無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティは今年も23日に ― 2015年12月01日 21時45分04秒
★当ブログの読者の皆さんもご参加ください。 アクセスランキング: 108位
人間のうたを唄いながら闘いを続けて行く ― 2015年12月02日 23時55分46秒
★まずは、12/5日の「反戦歌コンサート」にぜひご参加を アクセスランキング:135位
12月に入りました。今は明後日5日の、谷保かけこみ亭での「皆で反戦歌、労働歌そして生活のうたを唄おう」コンサート(以下反戦歌コンサート)、の準備で大わらわだ。
毎度のことながら年中あたふたと雑事家事、そして老親や動物たちの世話に追われている自分だが、特に一年で一番忙しくなる12月に、ライブイベントを企画してしまい、その多忙に拍車がかかってしまった。
が、この企画は来年夏の参院選までできるだけ数多く回を重ねて続けていきたいと皆で考えたので、やはり年内には二回目を何としてもやらねばならなかった。
うたの力で政治や社会など変えられないとは思っている。しかし、今の政治を日本を何とかしたいという思いを抱いてジレンマのような気持を抱えている人たちを繋ぎ結びつけることはできるはずだと信ずる。
うたには人の気持ちを一つにする力がある。ならば、そうした場をつくっていくしかないではないか。また、自らも「うた」を持って、そうした場、街角に出向いていくことだ。
形骸化した「うたごえ」運動や、イデオロギーに統一された人たちだけが集い歌う仲間内の「うた」ではなく、もっと誰でも開かれた場で、様々なうたを聴き、知り、そして共に唄っていく場をつくりたいと願う。
今さらだが、このところピート・シーガーという人の生き方が大きな意味を自分にとって迫って来ている。彼の生き方と彼の残したうたこそが、本当の「うた」なんだと気づく。
先年彼は、百歳近くまで生き大往生を遂げたが、生涯その生き方はぶれなかった。人は隣人のために、つまり民衆のために、そしてその生きて行く環境のためにもなすべきことを、守るべきことを歌に託してわかりやすいメロディーと歌詞で、どこでも唄い続けた。
晩年、国崎清秀氏と中川五郎氏とが二人で、ピート・シーガーの家を訪ねたが、そのとき国崎さんからマスダ君も一緒に行くか、と誘われたものの、当時はまだその偉大な人の真の偉大さがよくわからず、辞去してしまった。今でもそのことを思い出しては悔やむ。せめて一度生きておられる間に、そのご厚顔を見たかったと今思う。
しかし、彼のうたは今も我の中で、特別な意味と力を持ってこのところますます大きく強く確かなものとして存在するようになってきた。真の芸術、素晴らしい芸術とは、その作家、作者、作り手を失ってもまったく関係なく未来まで残り燦然と輝き、後の世をも照らすものだ。
だから拙くともこれからも我は国会前で、首相官邸前で、ピート・シーガーが残した数々の素晴らしいメッセージソング、「人間のうた」を唄っていこうと決意している。それは一人でもギターとハーモニカを抱えて続けて行く。
嫌がらせや迫害も受けよう。時代がもっと悪くなれば逮捕されよう。しかし、人として今の時代に生きている者として、なすべきことをやっていく。もしそこに仲間たちがいれば心強い。しかし一人でもやり続ける。
かのピート・シーガーも、1950年代は「赤狩り」に遭い辛酸をなめた。が、どんなときでも屈せず志を曲げなかった。
今月は19日の国会正門前の集会で。翌日20日は国立の一ツ橋大前での反戦辻ながしにも参加出来たらと。
今年はじめた自分にとってのこの「運動」、その12/5日にも、国会前で知り合った仲間たちが来てくれると連絡があった。ならば世間からは愚かにみられても無駄ではなかったのだ。
12月に入りました。今は明後日5日の、谷保かけこみ亭での「皆で反戦歌、労働歌そして生活のうたを唄おう」コンサート(以下反戦歌コンサート)、の準備で大わらわだ。
毎度のことながら年中あたふたと雑事家事、そして老親や動物たちの世話に追われている自分だが、特に一年で一番忙しくなる12月に、ライブイベントを企画してしまい、その多忙に拍車がかかってしまった。
が、この企画は来年夏の参院選までできるだけ数多く回を重ねて続けていきたいと皆で考えたので、やはり年内には二回目を何としてもやらねばならなかった。
うたの力で政治や社会など変えられないとは思っている。しかし、今の政治を日本を何とかしたいという思いを抱いてジレンマのような気持を抱えている人たちを繋ぎ結びつけることはできるはずだと信ずる。
うたには人の気持ちを一つにする力がある。ならば、そうした場をつくっていくしかないではないか。また、自らも「うた」を持って、そうした場、街角に出向いていくことだ。
形骸化した「うたごえ」運動や、イデオロギーに統一された人たちだけが集い歌う仲間内の「うた」ではなく、もっと誰でも開かれた場で、様々なうたを聴き、知り、そして共に唄っていく場をつくりたいと願う。
今さらだが、このところピート・シーガーという人の生き方が大きな意味を自分にとって迫って来ている。彼の生き方と彼の残したうたこそが、本当の「うた」なんだと気づく。
先年彼は、百歳近くまで生き大往生を遂げたが、生涯その生き方はぶれなかった。人は隣人のために、つまり民衆のために、そしてその生きて行く環境のためにもなすべきことを、守るべきことを歌に託してわかりやすいメロディーと歌詞で、どこでも唄い続けた。
晩年、国崎清秀氏と中川五郎氏とが二人で、ピート・シーガーの家を訪ねたが、そのとき国崎さんからマスダ君も一緒に行くか、と誘われたものの、当時はまだその偉大な人の真の偉大さがよくわからず、辞去してしまった。今でもそのことを思い出しては悔やむ。せめて一度生きておられる間に、そのご厚顔を見たかったと今思う。
しかし、彼のうたは今も我の中で、特別な意味と力を持ってこのところますます大きく強く確かなものとして存在するようになってきた。真の芸術、素晴らしい芸術とは、その作家、作者、作り手を失ってもまったく関係なく未来まで残り燦然と輝き、後の世をも照らすものだ。
だから拙くともこれからも我は国会前で、首相官邸前で、ピート・シーガーが残した数々の素晴らしいメッセージソング、「人間のうた」を唄っていこうと決意している。それは一人でもギターとハーモニカを抱えて続けて行く。
嫌がらせや迫害も受けよう。時代がもっと悪くなれば逮捕されよう。しかし、人として今の時代に生きている者として、なすべきことをやっていく。もしそこに仲間たちがいれば心強い。しかし一人でもやり続ける。
かのピート・シーガーも、1950年代は「赤狩り」に遭い辛酸をなめた。が、どんなときでも屈せず志を曲げなかった。
今月は19日の国会正門前の集会で。翌日20日は国立の一ツ橋大前での反戦辻ながしにも参加出来たらと。
今年はじめた自分にとってのこの「運動」、その12/5日にも、国会前で知り合った仲間たちが来てくれると連絡があった。ならば世間からは愚かにみられても無駄ではなかったのだ。
いよいよ明日、谷保かけこみ亭で「第二回反戦歌コンサート」 ― 2015年12月04日 22時11分56秒
★歌の力を信じて心を一つに アクセスランキング: 121位
12月に入り今年も押し詰まってきたが、明日5日土曜日、南武線谷保駅前の「かけこみ亭」で、「みんなで反戦歌、労働歌、そして生活のうたをうたおう」コンサートの第二回目が開かれる。
本日付けの東京新聞朝刊多摩版でも記事として掲載された。マス坊の、国会前行動の仲間たちも来てくれると連絡があった。いろんなことが少しづつだが結びつき、大きな力になっていく予感がしている。
大変な時代だからこそ、今、黙ってじっと不安な気持ちを抱えているのではなく、外に出て街中で、多くの人たちと語り知り合い共に考えていきたいと思う。ともかく、小さなことからでもアクションを起こしていく。
世界を変えたいと望むならばまず自らが少しでも変わらねばならない。誰かがやってくれる、無関心、政治を人任せにして来たツケがこの悪政を招いたのだ。
今こそ、NO WAR! NO BASE! 戦争させない!の思いをうたを通して訴えていく。
どうか一人でも多くの参加者を求む。時間は午後6時~9時頃。代金は、投げ銭制(カンパ)なので、貧者もお気持ちだけでお気軽にご参加を。
詳しくは、谷保かけこみ亭 もしくはマスダまで 090-8175-8479
12月に入り今年も押し詰まってきたが、明日5日土曜日、南武線谷保駅前の「かけこみ亭」で、「みんなで反戦歌、労働歌、そして生活のうたをうたおう」コンサートの第二回目が開かれる。
本日付けの東京新聞朝刊多摩版でも記事として掲載された。マス坊の、国会前行動の仲間たちも来てくれると連絡があった。いろんなことが少しづつだが結びつき、大きな力になっていく予感がしている。
大変な時代だからこそ、今、黙ってじっと不安な気持ちを抱えているのではなく、外に出て街中で、多くの人たちと語り知り合い共に考えていきたいと思う。ともかく、小さなことからでもアクションを起こしていく。
世界を変えたいと望むならばまず自らが少しでも変わらねばならない。誰かがやってくれる、無関心、政治を人任せにして来たツケがこの悪政を招いたのだ。
今こそ、NO WAR! NO BASE! 戦争させない!の思いをうたを通して訴えていく。
どうか一人でも多くの参加者を求む。時間は午後6時~9時頃。代金は、投げ銭制(カンパ)なので、貧者もお気持ちだけでお気軽にご参加を。
詳しくは、谷保かけこみ亭 もしくはマスダまで 090-8175-8479
