無力な者として生まれ、無力な者として死んでいく2016年08月27日 06時51分01秒

★相模原の障害者施設殺傷事件に我は思う。

 あれから早くも一か月だときく。そして今も事件について様々な報道がなされている。我もまた心痛めている。
 そして障害者に対する人権のあり方やこうした動機となった差別的偏見や危険性とどう向き合っていくかとかあれこれ発言が今も続いている。
 が、我は何でこの犯人の男の「考え」をまともに取り上げて「問題視」するのか不思議でならない。はっきり書けば、この男はキチガイなのである。キチガイの謂いを、例えば、ある精神病者が見たり考えたり夢想したことを世間はまともに扱わないだろう。
 それはビョーキであって、障害者を世界の平和のために抹殺するなんて発言は完全に狂った妄想であり心の病気、精神が病んだ者の一症状として一笑に付すか、ともかくきちんと報道すべきほどのことではないと考える。
 これは単に、肉体は健康で力ある一人の精神障害者、人格障害ある者が、弱い非力な身体心身障害者たちを身勝手にも彼の狂気の果てに襲撃しただけの事件であって社会の病理にしてはならない。
 
 そしてもう一つ気になるのは、健常者たちが、もっと障害者たちのことを思い心配し守らねばならないとか、共に共生する社会の構築とか、「健常」と「障碍」のある者とを二分した意識の発言が根底にあることだ。
 我自身、外からは見えない遺伝的障害を持つ者として、そもそもこの世には健常者と障碍者という別の異なるタイプの人種がいると考えていない。何で世間は健常者と障碍者と、分けて考えるのか昔から不思議でならない。
 完全な健常な者はいないし、皆それぞれが多かれ少なかれ、障害の程度の差はあれど、何らかの「障碍」は抱えているのだと考えている。肉体は健康でも精神を病む者もいくらでもいよう。
 むろん、生まれた時から一人では生きていけないほどの重度の身体障害があり、一目で障害者として判別される人たちも存在している。その無力さ故に障害者と扱われ可哀想だと世間は見ている。
 が、人とはそもそも生まれた時は無力なのである。他の動物では、出生後すぐに自ら動き出し自ら食餌をとることのできる「健常」なものもいる。
 しかし、生物として知的に高等になるにつれて一人で自立して生きていくための時間はやたら長くかかるようになっていく。
 おそらく生物の中で、人類がもっとも成人まで成長するのに時間が必要なのではないか。短くても10数年経たないと一人で自活して生きていけるようにならない。周囲の助けで彼らはそこまで生きて成長していく。
 そしてそうして「健常」な状態となったとしても長く生きていればやがては老い病んだりもして、あるいはときに事故などで、人はまた一人では何もできない無力な者にまた戻っていく。

 今、老親たちを見ていてつくづくその無力さにそう思う。そして気づいた。人とは無力で生まれ、親や周囲の者に育てられ守られて一人前の健常となるが、やがてはまた無力な状態に戻っていくのだと。
 ならばそもそも健常者とか障害者という区分は不必要であろう。たんに、そうした「状態」があるだけのことで、全く違うタイプの人間がいるわけではない。
 「障害」は程度の差はあれ誰にでもある。背の低い人や極端に太っていれば、世間では生きていくのはなかなか難しい。様々な日常生活で苦労もしよう。
 あるいは極端に大きい人は、またそれはそれで、電車に乗るのも苦労している。大きかれ小さかれ着る物も履く物もなかなかみつからない。
 だが、社会とはそうした様々な異なる人たちがいて当然の、多様なものなのである。そしてだからこそ助け合って声かけあって生きていかねばならない。
 人は自らが「健常者」だなんて思ってはならない。この世に完全無欠な健常、正常なものなど一人もいない。今そうだとしてもやがては老いて病み、誰かの手を借りねば生きていけない状況に自らなっていく。

 ならばこそ、障害も健常も程度の差でしかないのだとそもそも共通意識として誰もが認識して、社会もそれを認め受け入れて皆で助け合い生きていくしかないではないか。
 つまり目の見えない人がホームにいたら、何気なく声かけるとか、介護に大変な家庭があれば、体力や経済的、時間的に余裕あらば、ボランティア的に関わっていく。
 そうしたことができるのが、言葉と残せる知識をもった知的生物である人間であり、その集合体としての社会なのだと考える。

 障碍者を可愛そうとか大変だと考えるのは間違いではない。しかしそこに、自分とは違う別の人種だと考えてはならない。そう目に見える、はっきりわかる障害もある多くあるが、多くは外に出ない、秘められた隠された障害もまた多々あるのである。

 今回の障害者襲撃事件、被害者の方々と同様に何よりもまず狂ってしまった犯人の男を可愛そうに思う。事件に至る前にどうにかして止めることはできなかったか。
 マスコミは彼の狂った言い分や動機を解明しようとすることなどに時間費やさず、こうした精神「障害者」をこの社会はどう受け入れて問題を起こさぬよう共に生きていくかその道を探るべきであろう。