人はもっとうたい、語るべきなんだと2013年05月08日 21時03分59秒

★いろいろ遅れて申し訳ない。

 夜になってまた風が出てきた。うすら寒い。
 今回の風邪は、さほど悪化せず腰痛にも至らずに過ぎ去った感がある。でもまだ鼻の奥というか、喉が痛いし、昨日まで咳も残っていた。こう寒いと自分でなくても体調を崩す人が多いかと思う。季節の変わり目、ご自愛ください。

 ちょっと家庭内、私的なことでごたごたしていて、ゆっくりパソコンにさえ向かえずにいる。この数日を乗り切れば落ち着くはずなのだが、ともかく待つこと、やり過ごすしかない。

 インターネットの時代、人はネット上で、ハンドルネームを使って様々な出会いや情報を発信して人と関わりあっていくのだと思う。じっさい、三留さんのやっているフェイスブックだと、人伝てに、まさに「友達の輪」として次々と人間関係、交友関係が広がっていくのだという。
 そうして会ったことのない人とでも知人、友人、連絡先、となっていくのはすごいことだと思う。自分もそれに参加すればもう少しは、マス坊関連の企画にも人が来てくれるのかもしれない。

 自分もフェイスブックをやるべきか、やったほうが今後役立つのか迷う気持ちも出てきたが、今のところはまだこの読む人の少ないブログだけで書き続けていこうと思っている。まあ、どんなお知らせや告知宣伝をしようとそもそも無名の身ならそれを読む人自体少ないのだから世に広がっていくわけもないのである。
 でもそれはそれとしてその上で、知る人ぞ知る、と開き直って続けていくほうが自分には性にあっている。いまさら有名になりたいとか売れたいとか考えはしないし、それよりも関心はまったく別のところにある。大事なのは自己表現の完成であって、世俗的評価などはその後にくるものでしかない。
 広く浅く、世に知られるよりもごく少人数であろうともわかりあえる、こんな自分を受け入れて理解してくれる人たちと深く付き合いたいと願う。その人のためにお役に立ちたい。

 今は不義理の果てにずいぶん人間関係は小さくなったが、それはそれで淋しくてもずいぶん楽になった。来る者拒まず、去る者追わず、何を言われても構わないしどう思われようとどう扱われようと気にしない。どうせもうすぐ誰もが皆死んでしまうのである。せいぜい数十年の時間の中の話で、半世紀もすれば自分だけでなく、この同時代に生きた人たちすべて死に絶えて、有名無名問わずこんな人たちが生きていたこと、あれこれやっていたことなど誰一人知る者もいない。

 今の関心はただ一つ、自分はもっとうたいたいし、語りたい、書き記したい、そうしたいことが山ほどある。でもそれは、自分だけではなくて、映画塾などでの来客を見てもみな同じなんだと気がつく。
 誰もがそれぞれ自分だけの気持ちを語りたいし、歌いたいし、そうした場を求めている。うたうというのは、メロディをつけての「歌」だけではない。詩だって同じことで、ため息のようなそのときどき、日々の生活の中から口をついて出てくる言葉がある。
 そうした「表現」を大事にしていきたいし、プロとかアマとか関係なく、皆それぞれ自分だけのうた、語りたいことを持っている。それを聞かせてほしいし、その発表の場が求められているはずだ。

 自分ができること、すべきことはそうした「場」を設けて、出会いも含めてお膳立て、もしは裏方、世話役をすることぐらいだ。今度は近く「朗読詩」の催しをやっていく。メロディのない「うた」はもっと誰しも気軽に作れる、外に出せるものだと信ずる。うまい下手はそこにはない。あるのは人の数だけそれぞれのうたがあるだけなのだから。
 非力な自分でもそうしたことに関わっていきたい。他に参加者がなくたってかまわない。少なくとも自分だけはそうした「うた」をうたっていきたい。