コンサート大盛況のうちに終了しました。 ― 2015年12月06日 01時17分25秒
★今はこんなに疲れても
日付は変わってしまったけれど、本日5日の谷保かけこみ亭での「反戦歌コンサート」は、ほぼ満席の観客を迎えて無事終了いたしました。
全体として盛りだくさんの良いコンサートとなったと思います。出演者それぞれの熱のこもった素晴らしいステージが次々繰り広げられました。我、マスダの出番以外は皆さん本当に良かったと思います。企画者冥利に尽きます。
ただ、企画側からすると、何よりもこの我が個人的な部分においていつもながらトチリまくり多々の問題点が露呈したものとなりました。観客、出演者の方々にご迷惑おかけしました。今はまだ自己嫌悪に強く苛まれ申し訳ない気持ちでいっぱいです。今後の課題と言ってすますことは簡単ですが、身の程を知るべしでした。
こうしたあるコンセプトに基づいた企画は、単発はともかくも連続しては難しいものだと改めて思いますし、言い訳にもなりませんが、様々な制約やプレッシャーの中で、自分なりのベストは尽くせたと思います。
「思い」というものがたとえ歌に託したとしても即通じるものでないように、多くの人が集まれば、多くなればなったとしてそこに「思惑」の違いも生じるし、その「期待」になかなか応えられないものだと今つくづく思うしだいです。
東京新聞の情報記事を、ご覧頂き来てくれた人は、どんな思いで帰られたのか、答えのないことですが、ずっと問い続けています。
しかし人には誰にも思いがあり、その思いを示すのには、やはり行動しかありません。ならば毎度ながらの自らのダメさを抱えて、たとい失敗多々あろうとも何事も続けなくてはならないのだと、自らに言い聞かせています。
それもまた起きてしまったこと。ここで懲りて、撤収撤退の道を選ぶのではなく、この失敗もまた糧にして、次へと続けて、そのためにもさらに生き続けなくてはなりません。
なにはともあれ、こうした機会と場があってこそ、新たな出会いや貴重な再会があり、また新たな明日に繋がっていくと信じて。
昨日を 今日に繋げるために
今日を 明日に手渡すために ――笠木透
大変ではあったけれど楽しい夢を見させてもらいました。まさに夢の一夜となりました。改めてお手伝いしてくれたスタッフ、そして私の無理をきいてくれた素晴らしい歌い手の方々、来て頂いたお客様、そしてかけこみ亭とぼけまる氏にこの場ですが、深く深く感謝御礼いたします。本当に有難いことでした。
しばらくは家に籠って、疲れを癒したら、まずは今月19日の国会正門前へまたギター抱えて出向こうと思います。自分にとってのうたの原点の場に。我のできること、すべきことは何か、もう一度問い直すために。
日付は変わってしまったけれど、本日5日の谷保かけこみ亭での「反戦歌コンサート」は、ほぼ満席の観客を迎えて無事終了いたしました。
全体として盛りだくさんの良いコンサートとなったと思います。出演者それぞれの熱のこもった素晴らしいステージが次々繰り広げられました。我、マスダの出番以外は皆さん本当に良かったと思います。企画者冥利に尽きます。
ただ、企画側からすると、何よりもこの我が個人的な部分においていつもながらトチリまくり多々の問題点が露呈したものとなりました。観客、出演者の方々にご迷惑おかけしました。今はまだ自己嫌悪に強く苛まれ申し訳ない気持ちでいっぱいです。今後の課題と言ってすますことは簡単ですが、身の程を知るべしでした。
こうしたあるコンセプトに基づいた企画は、単発はともかくも連続しては難しいものだと改めて思いますし、言い訳にもなりませんが、様々な制約やプレッシャーの中で、自分なりのベストは尽くせたと思います。
「思い」というものがたとえ歌に託したとしても即通じるものでないように、多くの人が集まれば、多くなればなったとしてそこに「思惑」の違いも生じるし、その「期待」になかなか応えられないものだと今つくづく思うしだいです。
東京新聞の情報記事を、ご覧頂き来てくれた人は、どんな思いで帰られたのか、答えのないことですが、ずっと問い続けています。
しかし人には誰にも思いがあり、その思いを示すのには、やはり行動しかありません。ならば毎度ながらの自らのダメさを抱えて、たとい失敗多々あろうとも何事も続けなくてはならないのだと、自らに言い聞かせています。
それもまた起きてしまったこと。ここで懲りて、撤収撤退の道を選ぶのではなく、この失敗もまた糧にして、次へと続けて、そのためにもさらに生き続けなくてはなりません。
なにはともあれ、こうした機会と場があってこそ、新たな出会いや貴重な再会があり、また新たな明日に繋がっていくと信じて。
昨日を 今日に繋げるために
今日を 明日に手渡すために ――笠木透
大変ではあったけれど楽しい夢を見させてもらいました。まさに夢の一夜となりました。改めてお手伝いしてくれたスタッフ、そして私の無理をきいてくれた素晴らしい歌い手の方々、来て頂いたお客様、そしてかけこみ亭とぼけまる氏にこの場ですが、深く深く感謝御礼いたします。本当に有難いことでした。
しばらくは家に籠って、疲れを癒したら、まずは今月19日の国会正門前へまたギター抱えて出向こうと思います。自分にとってのうたの原点の場に。我のできること、すべきことは何か、もう一度問い直すために。
音楽が人を結ぶ 人を繋ぐ ― 2015年12月07日 06時04分37秒
★高田渡没後はや10年に思う アクセスランキング: 119位
高田渡が北海道で倒れて急逝したのが 2005年の4月だから、気がつけば10年もの歳月が過ぎている。つい昨日のことのようにありありと思い出すのに。その渡の追悼のコンサートが直後、今はない小金井公会堂で催された。すべてはその日、そこから始まった。
月日のたつのは実に早いものだとつくづく思う。そして改めてその10年を振り返ると、今の自分の人生の大部分はその10年の間に出会った人たちとのことで埋まっている。
ある意味、高田渡に導かれあれこれやってきた生きて来た10年なのだと気づく。
これはあちこちのインディーズ誌に書き散らして来たことだけど、その追悼コンサートで、「うたの力」を再認識し若き日に慣れしたんだ「日本のフォークソング」熱にとつぜん火が付いた。すぐに中川五郎氏に連絡とって、彼のライブに通うこととなった。
そして岡大介ら若手とも出合い、多くのフォークシンガー、ミュージシャンたちとも親しく懇意となって、やがては一観客から離れて自らもライブを企画する側となった。
さらにそれが高じて近年では、恥ずかしながら自らもギター持ってハーモニカ吹いて唄うようにもなった。むろんあくまでも一アマチュアであり、いつかは自分の「うた」をきちんと録音してCDのような形で残したいという夢はあるけれど、それもこれもこの10年の間の出来事なのだ。
再上映されるこの映画のチラシを見て、そうか、もう10年経つのかと、今さらながら知り深い感慨がわく。
一昨日の国立でのコンサートもだが、今や自分の人生の九割方は、そうした「音楽」との関わりで出会った人たちが占めている。それまでネット古本屋を細々と始めて、ずっと家に籠っていたオタク的中年男の極私的狭い世界が「うた」によって一気に外へと開かれた。すべては高田渡の追悼コンサートがきっかけだった。それもこれも運命だとか神のはからいだと思うものの、ふりかえれば不思議でならない。今こうしてここにいることが。
その10年はまさに昨日のことのように思うけれど、その間にすぐ思い浮かぶだけでも、若林純夫、ホンジ、高坂一潮、松永孝義、そしてひがしのひとしと、我が出会い、感激し大切に思う方々が亡くなられた。※若林さんは生前一度も会うことも話すこともかなわなかったが。そして清志郎も浅川マキも。
これからの10年、たぶん自分はまだ生きていると仮定して、その間にはどれだけ長くこの死者の列は続いていくのであろうか。自分よりも年上の世代だけでなく、同世代やときに年下でも死ぬ者が出てこよう。
人生とは、それぞれのランナーが先の見えないゴールに向けて黙々と走り続けている「同時代」と名付けられたマラソンなのだと思う。一緒に走っていたのに途中で脱落する者が出てくるが、それこそが、そのランナーにとってのゴールなのである。
この10年の間に実に多くの素晴らしい人たちと出会った。中には一期一会でもあり、いろいろあって疎遠となってしまった人も多々いるが、今もなおまた新たな出会いは続いている。
おそらくそれは、生き続けているうちは、この「同時代ゲーム」からおりない限り、増え続けて行くことだろう。いや、総体として参加人数は増えるだろうが、長く走り続けるほど、気がつけば周りにいた顔見知りのランナーは減っていくはずだ。
それは淋しいことだが、それでも我は我で自らの定まっているゴールまで走り続けなくてはならない。その間に何ができるか。何をすべきか。
これまで半世紀以上生きて来た我が人生は実にちゃらんぽらんで行き当たりばったりで、何一つきちんと成ったことがない。実はこの10年の間のことでもちっとも収拾がついていない。してきたこと関わったことの決着も総括もできていない。慌ただしくただ日々の生活と時の速さとに翻弄されて、あっという間の10年であった。
撮り、録りためたものもほとんど整理できていない。次から次へと目先の状況に、押し寄せてくる波のように翻弄されて、その波をうまく乗り切るだけで精いっぱいだった。実に情けなくだらしなく何よりも無責任だと思う。
