだそうだが、その理屈が自分にはわからないし、モノの価格が上がれば消費者はさらに買わなくなることは間違いない。むろん給料や年金、収入が上がれば人は金を使えるが、現行のままではそれはあり得ない。
 長引く景気低迷で、近所の車の修理工場は、大忙しであった。知り合いでもある彼の話では、景気の良い頃ならすぐに廃車にし買い換えたような事故のレベルでもボディの破損など修理できるものならば買い換えずに依頼してくるらしい。
 でもそれは決して悪いことではないだろう。そうした修理、メンテナンス業はなくてはならないものだし何から何まで使い捨てにしていく文明には未来はない。もはや「高度経済成長」の時代ではないのである。

 と、長くなったが、なんでこんなことを書いているかというと、一週間前に修理に出した、東芝のパソコンがまだ戻って来ない。何も連絡ないのでついにシビレ切らして今朝方電話かけた。そしたら、壊れていたのはマウスだけで本体は問題ないとの返事。ならばマウスだけ新品に交換してすぐに戻ってくるはずだと誰だって考える。

 曰く、修理窓口のお姉ちゃんは、「そのマウスの交換のための部品が今なくて、注文しているのだけれどまだいつ入るかわからない、それが届いて修理できて、発送できるようになったら連絡する」とのこと。
 これがうんと旧い、発売から5年6年も過ぎた機種ならこの返答も納得できよう。が、そのパソコンは現行品の、去年の秋口に出た新商品なのである。今も量販店やネットでは販売している。そのマウス一つ、壊れたら修理センターには替えがないのだ。思わず絶句してしまった。

 おそらく生産国である中国から届くのを待っているのかと推測する。国産品でないから修理センターにはそもそも交換パーツがさほど置いてないのだろう。そりゃいくつもの機種を販売しているメーカーだから交換パーツなどの「在庫」は少なくしておきたい。しかし、たかがマウス一つなのだ。うんと特別特殊なパーツではないはずだしマウスなどどれも汎用性があると考える。それがパーツがないので修理が遅れているのである。

 けっきょく、一円でも安く作り売って儲けたいメーカーと、一円でも安く買いたいという消費者との駆け引きの行きつく先がこの有様だと考えてしまった。海外生産の安物だからすぐ壊れる。そして交換パーツすらメーカーにはない。
 今回は、幸い?買ってすぐに壊れたのでこちとらの出費は不要のはずだ。しかし一年間のメーカー保証期間を過ぎていたらいったいいくら修理代をとられたことだろうか。マウスなら他者の製品で代用もできる。本体のどこかが壊れたら場合によっては修理するより買い換えたほうが安いかもしれない。
 こうした使い捨て安物文明を作ってしまったのはメーカーだけの責任ではない。今自らも深く反省している。これは東芝を卑下し富士通を選べば良かったということではない。
 自分も含めたこの国の国民性を問題としている。


 ※【追記】と、書いたら午後になってその東芝の修理担当部の男性から電話があった。朝のクレームを受けて、それに応えてなのか怪しいが、ともかく一度今回は向こうにあるパソコン一式を返送したいと言う。本体は異常がないことと、壊れているマウスの交換部品が入るメドが立たないからとのこと。
 向こうは、有線のマウスがあれば本体は異常ないのでUSBで繋げば使える、その上で、交換部品が入ったらすぐに連絡するから、再度マウスだけを送ってほしいと言う。さすがに温厚な自分もキレた。

 代替のマウスで使えってえのはかまわない。が、何でまたわざわざ壊れているマウスをそのままウチに送り返してくるのか、代りが無いのなら、そちらに置いておいてパーツが届いて直ったら送り返せば良い話ではないかと反論した。直ってないのに返してくるのは意味がない。
 しかし担当の男は申し訳有りません、送り返すときは全部一式というこという決まりでして、それはできないと謝るばかりでラチがあかない。こちらもその対応は面倒で理解できないと強く出たら、上の者に訊いたらしくいったん電話を保留にしてから、ようやく、「新しいマウスが修理センターに入ったらすぐに送るので、その配送業者にそれと引き換えに壊れたマウスをそのとき引き渡す」ということで話がついた。それなら手間は一回だからと。それで一応了解した。