来年になろうとその状況は変わりはしない。が、余裕はないがようやくだが、いくぶん巨視的にモノゴトを捉え判断できるようにはなって来た。処理能力は相変わらずだしたぶんもっと体力的には衰えていくかもしれないが、これまで悩まされていた様々な「欲望」が萎えて来た分だけ軽くはなってきている。優先順位のつけ方もやっとわかってきた。バカは相変わらずだが、少しは賢くもなってきた。これからはきっとうまくやれる気がしている。そして何よりも音楽が結びつけてくれた、同じ思いと志ある仲間たちが周りにたくさんいるのだから有難く心強い。
これからもうたと音楽によって様々な人と出会い結ばれていくだろう。もしかしたら高坂一潮さんの遺したうたの一節のように、「新しい恋を始めるのさ 今度はうまくやるさ やれるのさ」――♪(バイバイ)と、この歳でも新たな恋愛すら始まるかもしれない。
先のことはわからない。明日のことだって覚束ない。が、これからも歌の力、音楽の力を信じて、高田渡が導いてくれた道を走り続けて行こう。ゴールの日が我に来るまで。
高田渡が北海道で倒れて急逝したのが 2005年の4月だから、気がつけば10年もの歳月が過ぎている。つい昨日のことのようにありありと思い出すのに。その渡の追悼のコンサートが直後、今はない小金井公会堂で催された。すべてはその日、そこから始まった。
月日のたつのは実に早いものだとつくづく思う。そして改めてその10年を振り返ると、今の自分の人生の大部分はその10年の間に出会った人たちとのことで埋まっている。
ある意味、高田渡に導かれあれこれやってきた生きて来た10年なのだと気づく。
これはあちこちのインディーズ誌に書き散らして来たことだけど、その追悼コンサートで、「うたの力」を再認識し若き日に慣れしたんだ「日本のフォークソング」熱にとつぜん火が付いた。すぐに中川五郎氏に連絡とって、彼のライブに通うこととなった。
そして岡大介ら若手とも出合い、多くのフォークシンガー、ミュージシャンたちとも親しく懇意となって、やがては一観客から離れて自らもライブを企画する側となった。
さらにそれが高じて近年では、恥ずかしながら自らもギター持ってハーモニカ吹いて唄うようにもなった。むろんあくまでも一アマチュアであり、いつかは自分の「うた」をきちんと録音してCDのような形で残したいという夢はあるけれど、それもこれもこの10年の間の出来事なのだ。
再上映されるこの映画のチラシを見て、そうか、もう10年経つのかと、今さらながら知り深い感慨がわく。
一昨日の国立でのコンサートもだが、今や自分の人生の九割方は、そうした「音楽」との関わりで出会った人たちが占めている。それまでネット古本屋を細々と始めて、ずっと家に籠っていたオタク的中年男の極私的狭い世界が「うた」によって一気に外へと開かれた。すべては高田渡の追悼コンサートがきっかけだった。それもこれも運命だとか神のはからいだと思うものの、ふりかえれば不思議でならない。今こうしてここにいることが。
その10年はまさに昨日のことのように思うけれど、その間にすぐ思い浮かぶだけでも、若林純夫、ホンジ、高坂一潮、松永孝義、そしてひがしのひとしと、我が出会い、感激し大切に思う方々が亡くなられた。※若林さんは生前一度も会うことも話すこともかなわなかったが。そして清志郎も浅川マキも。
これからの10年、たぶん自分はまだ生きていると仮定して、その間にはどれだけ長くこの死者の列は続いていくのであろうか。自分よりも年上の世代だけでなく、同世代やときに年下でも死ぬ者が出てこよう。
人生とは、それぞれのランナーが先の見えないゴールに向けて黙々と走り続けている「同時代」と名付けられたマラソンなのだと思う。一緒に走っていたのに途中で脱落する者が出てくるが、それこそが、そのランナーにとってのゴールなのである。
この10年の間に実に多くの素晴らしい人たちと出会った。中には一期一会でもあり、いろいろあって疎遠となってしまった人も多々いるが、今もなおまた新たな出会いは続いている。
おそらくそれは、生き続けているうちは、この「同時代ゲーム」からおりない限り、増え続けて行くことだろう。いや、総体として参加人数は増えるだろうが、長く走り続けるほど、気がつけば周りにいた顔見知りのランナーは減っていくはずだ。
それは淋しいことだが、それでも我は我で自らの定まっているゴールまで走り続けなくてはならない。その間に何ができるか。何をすべきか。
これまで半世紀以上生きて来た我が人生は実にちゃらんぽらんで行き当たりばったりで、何一つきちんと成ったことがない。実はこの10年の間のことでもちっとも収拾がついていない。してきたこと関わったことの決着も総括もできていない。慌ただしくただ日々の生活と時の速さとに翻弄されて、あっという間の10年であった。
撮り、録りためたものもほとんど整理できていない。次から次へと目先の状況に、押し寄せてくる波のように翻弄されて、その波をうまく乗り切るだけで精いっぱいだった。実に情けなくだらしなく何よりも無責任だと思う。
来年になろうとその状況は変わりはしない。が、余裕はないがようやくだが、いくぶん巨視的にモノゴトを捉え判断できるようにはなって来た。処理能力は相変わらずだしたぶんもっと体力的には衰えていくかもしれないが、これまで悩まされていた様々な「欲望」が萎えて来た分だけ軽くはなってきている。優先順位のつけ方もやっとわかってきた。バカは相変わらずだが、少しは賢くもなってきた。これからはきっとうまくやれる気がしている。そして何よりも音楽が結びつけてくれた、同じ思いと志ある仲間たちが周りにたくさんいるのだから有難く心強い。
これからもうたと音楽によって様々な人と出会い結ばれていくだろう。もしかしたら高坂一潮さんの遺したうたの一節のように、「新しい恋を始めるのさ 今度はうまくやるさ やれるのさ」――♪(バイバイ)と、この歳でも新たな恋愛すら始まるかもしれない。
先のことはわからない。明日のことだって覚束ない。が、これからも歌の力、音楽の力を信じて、高田渡が導いてくれた道を走り続けて行こう。ゴールの日が我に来るまで。
母の癌のこと、これからのこと ― 2015年12月09日 21時49分45秒
★すべてを正直にあからさまに記していく アクセスランキング: 153位
コンサートは、無事盛況のうちに終了し、様々な思いは残したものの私的にも「成功」したものとして良いだろうと気持ちの置き所は付いたが、その後も一段落するどころか、落ち着いてブログすら書けない日が続いている。
じっさい、このところ座って飯を食べた記憶がない。台所で立ったまま親たちに調理、配膳しながら慌ててかきこむという有様だ。
母の癌治療のことも報告しないとならない。これは私的なことであり書くべきか迷ったが、今までもほぼ逐一事態をこのブログなどで「公開」してきているし、今さら隠して何事もない顔してたら他のことも書けなくなるのは間違いないので、やはり事態を正直に書いていく。
7日の月曜日、立川の病院で、担当女医から先日の精密検査の結果を母共々知らされた。やはり癌は肥大し続けてきているので、抗癌治療をやるか、あるいは高齢ゆえもう一切何も抗うことは放棄するか判断を迫られた。
母の癌は、今現在約5㎝~の固まりとなって、腹部ヘソ下の、腸管膜というところにどでんと居座っている。医師によると、それでも極めて大人しい、タチの良い癌だとのことで、幸い転移とかは未だないようで、スピードは緩やかだが少しづつ少しづつ大きくなってきているとのことだった。
ただ、このままだと、大腸をしだいに圧迫してきているので、さらに大きくなれば、前の時も同様だったが、やがて食事は摂れなくなってくるし排便も滞るように影響が出てくる。母は八十代半ばと高齢ではあるが、まだ今は体力もあり元気なので、医師としてはまた抗がん剤投与を進めたいとのことだった。やるならば様子見てないで出来るだけ早くと。
前回も癌細胞部位摘出手術の後、半年単位で、一度だけ抗がん剤治療をやった。幸い母は体質的に副作用などはほとんど出ず、薬も合ったのかもしれないが、頭髪は抜けてしまった程度で、薬も効き、癌は小さくなったので、今まで、あれから4年間生き永らえたのだ。
今度も同じ薬を分量をやや減らして入院のうえ、ゆっくり体に入れて様子見て行く。もし体調悪くなったり、効果が見られないときはすぐ中止するということで、ある意味賭けでもあるが、抗癌剤用いることに同意した。
来年の年明け、4日から始められるとのことだったが、国会じゃあるまいしそれではあまりにも慌ただしすぎるので、医師の都合がつく1月18日月曜から何日か入院して治療行うこととなった。それを間あけて、一か月から一月半おいてまず数回、様子と経過を確かめながら続けていくことになった。
他にできることと言えば、続けている週に三日の丸山ワクチンと、増冨のラジウム温泉での湯治だけだから、さっそく翌日火曜日の8日に、母を連れてまた二人で山梨北杜市へ日帰りで行ってきた。
父も連れて行けば向うで泊まりもできるのだけれど、認知症が進んでいるので同行させるとまたその介助もしないとならない。風呂に入っていてもすぐ出たり騒ぎだしたりするので目が離せずこちらも全然のんびりできない。温泉に行っても父がいると疲労は逆に増す。
そんなでこのところはデイサービスに日中は預けたりして、母と二人だけで、日帰りで大忙しで行って帰ってきている。それでも向うでは温泉に3時間は浸かるようにして、ともかく免疫力を高めて体を活性化させ、癌が縮小するよう祈りながら我もぬるい湯でまどろんできた。
今回は紅葉シーズンも過ぎたので施設も空いていて大いにのんびりできた。むろん寒さは東京の比ではないが、まだ雪もなく運転は快適だった。
ただ、そんなわけで、朝から晩までともかく大忙しで、おまけに今は老犬ブラ彦も高齢のためこの冬からは夜は家に入れて寝ているので、深夜に小便に連れ出したりと、睡眠時間すらまとまってとれない。
そして次は、23日の拙宅でのクリスマス謝恩ライブパーティがある。そのためにも家を片付けて行かねばならない。しかし、先のコンサートもだが、そうした楽しいこと、楽しみである目的があってこそ、人生は進んでいくし頑張れる気がしている。
どうせ片づけない限り、このままでは正月は迎えられないのだ。ならば客人を招くという目的があれば弾みもつく。
正直、あれもこれも大変だという気持ちはある。しかし、良いこと、正しいことであるならば、神様は見ていてくれて応援し守ってもくれるはずだ。まだできるしやれるはずだ。無理はしないし無理できないが、頑張らねばならない。
やることがあり、少しづつでもやれることができるのは幸せなことなんだと自らに言い聞かせている。そう、大変じゃない人生なんてどこにもないのだから。
コンサートは、無事盛況のうちに終了し、様々な思いは残したものの私的にも「成功」したものとして良いだろうと気持ちの置き所は付いたが、その後も一段落するどころか、落ち着いてブログすら書けない日が続いている。
じっさい、このところ座って飯を食べた記憶がない。台所で立ったまま親たちに調理、配膳しながら慌ててかきこむという有様だ。
母の癌治療のことも報告しないとならない。これは私的なことであり書くべきか迷ったが、今までもほぼ逐一事態をこのブログなどで「公開」してきているし、今さら隠して何事もない顔してたら他のことも書けなくなるのは間違いないので、やはり事態を正直に書いていく。
7日の月曜日、立川の病院で、担当女医から先日の精密検査の結果を母共々知らされた。やはり癌は肥大し続けてきているので、抗癌治療をやるか、あるいは高齢ゆえもう一切何も抗うことは放棄するか判断を迫られた。
母の癌は、今現在約5㎝~の固まりとなって、腹部ヘソ下の、腸管膜というところにどでんと居座っている。医師によると、それでも極めて大人しい、タチの良い癌だとのことで、幸い転移とかは未だないようで、スピードは緩やかだが少しづつ少しづつ大きくなってきているとのことだった。
ただ、このままだと、大腸をしだいに圧迫してきているので、さらに大きくなれば、前の時も同様だったが、やがて食事は摂れなくなってくるし排便も滞るように影響が出てくる。母は八十代半ばと高齢ではあるが、まだ今は体力もあり元気なので、医師としてはまた抗がん剤投与を進めたいとのことだった。やるならば様子見てないで出来るだけ早くと。
前回も癌細胞部位摘出手術の後、半年単位で、一度だけ抗がん剤治療をやった。幸い母は体質的に副作用などはほとんど出ず、薬も合ったのかもしれないが、頭髪は抜けてしまった程度で、薬も効き、癌は小さくなったので、今まで、あれから4年間生き永らえたのだ。
今度も同じ薬を分量をやや減らして入院のうえ、ゆっくり体に入れて様子見て行く。もし体調悪くなったり、効果が見られないときはすぐ中止するということで、ある意味賭けでもあるが、抗癌剤用いることに同意した。
来年の年明け、4日から始められるとのことだったが、国会じゃあるまいしそれではあまりにも慌ただしすぎるので、医師の都合がつく1月18日月曜から何日か入院して治療行うこととなった。それを間あけて、一か月から一月半おいてまず数回、様子と経過を確かめながら続けていくことになった。
他にできることと言えば、続けている週に三日の丸山ワクチンと、増冨のラジウム温泉での湯治だけだから、さっそく翌日火曜日の8日に、母を連れてまた二人で山梨北杜市へ日帰りで行ってきた。
父も連れて行けば向うで泊まりもできるのだけれど、認知症が進んでいるので同行させるとまたその介助もしないとならない。風呂に入っていてもすぐ出たり騒ぎだしたりするので目が離せずこちらも全然のんびりできない。温泉に行っても父がいると疲労は逆に増す。
そんなでこのところはデイサービスに日中は預けたりして、母と二人だけで、日帰りで大忙しで行って帰ってきている。それでも向うでは温泉に3時間は浸かるようにして、ともかく免疫力を高めて体を活性化させ、癌が縮小するよう祈りながら我もぬるい湯でまどろんできた。
今回は紅葉シーズンも過ぎたので施設も空いていて大いにのんびりできた。むろん寒さは東京の比ではないが、まだ雪もなく運転は快適だった。
ただ、そんなわけで、朝から晩までともかく大忙しで、おまけに今は老犬ブラ彦も高齢のためこの冬からは夜は家に入れて寝ているので、深夜に小便に連れ出したりと、睡眠時間すらまとまってとれない。
そして次は、23日の拙宅でのクリスマス謝恩ライブパーティがある。そのためにも家を片付けて行かねばならない。しかし、先のコンサートもだが、そうした楽しいこと、楽しみである目的があってこそ、人生は進んでいくし頑張れる気がしている。
どうせ片づけない限り、このままでは正月は迎えられないのだ。ならば客人を招くという目的があれば弾みもつく。
正直、あれもこれも大変だという気持ちはある。しかし、良いこと、正しいことであるならば、神様は見ていてくれて応援し守ってもくれるはずだ。まだできるしやれるはずだ。無理はしないし無理できないが、頑張らねばならない。
やることがあり、少しづつでもやれることができるのは幸せなことなんだと自らに言い聞かせている。そう、大変じゃない人生なんてどこにもないのだから。
野坂昭如という人生 ― 2015年12月10日 22時52分07秒
★戦後は遠くになりにけり アクセスランキング: 146位
野坂昭如が死んだ。たぶん今の若い人たちにとっては、誰それ?的な人かもしれない。倒れて以来近年はほとんど表に出なかったしじっさい長寿と呼べるほど十分長く生きた。ある意味、死に時を間違った感もある、遅れて来た無頼派であった。
実は、我にとって若いときはものすごく影響受けた作家であり、大いに憧れもした。その何でもやってしまう、目立ちたがりの破天荒な生き方は三島由紀夫や小田実と並ぶ、常にマスコミの注目の的であり、時代の寵児であった。平成の世になってはもうあんなヘンな物書きは出ていない。
そして、大人というのは、もっと偉そうな重厚な存在だと思っていたとき、彼を交えた中年御三家の登場は、その認識を一変させてくれた。赤塚不二夫といい、大人でもこんなおバカでいいのだ、面白そうならいい歳してても何やっても良いんだとおバカの道を切り開いてくれた恩人でもある。※今も関西人の百田某とかおバカ作家は少ないけれど存在はしている。だが、それは真にバカなだけで、問題は当人自信がバカやっているという自覚がないのが真のバカたる所以なのである。
もともとはあの三期鶏郎工房から出た人で、永六輔も同じ出だから、まさに戦後派の新しい才能であったと今気づく。その永さんと同じく、マルチタレント的に、物書きに留まらず門外漢であろうと歌からCMまで何でも器用にこなし、何でもそれなりにヒットを飛ばした。政治にまで手を出した青島幸男もそうであったし、大橋巨泉、伊丹十三、小沢昭一、前田武彦と同類は数々次々に思い浮かぶ。ということは、昭和の「戦後」とは、そうしたマルチな才能が自由に花開いた、何でもありの時代だったのだ。それの目撃者であった我もまた幸福だったと気づく。
先の水木しげるといい、まさに戦後70年の年に、戦中戦後を引きづってきた人たちが死んで、「戦後」はついに終焉を迎えた感がしている。そして当然残念にも哀しくもある。
しかし、思う存分好きなことをやったこともあるが、彼は実に幸福な人生だったのではないか。家庭的にも恵まれた。本来、作家としての野坂昭如の道を極めつくせば、行き着く先は、色川武大のような破滅的生き急ぎ人生しかなかったかと考える。そうならないためにも彼はフットワーク軽く、キックボクシングから歌、そして政治まであれこれ手を出したのではないか。
戦争に翻弄された小心なマジメ男が、戦後、何事も面白半分、本気半分というような生き方で、案外巧みに時代の波に乗り、気がついたら八十半ばまで生きたと言ったら失礼か。
個人的には、もっともっと井上ひさしのように、作家として本気出してたくさん優れた小説を書いてほしかったという気は今もあるが、彼の生き方はやはり羨ましいほど素晴らしい。彼の生き様は昭和の「戦後」だから許容され、持てはやされたのだとつくづく思う。今の時代は自由がない。出る釘は叩かれそしてすぐに抜かれてしまう。※リリー・フランキーが出て来たとき、その多彩な鋭い才能に驚き大いに期待したが、結局はいつしか一俳優に落ち着いてしまった。それは悪くはないが残念なことではないか。
余談だが、我マス坊の文体は、ひたすらセンテンスが長い、だらだらと一つの文が続いてわかりにくいとよくご意見、ご批判を受ける。もっと簡潔に、短く書けと叱られる。が、その理由は簡単で、文体として影響を受けたのが、若き日に耽読した冗長な野坂昭如と長尺大江健三郎なのだからそれも致し方ない。
何より彼の小説の魅力は、文体、その語り口にあったと思う。つまるところ小説の魅力とは、中身内容も当然だが、それ以前に独自の文体、つまりその作家独自の個性があるかどうかではないのか。村上春樹があんなに人気者になったのは、一番の理由はまずあの新しい「文体」=語り口がそこにあったからだ。
いや、それは何だってすべて同じだろう。昨今、自分らしく生きるとか、本当の自分、とかいう言葉がよく言われるしよく目にする。ならばそのためにもまず自分らしく書き、語り、行動しなければならないのである。そう、生き方、人生にも「文体」がなくてはならないのだと改めて思う。きみは文体を持っているか。
野坂のように、戦後を抱えて自由に生きようと訃報に思った次第。
野坂昭如が死んだ。たぶん今の若い人たちにとっては、誰それ?的な人かもしれない。倒れて以来近年はほとんど表に出なかったしじっさい長寿と呼べるほど十分長く生きた。ある意味、死に時を間違った感もある、遅れて来た無頼派であった。