 正直、釈然としないが、マウス一つでいつまでもパソコンが帰って来ないのはさすがに困ってきている。有線のマウスも手元にあるので問題は特にない。が、たかがマウス一つでどうしてこう面倒な事態になってしまうのか、ちょっと理解に苦しむ。この会社の体質、あまりにもユルイというかだらしなさ過ぎると思うがどうか。
 自分もまた客商売に関わる者として、これでは顧客は付かないし、このメーカーの製品は購入しないと言っておく。松下と並ぶ、家電業界の老舗名門東芝、奮起を望みたい。

カセット、レコードのデジタル化やっていきます。2013年04月17日 23時16分41秒

★アナログ⇒デジタルへと少しづつでも

 趣味、というものをその人の興味や関心がもたらした行動及び結果だと考えるとして、ごく大まかに大別すると、運動系と文科系に二分できるかと思う。
 自らマラソン大会に出たり、山歩きをしたりとじっさいに体を使って何かする趣味もあれば、読書や音楽、映画鑑賞などの文化系のもある。自分は幼い頃から今に至るまでほぼ「引き籠り」のインドア派であり、スポーツと名のつくものは知的スポーツに至るまでまず関心がないし自らやることもない。オタクと呼ばれるのは不本意だが、生涯一文化系の好事家としてこれからも生きていくはずだ。

 と、当然のこと、若い時から「趣味」として、関わり結果集めてしまったモノを思いつくまま並べると、本、雑誌、レコード、カセットテープ、CD、ビデオテープ、オーディオ機器、ギター類というモノたちであり、基本的に整理も処分もできない性分ゆえ今もそれらはこの家や倉庫にあふれかえっている。
 そして残りの人生もゴールが見えてきた今、それらをどう「処理」すべきか頭を悩ましていることはこれまでも拙ブログでさんざん書いてきた。あの世まで持っていくことはできないのだから願わくば生きている間、それも体が動く間に処分すべきだと考えもする。が、部屋の片づけすら遅々として進まず、そうこうしている間にまたさらに本やCD、撮ったDVDなどモノはさらに増えていく。減るどころか増え続け増殖していくばかりだ。
 その「問題」は、原発から出続ける汚染水や除染した残土のように未だ出口、解決策は見えていない。無責任と謗られようが、おそらくほとんど何も片づけられぬまま早晩死んでいくのだろうとも思えてきた。

 先に挙げた、自分の持っているモノ、趣味の結果として集めたものたちは、CDやDVDソフトを除けばほとんどすべてがアナログのメディアである。自分は本やレコードのコレクターの端くれでもあったから、何にせよ元々アナログで出たものはアナログで持っていたいと考えて今もレコードも同じ音源のをCDでも持っていても処分できないでいる。
 前にも書いたが、すべてのソフトは、読めれば、聴ければ、観れれば良いのであれば「モノ」は不要のはずだ。しかし本やレコードなどは実体としての「モノ」も含めてのものであり、その目的や機能以外のところに価値があると信ずる。
 まあ、そんなことを言っていては永久にモノはなくならないし減りはしないで増えていくばかりだ。でもある世代の文化系の人ならばそうした気持ちはご理解頂けるかと思う。若いときに手に入れたレコードやカセットテープなどなかなか捨てられない人も多いはずだ。先日有難くもコメント頂いたT氏のように、カセットにはやはり同様の思いを抱いている方もいらして自分だけではないと意を強くした。

 ただ、アナログのものは、紙でもテープでも劣化していく。デジタルは永久不滅だとは思えないが、コピーしてバックアップしていけるが、本やレコードはやがて酸化し劣化しボロボロに朽ちていく。中でも一番の問題は自分で録ったカセットテープ類であり、もう40年ぐらい経つとテープは切れるは磁性帯は剥離するはで再生できなくなる。
 若いときに撮った1970年代のカセットテープなど今が再生できるギリギリのところかと思う。半世紀を超えてしまうのはどう考えても難しい。