実は、我にとって若いときはものすごく影響受けた作家であり、大いに憧れもした。その何でもやってしまう、目立ちたがりの破天荒な生き方は三島由紀夫や小田実と並ぶ、常にマスコミの注目の的であり、時代の寵児であった。平成の世になってはもうあんなヘンな物書きは出ていない。
そして、大人というのは、もっと偉そうな重厚な存在だと思っていたとき、彼を交えた中年御三家の登場は、その認識を一変させてくれた。赤塚不二夫といい、大人でもこんなおバカでいいのだ、面白そうならいい歳してても何やっても良いんだとおバカの道を切り開いてくれた恩人でもある。※今も関西人の百田某とかおバカ作家は少ないけれど存在はしている。だが、それは真にバカなだけで、問題は当人自信がバカやっているという自覚がないのが真のバカたる所以なのである。
もともとはあの三期鶏郎工房から出た人で、永六輔も同じ出だから、まさに戦後派の新しい才能であったと今気づく。その永さんと同じく、マルチタレント的に、物書きに留まらず門外漢であろうと歌からCMまで何でも器用にこなし、何でもそれなりにヒットを飛ばした。政治にまで手を出した青島幸男もそうであったし、大橋巨泉、伊丹十三、小沢昭一、前田武彦と同類は数々次々に思い浮かぶ。ということは、昭和の「戦後」とは、そうしたマルチな才能が自由に花開いた、何でもありの時代だったのだ。それの目撃者であった我もまた幸福だったと気づく。
先の水木しげるといい、まさに戦後70年の年に、戦中戦後を引きづってきた人たちが死んで、「戦後」はついに終焉を迎えた感がしている。そして当然残念にも哀しくもある。
しかし、思う存分好きなことをやったこともあるが、彼は実に幸福な人生だったのではないか。家庭的にも恵まれた。本来、作家としての野坂昭如の道を極めつくせば、行き着く先は、色川武大のような破滅的生き急ぎ人生しかなかったかと考える。そうならないためにも彼はフットワーク軽く、キックボクシングから歌、そして政治まであれこれ手を出したのではないか。
戦争に翻弄された小心なマジメ男が、戦後、何事も面白半分、本気半分というような生き方で、案外巧みに時代の波に乗り、気がついたら八十半ばまで生きたと言ったら失礼か。
個人的には、もっともっと井上ひさしのように、作家として本気出してたくさん優れた小説を書いてほしかったという気は今もあるが、彼の生き方はやはり羨ましいほど素晴らしい。彼の生き様は昭和の「戦後」だから許容され、持てはやされたのだとつくづく思う。今の時代は自由がない。出る釘は叩かれそしてすぐに抜かれてしまう。※リリー・フランキーが出て来たとき、その多彩な鋭い才能に驚き大いに期待したが、結局はいつしか一俳優に落ち着いてしまった。それは悪くはないが残念なことではないか。
余談だが、我マス坊の文体は、ひたすらセンテンスが長い、だらだらと一つの文が続いてわかりにくいとよくご意見、ご批判を受ける。もっと簡潔に、短く書けと叱られる。が、その理由は簡単で、文体として影響を受けたのが、若き日に耽読した冗長な野坂昭如と長尺大江健三郎なのだからそれも致し方ない。
何より彼の小説の魅力は、文体、その語り口にあったと思う。つまるところ小説の魅力とは、中身内容も当然だが、それ以前に独自の文体、つまりその作家独自の個性があるかどうかではないのか。村上春樹があんなに人気者になったのは、一番の理由はまずあの新しい「文体」=語り口がそこにあったからだ。
いや、それは何だってすべて同じだろう。昨今、自分らしく生きるとか、本当の自分、とかいう言葉がよく言われるしよく目にする。ならばそのためにもまず自分らしく書き、語り、行動しなければならないのである。そう、生き方、人生にも「文体」がなくてはならないのだと改めて思う。きみは文体を持っているか。
野坂のように、戦後を抱えて自由に生きようと訃報に思った次第。
高田渡復活祭での「新宿たんぽぽ団」 ― 2015年12月12日 01時54分33秒
★つい昨日のことが、「時代」になっていく
テアトル新宿でやっていた、高田渡大復活祭の最終日に行ってきた。
実は、昨日10日も新宿に出ていて、そこで、併映の「吉祥寺発赤い電車」を見るつもりでいたが、その前に友人と打ち合わせがあり、明日もまたそこへ行くことを思い日和ってしまったのだ。
が、プログラムは違い、昨日は、「タカダワタル的」と、その彼らの若き日の姿を記録したドキュメンタリーである「赤い電車」、そして今日11日は、「タカダワタル的ゼロ」と一夜限りに結成された縁あるミュージシャンたちによるスペシャルバンド「新宿たんぽぽ団」のライブであった。
「ゼロ」のほうは、実は未見であったので、観れたのも良かったし、その急ごしらえ短時間のライブの出来はともかく、その後の手短な打ち上げの席で、ずっとご無沙汰していた方々と会えご挨拶もできたので有意義な良い1夜となった。何より、渡氏のお兄さん、そして高田富美子さんともお会いできたのは嬉しかった。そして一潮さんと縁深い人たちとも。
来年の春先に予定している「高坂一潮追悼コンサート」についても漠然とだが、中川五郎、シバたちとアポがとれた。まだはっきりはしていないが、ツーディズで、一潮さんの映像を観る日と、親しかったミュージシャンたちのライブの日とに分けてやれたらと今日思いついた。
日時も含めてどうなるかわからないが、シバ、中川五郎、そしてよしだよしこ、さらに若手+アルファという顔ぶれで実現できたらと夢想している。
さておき、その映画のほうだが、下北沢スズナリでの東京乾電池の面々+泉谷しげるらとのライブ映像と吉祥寺いせやでの渡氏の日常的独白を交互に組み合わせた音楽ドキュメンタリーであり、「~的」よりははるかにビビッドに高田渡という人間のステージと普段の素の姿がうまく捉えられていた。そして当たり前のことだが、皆誰もが若くはつらつとしている。そして渡が通いつめた今はなき薄汚い焼き鳥いせやがともかく懐かしい。高校生の我はここで酒を鈴木翁二に教わったのだ。
撮られたのは、2000年~の頃のことで、ラストはその焼き鳥のいせやの建物が建て替えで壊されるところで終わっている。昔の薄汚いいせやも、その後の風景も街は今はどうなったかよく知る者として、つい昨日のことだと思っていたのに、ひどく懐かしく時代を強く感じさせられた。
高田渡は、この頃からしだいに若者にも注目され始め、「タカダワタル的」であたかも珍しい動物のように描かれて大ブレイクし、結果として売れっ子となってしまい超過密スケジュールで、過労のため北海道で倒れて意識戻ることなく死んでしまった。
「ゼロ」では、「~的」より少しだけ若いぶんだけ、ヨッパライではあるけれど、気合いの入った溌剌としたステージをしっかり見せてくれている。だが、ここ同じテアトル新宿での「~的」上映後の連日の「フォーク大学」ライブ最終日での渡を知る者として、もうボロボロ、くたくたで、抱き抱えられるようにして出て来て確か二曲ほどかろうじてやってステージを去った姿は今も忘れられない。
はっきり書く。あんな映画さえなければ、たぶん高田渡はマイペースで今も酔っぱらってはいたけれど、吉祥寺を飄々と徘徊し気の向くまま唄い続けていたのではないか。音楽のことなど何もわからない小娘監督は結果として、その映画がヒットしたことで、今や中堅の売れっ子監督となれた。彼女にとっては出世作となったが、我々フォークファンにとってはあまりに失ったものは大きい。
まあ、しかしこうも思う。高田渡はあの古めかしく薄汚く、焼き鳥の煙とタバコの匂いと様々な人間たちで満ち常にエキサイティングだったかつてのいせやと共に消える運命であったのかもと。
だって今の新しくビルになったいせやもおしゃれな吉祥寺の町も、どこにも高田渡の居場所なんてないではないか。つまり「希少動物」高田渡は、その生息域を失い死ぬ定めにあったのだと。それは再開発の波に襲われた下北沢だって同じであろう。すべて今風に様変わりしてしまった。
まさにどこもかしこもタカダワタル的なものは消え去り、高田渡は映像の中だけに今もこれからも永遠に生き続けて行く。
たかが、つい10年、15年前のことなのだ。だが、映画の中ではまだ若者の面影を残していた佐久間順平は今は白髪に、出てくる皆誰もが老人化して今に至っている。そして高田渡だけが、相変わらず老人姿のまま、いつまでも変わらずしわくちゃな顔で若々しく笑っている。
そして気がつけば、いつしかその渡の死んだ歳を越えてしまった自分がいる。すべてつい昨日のことだったはずだ。だが、まさに10年ひと昔、撮られた風景と人々は「時代」に変わってしまっていた。
テアトル新宿でやっていた、高田渡大復活祭の最終日に行ってきた。
実は、昨日10日も新宿に出ていて、そこで、併映の「吉祥寺発赤い電車」を見るつもりでいたが、その前に友人と打ち合わせがあり、明日もまたそこへ行くことを思い日和ってしまったのだ。
が、プログラムは違い、昨日は、「タカダワタル的」と、その彼らの若き日の姿を記録したドキュメンタリーである「赤い電車」、そして今日11日は、「タカダワタル的ゼロ」と一夜限りに結成された縁あるミュージシャンたちによるスペシャルバンド「新宿たんぽぽ団」のライブであった。
「ゼロ」のほうは、実は未見であったので、観れたのも良かったし、その急ごしらえ短時間のライブの出来はともかく、その後の手短な打ち上げの席で、ずっとご無沙汰していた方々と会えご挨拶もできたので有意義な良い1夜となった。何より、渡氏のお兄さん、そして高田富美子さんともお会いできたのは嬉しかった。そして一潮さんと縁深い人たちとも。
来年の春先に予定している「高坂一潮追悼コンサート」についても漠然とだが、中川五郎、シバたちとアポがとれた。まだはっきりはしていないが、ツーディズで、一潮さんの映像を観る日と、親しかったミュージシャンたちのライブの日とに分けてやれたらと今日思いついた。
日時も含めてどうなるかわからないが、シバ、中川五郎、そしてよしだよしこ、さらに若手+アルファという顔ぶれで実現できたらと夢想している。
さておき、その映画のほうだが、下北沢スズナリでの東京乾電池の面々+泉谷しげるらとのライブ映像と吉祥寺いせやでの渡氏の日常的独白を交互に組み合わせた音楽ドキュメンタリーであり、「~的」よりははるかにビビッドに高田渡という人間のステージと普段の素の姿がうまく捉えられていた。そして当たり前のことだが、皆誰もが若くはつらつとしている。そして渡が通いつめた今はなき薄汚い焼き鳥いせやがともかく懐かしい。高校生の我はここで酒を鈴木翁二に教わったのだ。
撮られたのは、2000年~の頃のことで、ラストはその焼き鳥のいせやの建物が建て替えで壊されるところで終わっている。昔の薄汚いいせやも、その後の風景も街は今はどうなったかよく知る者として、つい昨日のことだと思っていたのに、ひどく懐かしく時代を強く感じさせられた。
高田渡は、この頃からしだいに若者にも注目され始め、「タカダワタル的」であたかも珍しい動物のように描かれて大ブレイクし、結果として売れっ子となってしまい超過密スケジュールで、過労のため北海道で倒れて意識戻ることなく死んでしまった。
「ゼロ」では、「~的」より少しだけ若いぶんだけ、ヨッパライではあるけれど、気合いの入った溌剌としたステージをしっかり見せてくれている。だが、ここ同じテアトル新宿での「~的」上映後の連日の「フォーク大学」ライブ最終日での渡を知る者として、もうボロボロ、くたくたで、抱き抱えられるようにして出て来て確か二曲ほどかろうじてやってステージを去った姿は今も忘れられない。
はっきり書く。あんな映画さえなければ、たぶん高田渡はマイペースで今も酔っぱらってはいたけれど、吉祥寺を飄々と徘徊し気の向くまま唄い続けていたのではないか。音楽のことなど何もわからない小娘監督は結果として、その映画がヒットしたことで、今や中堅の売れっ子監督となれた。彼女にとっては出世作となったが、我々フォークファンにとってはあまりに失ったものは大きい。
まあ、しかしこうも思う。高田渡はあの古めかしく薄汚く、焼き鳥の煙とタバコの匂いと様々な人間たちで満ち常にエキサイティングだったかつてのいせやと共に消える運命であったのかもと。
だって今の新しくビルになったいせやもおしゃれな吉祥寺の町も、どこにも高田渡の居場所なんてないではないか。つまり「希少動物」高田渡は、その生息域を失い死ぬ定めにあったのだと。それは再開発の波に襲われた下北沢だって同じであろう。すべて今風に様変わりしてしまった。
まさにどこもかしこもタカダワタル的なものは消え去り、高田渡は映像の中だけに今もこれからも永遠に生き続けて行く。
たかが、つい10年、15年前のことなのだ。だが、映画の中ではまだ若者の面影を残していた佐久間順平は今は白髪に、出てくる皆誰もが老人化して今に至っている。そして高田渡だけが、相変わらず老人姿のまま、いつまでも変わらずしわくちゃな顔で若々しく笑っている。
そして気がつけば、いつしかその渡の死んだ歳を越えてしまった自分がいる。すべてつい昨日のことだったはずだ。だが、まさに10年ひと昔、撮られた風景と人々は「時代」に変わってしまっていた。
ネットの記事は疑ってかかれ ― 2015年12月14日 21時54分33秒
★その情報は本当に正しいのか アクセスランキング: 137位
先日一昨日のこと、敬愛するシンガーソングライター・さこ大介さんのライブが、彼の地元狛江の居酒屋であると知らされ、なかなか会う機会もこのところなかったので、南武線に乗って出向いた。個人的にちょっと話したいこともあった。
ウチからだと、小田急線に登戸で乗り換えれば、狛江は、都心に出るよりはるかに近く行きやすい。距離の感覚とすれば、吉祥寺、西荻に出るのとさほど変わらない。
そのライブのある居酒屋だが、行ったことはなく名前だけ聞いていても場所などはわからなかった。で、ネットで検索したら、食べログだか何かですぐにみつかり、店の写真や地図もあり電話番号も出てたので、店にかけて時間とか詳細を事前に確認はした。
いろいろ慌ただしくて行けるかさこさんにはきちんと伝えてはなかったが、突然訪れて驚かそうという魂胆もあった。実は連日出かけていてかなり身体的には辛かったが、気分としては彼のシブい喉が聴きたかったのだ。
それで親たちに晩飯の支度して、ちょっとその辺で人と会うからと口実つけて、遅くなるかもしれないから先に寝るよう言いつけて狛江に向かった。
そんなで家を出たのがやや遅れてしまい、スタートの八時には間に合わないと思い、念のため立川からさこさんの携帯電話に電話した。これから行くと伝えたら、店への行き方も教えてくれたが、どうもそれを聞くと、自分がネットで調べた店とは場所が全然違う。
ネットで確認した地図だと、狛江の駅前だと載っていた。しかし、さこさん曰く、狛江より一つ先の喜多見から歩いたほうが近いとかあれこれ教えてくれている。店の名前は同じなのに場所が違うとはヘンだと気づき、電車内だったが、空いていたこともあり、携帯で慌ててその店に電話して場所を確認した。
そしたらば、やはり移転して、今は狛江駅前ではなく喜多見だと言う。行き方を聞いていると面倒なので、住所だけ聞き出しメモして、スマホのグーグルで位置を検索した。そしたら確かにさこさんが言っていた場所である。で、ざっと検討つけて、狛江でなく喜多見で降りて足早にその場所目指して向かった。既にライブは始まっていたが、迷わずにすぐ着くことができた。ほっとした。
もし、彼に電話せずに、ネットで調べた旧い地図頼りにその移転前の場所に向かっていたら全くの徒労であっただろう。たぶん、店に電話してもライブの間は電話に出なかったかもしれないし、もうライブは諦めて帰ったかと思う。
なんでこんなことが起きるのか。いったい誰が悪いのか。帰り道あれこれ考えた。
ブログとか店舗紹介のサイトがあり、そこに、店を訪れた客が、その店を好ましく思い紹介しようと画像つけてアップする。それは別に何も悪いことではない。店にとっても良いことだ。が、そこにある「情報」は常に新しい正しいものとは限らないし、今回のように店の場所自体変わってしまっていることも多々あろう。店自体が既になくなっていることすらも。
しかし、一度アップされた記事、つまりネット上にある、誰でも検索で引っかかる情報は、書き手が更新でもしない限りずっとそのまま店ざらし状態となってしまう。今回は、果たしてそれが今現在も正しいのか確認せずに、記事を読み、ここだと鵜のみにして出かけたのが行けないわけで、誰の責任でもない。
むろん、その当事者である、店自身が、常に自ら検索して、そうした古い誤った情報がそのままになっていたら、きちんと訂正を申し入れるか、コメントなど書き入れて、新たな正しい情報をフォローしないとならなかったのだ。しかし、いったい誰がいつ書いたか、常にチェックはできないし、当然のことながら見落としもあろう。
店主にそのことを申し入れはしたが、たとえ間違った地図で、客が違う場所に行ってしまったとしても店には責任は問えないはずだし、店も客も損するだけの話でしかない。かといってアップさせた投稿者の責任も問えない。その時点では何一つ間違いはしていないのだから。我がブログもだが、書いてアップした記事など後になってまず読み返したり修正などしないものだ。
つまるところ、これが便利なインターネットというものの落とし穴の一つであろう。情報は常に古くなり当然今現在とは異なるものになっている可能性は高い。そう最初から考えて行動するべきであった。
これが本とか雑誌なら、現物を見たり手に取れば、すぐにそれが新しいそれか、古いものかほぼだいたいすぐにわかる。しかし、ネットの記事は基本「風化」しないから、更新日時がきちんと記していない限り、いったいそれが古い記事か新しいものか判明しない。
以前もあるイベントに興味があり検索していたら、すぐヒットして日時も確認できたので行こうかと考えたが、それは既に終了した前年のそれであったことがある。記事には開催日の日時は載っていても年度は記載されていなかったので、主催者が終わったことを付け足すか更新しない限り、終わった古い情報が臆面なく今もずっと流れたままでヒットしてしまうのであった。
また、ウィキペディアなどで、載るぐらいの人物となれば、自らのオフィシャルサイトなどない限り、本人でもないのに誰かがご苦労にも経歴や履歴、何をしたのかまで勝手に説明的に書きこんでくれる。
我はまったく無名で、そんな心配はしたことがないけれど、某親しくしている女性ライターは、ある程度公的にそれで仕事して世間的に名前が売れたせいか、そこの人物リストに勝手に載せられている。それは仕方ないとしても、その「評伝」的記事には多々誤りがあり、事実でないことがあたかも事実であるかのように、勝手に誰かによって書き込まれてしまい、申し入れてもなかなか訂正もできず、怒り困惑していたことがあった。
しかし、読み手にとっては、そうした経緯など知るよしもないから、その記事は「事実」だとして知り覚え思い込むであろう。じっさい自分も何か調べたい時などそこを利用することが多々ある。いや、検索してみると人物ならたいていウィキペディアとか、質問サイトのようなところにたどり着く。とある素朴な疑問やわからないことに、ネットの世界ではご親切にも誰かが懇切丁寧に答えて教えてくれている。