 修理に出したカセットデッキが帰ってきたら、何百本もまだ手元にあるカセットテープを再生しつつパソコンに取り込んで、デジタルに変換していく。とてもその作業は今年中に終わると思わないが、貴重な音源を後世に残すべく、がんばりたい。

無頼庵映画塾、明日はブルース・リーの大特集!!2013年04月20日 17時29分37秒

★まだ残席あります。お気軽にご参加ください。

 寒い。外は氷のような雨が降っている。2月の気温だとテレビでは報じていた。政治が逆戻りしたのに倣ったか季節も逆戻りしたようだ。

 さて、寒くても予定通りすべきことは進めていこう。明日21日は月一、無頼庵での『三留まゆみの映画塾』だ。今回はブルース・リーの研究家をゲストに招いて、素晴らしきブルース・リー映画への愛とウンチクを存分に語ってもらう予定。

 今回は参加予約者がかなり多く、既に10数名は確定し無頼庵の空間はだいぶ埋まってきているが、まだまだ入れるかと思う。二度と同じ映画と話はやらないので、一期一会の気持ちでお時間のご都合がつくようでしたらどなたでもぜひご来場願いたい。

 参加希望者は三留さんのほうか、マス坊の携帯、もしくは当ブログのコメント欄に、メルアドなど連絡先を書き込みください。
こちらから返信いたします。
 マス坊の携帯 090-8175-8479

 明日も午後2時半開場 開演は午後3時から。

 参加費は、映画塾のみは¥1000.
        6時からの懇親会に参加は ¥1000.

合計2000円で、観て笑って呑んで食べて話してだらだらできます。まだ未体験の方はぜひぜひ三留まゆみが熱く語る、素晴らしき映画の世界をどうぞご体験、堪能ください!!

人は皆、話したい、語り合いたいのだと。2013年04月22日 02時22分55秒

三留まゆみよくしゃべること
★三留まゆみ映画塾3回目、大盛況!!

 おかげ様で、21日の無頼庵映画塾、20名の参加者で、まさに満席の入りとなり大盛況の内に終了した。イスが足りなくてあたふたするほど立錐の余地がないぐらいの参加者があり本当に良かった。これならば企画がい、やりがいがある。
 毎度の準備不足、不手際はどうかお赦し願いたい。

 それにしても・・・・ 回を重ねるごとに参加者は増え続け、それも毎回新規の方々、今回は遠く千葉や神奈川県大船のほうから来られた人もいて、本当に頭が下がる思いがした。こんな多摩の山間部に遠路お越し頂き申し分けない気持ちになった。
 ただ、もはや入場者、キャパは限界であり、もっと片づけて広くしておくつもりでいるが、主催側もいれると20名を越すともう身動きとれなくここがリミットだと気がつく。
 音楽ライブなら立ち見もありだし、音だけでもまあ楽しめるが、映画、映像はみんなで座って一台の大型テレビを見るのだからヘンな角度や位置が悪いとちゃんと観れないし楽しめない。
 また、受け入れる側、迎え入れる側でも、マス坊一人では料理などに限界がある。あの田川律ではないのでそんなにうまく沢山の人数まかないはできない。もうここいらがカツカツと深く思い知った。

 映画愛、と一言で括れば簡単だが、好きなものがあり、その対象について人は熱く話したい、共に語りたいのだとつくづく思い知った。部外者にとってはたかが映画であり、当事者たちにとってはされど映画、だからこそ映画なのである。映画こそすべてなのだ。
 その「愛」がある人たちが羨ましく思えた。また、それほど熱く語るべき、語れる対象があるのは素晴らしいことだ。ある意味こんな幸福はない。
 今の時代、様々な凶悪犯罪や信じられない理解できない事件が多々起きるが、そうした事件を起こす人は要するに「愛」がないのだと思い至る。愛すべき対象、熱く語るべき対象があれば人は暴力や支配、強制で人と向き合わない。愛=愛すべき対象がないゆえ犯罪を起こす。

 自らに問う、そんな熱く夢中になって語るほどのものが自分にはあるのかと。映画塾のたびにいつも考えさせられる。自分の薄情さ、酷薄さが情けない。まあ、せめてそうした場を提供することがせめてもの少ない愛の証だと自分に言い訳している。
 今度はあなたの「愛」の対象について聞かせてください。

 何はともあれ次回、4回目の映画塾、五月は、28日。ぜひぜひうんとお早めに予約いれてください。お酒と手料理も十二分に用意してお待ちしております。

4/28日、無頼庵フリーレコライブ・楽四季一生さんを迎えて2013年04月23日 18時44分25秒

★来週の日曜日、28日、バイオリン演歌の「試聴会」やります。

 さて、21日の「三留まゆみ映画塾」を終えたばかりであるが、その一週間後、また無頼庵では、バイオリン演歌師・楽四季一生さんを招いて、「試食」ならぬ「試録音」、初めての方には「試聴」会を行う。これはきちんとしたコンサートではないのでお金はとらない。入場無料、フリーである。

 大学などだと、受験生を試験前に招いて、大学内を開放してまずは来て見て体験してもらうフリー・キャンパス、オープンキャンパスという催しがある。あるいは、スーパーなどでは新食品が出ると、買い物客に、爪楊枝に刺して味見させたりする。まあ、そうした類の試みだと思ってほしい。それを音楽でやる。むろんそれにはこちらも下心もある。と言っても別にヘンな商品を売りつけたりしないのでご安心を。

 時間は午後3時頃から開始の予定。ただし、事前に申し込んで頂きたい。無頼庵とバイオリン演歌なるものに関心をお持ちの方は、どなたでも歓迎する。まあ、以前来られた方ならばフラッと遊びがてら来られてもかまいませんが。今回の「ライブ」、あくまでも「試し」のうたと演奏なのでご理解ご了承お願いしたい。

 例によって、終演後、皆で懇親会をやります。その飲食代として千円は頂ければ幸甚です。

 というわけで、ゴールデンウィークの初日、お時間のある方は遊びに来てください。

何故に今、憲法を変えるのか、変えねばならないのか・前2013年04月24日 00時20分57秒

★変えたい者にとっては好機が来たが・・・。

 久々に政治の話を書く。最近の自分の気持ちとしては、「カエサルのものはカエサルに」に倣い、その時々の政治や世相、社会時評についてはもはやコメントすべきではない、という立場をとっていた。

 むろん、政治や選挙はとても大事なものだが、それよりももっともっと大切な問題、深刻に考え取り組む問題も抱えていて、「政治」や社会問題に関心を失ったわけでもないしどうでも良いと軽んじていたわけではないが、あえて当ブログでは取り上げなかった。

 その訳を誤解を恐れずに書けば、社会は人間が築いていくものだが、世界は神のみ心のままに、であり、全てこの世のことは、3.11の大災害を見るまでもなく天命、天の計らいだと考えるようになったからだ。※断っておくが津波は天災でも原発事故は人災である。

 しかし、政治は我々が生きている制度や仕組みを定める根幹のことであり、「憲法」とはそのまた根源に聳えるこの国の在り方、存在理由そのものである。つまり一家にとっての「家訓」、会社にとっての「社是」、人にとってのアイデンティティーというようなものを変えるのであれば、それ相応の理由や手続き、全国民的合意が必要かつ不可欠なのは言うまでもない。だが、今の安倍内閣が押し進める「憲法改正」を見るに、なぜに今、大慌てで変えねばならない、変えやすくしていく、その理由が全く見えない。

 自分は、今の憲法が完全無欠な完璧なものと思わないし、改定することにもやぶさかではない立場をとる。しかし、それが「改正」にせよ「改悪」にせよ、1~2回の国政選挙で多数を得た政党や当選議員だけで「改定」への道筋をつけるのはあまりに拙速かつ傲慢だと考えるし何より今は国民的合意どころかその機運も全く高まっていないのだから極めて違和感を覚えてしまう。