だが、なるほどと便利に思う反面、我が知る詳しいことなどには、??と首を傾げる「回答」もかなりある。ということは、やはりそれは事実であったとしても正確でなかったり、そもそも間違いや事実誤認であったりも多々するのであろう。
でもそれを言えばマスメディア、新聞や雑誌の記事だって全て本当に正しいのか疑ってかからなくてはならない。ただ、そうした紙媒体の記事は、誤りの指摘や批判や訂正申し入れを受ければ、後に訂正や修正もするし、その旨告知もする。当然ながらそうした義務がある。
しかし、このネットというメディアだけは、一切それがない。そもそもあってしかるべき時間軸というものすら存在していない。だから新旧の情報が検索すれば一気に同時にヒットしてしまう。そしてまたそれがある時点で正しいか事実かをチェックする組織も個人も存在しない。せいぜい書かれた当事者側、店や個人、組織が自らどうネット上で取り上げられているか逐次チェックするしかない。しかしそれは個人ではまず不可能なことだ。
ならばできることとして、ネット利用者は、ネット上の記事とは頭ごなしに信じてはならないものと常に自戒し、基本として疑って批判的にとり扱うしかない。何の検証も証明もされずに次々と流れて行く情報こそがネットの世界であり、現実の本当のことと、ネット内のバーチャルな本当とは違うことを強く自覚しないとならなかったのだ。
パソコンやスマホがここまで普及する前に、そこに流れている情報こそ迂闊に信じてはならないことを社会全体が認識し共有すべきであった。が、もう遅いだろう。せいぜいネットの情報なんて与太だと嘯くぐらいのことしかできやしない。
我はさっそく、その食べログのコメント欄に、その店の場所、位置情報は間違っていること、電話番号は変わっていないことだけ書き加えておいた。じっさいのところ、ネット利用者たちがそうやって皆で随時新たに誤りに気づいたら即訂正をコメントに書き込むなどフォローしていくしか、正しい、本当のことはネット上に存在しえない。
そうした行為を草の根民主主義に模して、逆に規制がないゆえ自由で良いことだという考え方もある。ウィキペディアもそう謳っている。しかし、まず利用者たちが全員のコンセンサスがあるかどうか前提がそこにあるかが問われることであろう。
システムだけできていても日本の民主主義のように、国民の理解不足から形骸化してしまえばそれは意味をなさない。
事実とは、ある時点では正しいこと、本当のことだったとしても、ある時点を過ぎると正しくないこと、事実とは異なることとなることも多々ある。世界史における歴史認識も同様なのであろうか。いや、そもそも事実誤認と時間経過などによる明らかな変更とを同一にしてはならないだけの話なのかもしれない。帰りの南武線の中でそんなことをあれこれ考え続けた。
先日一昨日のこと、敬愛するシンガーソングライター・さこ大介さんのライブが、彼の地元狛江の居酒屋であると知らされ、なかなか会う機会もこのところなかったので、南武線に乗って出向いた。個人的にちょっと話したいこともあった。
ウチからだと、小田急線に登戸で乗り換えれば、狛江は、都心に出るよりはるかに近く行きやすい。距離の感覚とすれば、吉祥寺、西荻に出るのとさほど変わらない。
そのライブのある居酒屋だが、行ったことはなく名前だけ聞いていても場所などはわからなかった。で、ネットで検索したら、食べログだか何かですぐにみつかり、店の写真や地図もあり電話番号も出てたので、店にかけて時間とか詳細を事前に確認はした。
いろいろ慌ただしくて行けるかさこさんにはきちんと伝えてはなかったが、突然訪れて驚かそうという魂胆もあった。実は連日出かけていてかなり身体的には辛かったが、気分としては彼のシブい喉が聴きたかったのだ。
それで親たちに晩飯の支度して、ちょっとその辺で人と会うからと口実つけて、遅くなるかもしれないから先に寝るよう言いつけて狛江に向かった。
そんなで家を出たのがやや遅れてしまい、スタートの八時には間に合わないと思い、念のため立川からさこさんの携帯電話に電話した。これから行くと伝えたら、店への行き方も教えてくれたが、どうもそれを聞くと、自分がネットで調べた店とは場所が全然違う。
ネットで確認した地図だと、狛江の駅前だと載っていた。しかし、さこさん曰く、狛江より一つ先の喜多見から歩いたほうが近いとかあれこれ教えてくれている。店の名前は同じなのに場所が違うとはヘンだと気づき、電車内だったが、空いていたこともあり、携帯で慌ててその店に電話して場所を確認した。
そしたらば、やはり移転して、今は狛江駅前ではなく喜多見だと言う。行き方を聞いていると面倒なので、住所だけ聞き出しメモして、スマホのグーグルで位置を検索した。そしたら確かにさこさんが言っていた場所である。で、ざっと検討つけて、狛江でなく喜多見で降りて足早にその場所目指して向かった。既にライブは始まっていたが、迷わずにすぐ着くことができた。ほっとした。
もし、彼に電話せずに、ネットで調べた旧い地図頼りにその移転前の場所に向かっていたら全くの徒労であっただろう。たぶん、店に電話してもライブの間は電話に出なかったかもしれないし、もうライブは諦めて帰ったかと思う。
なんでこんなことが起きるのか。いったい誰が悪いのか。帰り道あれこれ考えた。
ブログとか店舗紹介のサイトがあり、そこに、店を訪れた客が、その店を好ましく思い紹介しようと画像つけてアップする。それは別に何も悪いことではない。店にとっても良いことだ。が、そこにある「情報」は常に新しい正しいものとは限らないし、今回のように店の場所自体変わってしまっていることも多々あろう。店自体が既になくなっていることすらも。
しかし、一度アップされた記事、つまりネット上にある、誰でも検索で引っかかる情報は、書き手が更新でもしない限りずっとそのまま店ざらし状態となってしまう。今回は、果たしてそれが今現在も正しいのか確認せずに、記事を読み、ここだと鵜のみにして出かけたのが行けないわけで、誰の責任でもない。
むろん、その当事者である、店自身が、常に自ら検索して、そうした古い誤った情報がそのままになっていたら、きちんと訂正を申し入れるか、コメントなど書き入れて、新たな正しい情報をフォローしないとならなかったのだ。しかし、いったい誰がいつ書いたか、常にチェックはできないし、当然のことながら見落としもあろう。
店主にそのことを申し入れはしたが、たとえ間違った地図で、客が違う場所に行ってしまったとしても店には責任は問えないはずだし、店も客も損するだけの話でしかない。かといってアップさせた投稿者の責任も問えない。その時点では何一つ間違いはしていないのだから。我がブログもだが、書いてアップした記事など後になってまず読み返したり修正などしないものだ。
つまるところ、これが便利なインターネットというものの落とし穴の一つであろう。情報は常に古くなり当然今現在とは異なるものになっている可能性は高い。そう最初から考えて行動するべきであった。
これが本とか雑誌なら、現物を見たり手に取れば、すぐにそれが新しいそれか、古いものかほぼだいたいすぐにわかる。しかし、ネットの記事は基本「風化」しないから、更新日時がきちんと記していない限り、いったいそれが古い記事か新しいものか判明しない。
以前もあるイベントに興味があり検索していたら、すぐヒットして日時も確認できたので行こうかと考えたが、それは既に終了した前年のそれであったことがある。記事には開催日の日時は載っていても年度は記載されていなかったので、主催者が終わったことを付け足すか更新しない限り、終わった古い情報が臆面なく今もずっと流れたままでヒットしてしまうのであった。
また、ウィキペディアなどで、載るぐらいの人物となれば、自らのオフィシャルサイトなどない限り、本人でもないのに誰かがご苦労にも経歴や履歴、何をしたのかまで勝手に説明的に書きこんでくれる。
我はまったく無名で、そんな心配はしたことがないけれど、某親しくしている女性ライターは、ある程度公的にそれで仕事して世間的に名前が売れたせいか、そこの人物リストに勝手に載せられている。それは仕方ないとしても、その「評伝」的記事には多々誤りがあり、事実でないことがあたかも事実であるかのように、勝手に誰かによって書き込まれてしまい、申し入れてもなかなか訂正もできず、怒り困惑していたことがあった。
しかし、読み手にとっては、そうした経緯など知るよしもないから、その記事は「事実」だとして知り覚え思い込むであろう。じっさい自分も何か調べたい時などそこを利用することが多々ある。いや、検索してみると人物ならたいていウィキペディアとか、質問サイトのようなところにたどり着く。とある素朴な疑問やわからないことに、ネットの世界ではご親切にも誰かが懇切丁寧に答えて教えてくれている。
だが、なるほどと便利に思う反面、我が知る詳しいことなどには、??と首を傾げる「回答」もかなりある。ということは、やはりそれは事実であったとしても正確でなかったり、そもそも間違いや事実誤認であったりも多々するのであろう。
でもそれを言えばマスメディア、新聞や雑誌の記事だって全て本当に正しいのか疑ってかからなくてはならない。ただ、そうした紙媒体の記事は、誤りの指摘や批判や訂正申し入れを受ければ、後に訂正や修正もするし、その旨告知もする。当然ながらそうした義務がある。
しかし、このネットというメディアだけは、一切それがない。そもそもあってしかるべき時間軸というものすら存在していない。だから新旧の情報が検索すれば一気に同時にヒットしてしまう。そしてまたそれがある時点で正しいか事実かをチェックする組織も個人も存在しない。せいぜい書かれた当事者側、店や個人、組織が自らどうネット上で取り上げられているか逐次チェックするしかない。しかしそれは個人ではまず不可能なことだ。