 そもそも憲法をどう変えるのか、何故に変えねばならないのか、安倍総理はきちんとその理由を語っていない。
 現行憲法は米国に押し付けられたものだ、とTPP交渉参加を米国に無理強いされた者が口にするのは茶番であろう。戦後一貫して対米従属、米国の言うことは唯唯諾諾何でも受け入れてきた自民党が、「憲法」だけは押しつけられものだから変えたいと騒ぐのは理解に苦しむ。また、他の国ではちょくちょく憲法を変えているのだから、というのも全く説得力を持たない論。誰かのオカンではないが、「よそはよそ、ウチはウチ」なのである。ずっと変えなくて良かったのは良い憲法だったからではないのか。
 また、作られて年月が過ぎて現実に合っていないという論も疑わしい。憲法をその時々、現実、現況に合わせて変えていけば永久に腰の定まらない国家となろう。そんなふらふらした国は国際社会から相手にされなくなるだけだ。

 いちばんの問題は、変えたい、変えねばならぬと言う輩はいったい何をどう変えたいかはっきりと説明していないことだ。自衛隊を「国防軍」として、日本を攻撃および侵略しようと企む悪い国があらば、やられる前にやれ、と先制攻撃も辞さない、そのためには現行憲法が足かせとなる、ゆえに9条をなくしたい、と言うのならばそう公言すれば良い。つまり戦争がしたい、今の憲法では戦争ができない。だから戦争できるように憲法を変えるとはっきり言うべきだ。さすれば軍事産業は大もうけできる。原発もゼロにできないのは日本も核兵器を持つためにその技術とプルトニウムは手放せないからだ。

 それを奥歯にものが挟まったように、曖昧にしてともかく憲法を変えやすくするための法律をまず通そうとしている。そう自分には見える。政治家とは、先の総選挙のときも同じだったが、国論を二分する事案、問題にはあえて曖昧な態度をとる。本心を隠す。自民党は原発問題とTPPについては態度を明確にしなかった。そして選挙で大勝したとたん、原発推進とTPP交渉参加表明である。

 憲法「改正」とは何のための改正なのか、その意欲の裏を勘ぐるべきであろう。

何故に今憲法を変えるのか・中2013年04月25日 20時45分46秒

★国民は今すぐ憲法を変えたいと望んでいるのか。

 今、憲法改正への手続きとしてまず第96条を変えて、憲法を今より変えやすくしようという論が喧しい。
 しかし、前回も書いたことだが、何故に今憲法を変えねばならないのか、国民の多くはそれを望んではいないはずだ。というのも先の総選挙で、自民党は「公約」に盛り込んではいたが、国民はそれによって自民党を大勝させたわけではない。自民党の勝利は自らも認めたように、決して積極的な国民からの支持を集めたからではなく、低投票率と多数の政党乱立により、前回、大敗を喫したときより投票率、票数も下げたのに関わらず、漁夫の利でうまくして運良く得たものでしかない。
 じっさい、有権者の約四人に一人しか自民党には入れていないのだから、国民の審判を得て信託されたというのはおこがましい。そんな状況で大勝した自民党が維新と共に、憲法改正にやっきになっている。

 そして今、安倍政権はこの夏の参院選の争点に「憲法改正」を掲げようとしている。だが、国民の中に今どれほど憲法を変えることを求め願う層がいるのだろうか。明治の列強に押し付けられた不平等条約ならば当時の人民は皆、改正を強く求め声を上げていた。
 が、今、国民の間から早く憲法を変えてくれ、このままで困るから改正してくれという声は全く高まっていない。要するに安倍や石原新太郎ら右の思想の持ち主たち、先の選挙で独り勝ちした者たちだけが、この機に乗じて積年の念願をかなえようと意欲を示しているに過ぎない。
 
 憲法は神聖にして犯すべからずとは言わない。しかし一時の選挙で、しかも国民の総意で選ばれたわけではない議員たちによって、まず96条が変えられ、憲法そのものがやすやすと変えやすくされてしまうことに大いに危惧を覚える。
 