ならばできることとして、ネット利用者は、ネット上の記事とは頭ごなしに信じてはならないものと常に自戒し、基本として疑って批判的にとり扱うしかない。何の検証も証明もされずに次々と流れて行く情報こそがネットの世界であり、現実の本当のことと、ネット内のバーチャルな本当とは違うことを強く自覚しないとならなかったのだ。
パソコンやスマホがここまで普及する前に、そこに流れている情報こそ迂闊に信じてはならないことを社会全体が認識し共有すべきであった。が、もう遅いだろう。せいぜいネットの情報なんて与太だと嘯くぐらいのことしかできやしない。
我はさっそく、その食べログのコメント欄に、その店の場所、位置情報は間違っていること、電話番号は変わっていないことだけ書き加えておいた。じっさいのところ、ネット利用者たちがそうやって皆で随時新たに誤りに気づいたら即訂正をコメントに書き込むなどフォローしていくしか、正しい、本当のことはネット上に存在しえない。
そうした行為を草の根民主主義に模して、逆に規制がないゆえ自由で良いことだという考え方もある。ウィキペディアもそう謳っている。しかし、まず利用者たちが全員のコンセンサスがあるかどうか前提がそこにあるかが問われることであろう。
システムだけできていても日本の民主主義のように、国民の理解不足から形骸化してしまえばそれは意味をなさない。
事実とは、ある時点では正しいこと、本当のことだったとしても、ある時点を過ぎると正しくないこと、事実とは異なることとなることも多々ある。世界史における歴史認識も同様なのであろうか。いや、そもそも事実誤認と時間経過などによる明らかな変更とを同一にしてはならないだけの話なのかもしれない。帰りの南武線の中でそんなことをあれこれ考え続けた。
今年も無頼庵クリスマス謝恩ライブパーティー、お待ちしてます。 ― 2015年12月15日 21時49分31秒
★無頼庵と我マスダと関わる方なら当ブログの読者もお気軽に
12月も半ばとなった。幸い今年は暖冬で、まだ霜も降りず、ウチではようやくイチョウや欅の落葉騒動も一段落したところで、いよいよこともラストスパートだ。残すは二週間というところか。
先にちょこっと告知はしたけれど、今年も拙宅無頼庵で、クリスマスのライブイベントをやります。これは毎年恒例で、12/23日の、天皇誕生日に、今年一年を振り返り、薪ストーブで鶏を焼いて、呑んで食べて唄って今年一年を感謝して振り返るという催しだ。
まあ、忘年会なのだけれどただ呑んで騒ぐだけでなく、歌あり、映像あり、演奏ありと、ライブイベントとしても盛り沢山の見ごたえある楽しい催しとして毎年多くの人たちが入れ替わり来ている。
今年もミュージシャンとしては、マス坊がソウルブラザーとして敬愛する、さこ大介、そして、大先達、西島寛二のご両人が。その他、藤しんいちろう、そしてマスダのぶらいあんず他、三留まゆみ映画塾からも映像が届き、無頼庵オールスター総がかり行動といって良いかと思う。
時間は、午後3時半頃開場、開始は4時頃。 終演は電車で帰れる人がいる限りやっているから11時頃までかと思う。遠方からの方は泊まってもまわないのだが、翌日、朝から親たちの病院通いもあるので、できればその日のうちに終わらせたいと思う。まあ、その晩はできるだけ遅くまでみんなで呑んで食べて唄って騒いで浮世の憂さを忘れたいと願う。
参加費は毎年同じで、何か1曲でも唄ったり、映像など持ち込んだりパフォーマンスした方は無料。それ以外の観客側の方は一律千円。
むろんカンパや酒や料理などの持ち込みも歓迎する。
参加資格は基本問わない。我マスダとこのブログを通して読者として関わった程度でもぜひご参加ください。むろん拙宅に来られた方、そしてマスダと多少でも顔見知りの方も遠慮なくお気軽に。お誘いあわせのうえ、お越しください。
ただ、ライブに出られる方は、時間配分など組まないとならない関係上、できれば事前に参加の連絡頂ければ助かります。一般客は勝手ににふらっと来てふらっと帰ることで全くかまいません。
で、ウチ、無頼庵の場所ですが、知らない方は、このブログのコメント欄に、メルアドか電話番号記してくれれば、行き方の地図など送るか口頭で説明します。青梅線で立川から四つ目で、徒歩8分ぐらいです。
また今は生活困窮されている方もぜひお越しください。我と同じく連れ合いのいない孤独な人も。クリスマスです。どうかみんなで楽しく集い美味しいものを呑んで食べて騒いで鋭気を養い来年もしっかり生き抜いていきましょう。来年こそはもう少しマシな良い年になることを願い信じて。
そして・・・個人的なことを少し。
先にも記したけれど、母の癌治療もあり、これから先のことは予定が立ちません。気持ちとしては、来年もまた開催したいしその予定でいるけれど、正直なところ来年もやれるか確約はできません。場合によっては今年で最後となる可能性もあります。ならばこそ、できるだけ多くの方に来て頂き、盛大に今年も大騒ぎしたい。
ホント、今これを目にした方も来られてちっともかまわない。人生は一期一会であると共に、全ては予め出会うべく仕組まれている。我ができることはそうした場を作り、同じ思いと志持つ者たちが出会うべくきっかけを作ることだけだ。
そして何よりも今の気持ちとして、今年も一年無事に生き長らえたとしたら、通りすがり人にさえもただただ感謝という気持ちでいっぱいだ。本当に有難いと心から思っている。ならばその「御礼」をしたい。お返しをしなければ罰があたる。
大変な時代だからこそ今同時代を生きている者たちが集い共に感謝の気持ちで支え励まし合い、来年もがんばりたいとただそれだけを願っている。
どなたでもお気軽に。我は何も拒まない。すべてを受け入れて行く覚悟はできている。
12月も半ばとなった。幸い今年は暖冬で、まだ霜も降りず、ウチではようやくイチョウや欅の落葉騒動も一段落したところで、いよいよこともラストスパートだ。残すは二週間というところか。
先にちょこっと告知はしたけれど、今年も拙宅無頼庵で、クリスマスのライブイベントをやります。これは毎年恒例で、12/23日の、天皇誕生日に、今年一年を振り返り、薪ストーブで鶏を焼いて、呑んで食べて唄って今年一年を感謝して振り返るという催しだ。
まあ、忘年会なのだけれどただ呑んで騒ぐだけでなく、歌あり、映像あり、演奏ありと、ライブイベントとしても盛り沢山の見ごたえある楽しい催しとして毎年多くの人たちが入れ替わり来ている。
今年もミュージシャンとしては、マス坊がソウルブラザーとして敬愛する、さこ大介、そして、大先達、西島寛二のご両人が。その他、藤しんいちろう、そしてマスダのぶらいあんず他、三留まゆみ映画塾からも映像が届き、無頼庵オールスター総がかり行動といって良いかと思う。
時間は、午後3時半頃開場、開始は4時頃。 終演は電車で帰れる人がいる限りやっているから11時頃までかと思う。遠方からの方は泊まってもまわないのだが、翌日、朝から親たちの病院通いもあるので、できればその日のうちに終わらせたいと思う。まあ、その晩はできるだけ遅くまでみんなで呑んで食べて唄って騒いで浮世の憂さを忘れたいと願う。
参加費は毎年同じで、何か1曲でも唄ったり、映像など持ち込んだりパフォーマンスした方は無料。それ以外の観客側の方は一律千円。
むろんカンパや酒や料理などの持ち込みも歓迎する。
参加資格は基本問わない。我マスダとこのブログを通して読者として関わった程度でもぜひご参加ください。むろん拙宅に来られた方、そしてマスダと多少でも顔見知りの方も遠慮なくお気軽に。お誘いあわせのうえ、お越しください。
ただ、ライブに出られる方は、時間配分など組まないとならない関係上、できれば事前に参加の連絡頂ければ助かります。一般客は勝手ににふらっと来てふらっと帰ることで全くかまいません。
で、ウチ、無頼庵の場所ですが、知らない方は、このブログのコメント欄に、メルアドか電話番号記してくれれば、行き方の地図など送るか口頭で説明します。青梅線で立川から四つ目で、徒歩8分ぐらいです。
また今は生活困窮されている方もぜひお越しください。我と同じく連れ合いのいない孤独な人も。クリスマスです。どうかみんなで楽しく集い美味しいものを呑んで食べて騒いで鋭気を養い来年もしっかり生き抜いていきましょう。来年こそはもう少しマシな良い年になることを願い信じて。
そして・・・個人的なことを少し。
先にも記したけれど、母の癌治療もあり、これから先のことは予定が立ちません。気持ちとしては、来年もまた開催したいしその予定でいるけれど、正直なところ来年もやれるか確約はできません。場合によっては今年で最後となる可能性もあります。ならばこそ、できるだけ多くの方に来て頂き、盛大に今年も大騒ぎしたい。
ホント、今これを目にした方も来られてちっともかまわない。人生は一期一会であると共に、全ては予め出会うべく仕組まれている。我ができることはそうした場を作り、同じ思いと志持つ者たちが出会うべくきっかけを作ることだけだ。
そして何よりも今の気持ちとして、今年も一年無事に生き長らえたとしたら、通りすがり人にさえもただただ感謝という気持ちでいっぱいだ。本当に有難いと心から思っている。ならばその「御礼」をしたい。お返しをしなければ罰があたる。
大変な時代だからこそ今同時代を生きている者たちが集い共に感謝の気持ちで支え励まし合い、来年もがんばりたいとただそれだけを願っている。
どなたでもお気軽に。我は何も拒まない。すべてを受け入れて行く覚悟はできている。
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