 そもそもどうして憲法をどう変えるのか、どこを変えなければならないかを語らずして、「変えやすくする」ことに躍起になるとはおかしな話ではありませんか。

全てが「有難い」と思わねば2013年04月26日 21時22分17秒

★ざっと近況など

 実はこの二日、また風邪で寝込んでいた。まだ微熱が残り、喉や節々も痛いが、大事には至らないで済んだかと思う。

 このところ、暑いんだか寒いんだかよくわからない日が続く。日中は晴れれば汗ばむほどの陽気となっても朝晩は意外にうすら寒い。
 大したことはやっていないが、映画塾などで人の出入りが多く、その支度も含めて疲れが出たのか、一昨日あたりから寝ていても寒くてたまらず、昨日になって喉も痛くはっきり風邪をひいたと認識した。

 実は昨日、今日と親たちもデイサービスで不在がちなので、溜まった要件を片づけてから、ギンレイに映画に行ったり、今晩は近く閉店する駒込のライブハウスに顔出す予定でいた。勇造さんが来ている。
 が、もう全部何もできず、何もかもあきらめた。昨日から葛根湯を飲んで、ただひたすら三度の食事以外は寝込んで汗かきつつ眠り続けていた。
 幸い、熱はどうやら下がり、ベッドに寝すぎて腰は痛いが、どうやら大過なく風邪はやりすごせたかと思う。今は喉の痛みも咳もない。ちょっとふらふらしているが。
 心配なのは、親たちに伝染すということで、老いて体力の衰えている彼らには高熱はすぐ命とりとなる。老人の死因の多くは肺炎なのだ。季節の変わり目ごと、寒暖の差には要注意なのだ。今のところ、彼らは無事のようだ。

 無理すれば、今日は都心に出て映画を見たりライブに顔出したりできなくもなかったかと思う。ただ、その無理がどう出るか、そのツケが怖い。明後日、日曜にはまたウチで、簡単な集いがあり、人が訪れる。
それがなければ無理もできたかもしれないが、その当日、こちらが高熱出していたらどうしようもない。

 今朝も犬の散歩はぼーとしつつも行ったが、夕方、5時過ぎの散歩のときは、たっぷり寝すぎたせいか、妙な感慨があった。刑務所から出たり、入院していた人が退院したときの気分とはこんな気持ちかと思えた。たった二日間、寝込んでいただけなのにすべてが目新しく思えた。

 間もなく大型連休が来る。その後も含めていろいろイベントは目白押しだ。が、もう焦ることなく、ともかく御身大事で、親たちの世話と家のことの傍ら、一つ一つ自分のやるべきこととてきることをやっていくしかない。「本の商売」のほうもそろそろどう対処するか結論を出さねばならない。
 無頼庵のほうも儲けにならない、趣味道楽ならば何も問題なく続けてはいける。ただ、その道楽と、自分の今後の人生をうまく照合し、願わくば少しは生活の糧としていかないとちょっと辛くなってきている。むろん、人がたくさん訪れてくれて楽しんで頂ければそれだけでうれしいし満足のはずだ。大事なことはその「先」である。そこから何が起きるか、生まれるか、続いていくのか、だ。

 何もできなくても時間だけは過ぎ、季節は足早に進んでいく。目に青葉、若葉の季節もすぐに終わり、間もなく初夏である。
 幸い、老親も老犬もとりあえずはまあ元気で、懸案のことなど悩みはなくはないが、今は特に不安や心配など心にかかる憂鬱なことはない。先のことを考えてあれこれ案ずればきりがない。ともかくまだみんな生きている。それだけでも有難い。今のすべてにかんしゃせねばと思う。
 焦るより一つ一つ、少しづつでもやるべきことをやっていこう。いつまた人生に不具合が起こるかわからない。それができるうちにだ。

 そうそう、修理に出していた東芝のパソコンは先日戻ってきた。そして昨日、問題のマウスも新品の交換品が届いた。今は何も問題ない。今これはそれで打ち込んでいる。
 これからこのパソコンを中心にさまざまな編集作業を本格化させていく。
 今日は東日本は春の嵐襲来とのことで突風や落雷が心配されたが、ウチの辺りは風は強かったものの雨もほとんど降らず大したことはなかった。幸いであった。