日々青息吐息、まさに薄氷踏む思いで2017年12月13日 20時41分51秒

★慌ただしく一日一日、一週間が一月が、そして一年が過ぎていく

 おかげさまで、何とか父は無事ショートステイに送り出すことができた。昨晩は微熱気味だったが、いろいろビタミン剤を飲ませて早く寝かせたのが効を奏したか、幸いにして今朝は熱はなく、バカは相変わらずだが、ともかく施設に連れて預けられた。
 それから家のことと自分の仕事に精出して、夕方疲れて昼寝したくも思ったが、時間的にその余裕もなく、結局今日なすべきことは最大限できるだけ成し終えて、今ほっとやや酔っぱらって一息ついている。

 それにしてもまさに青息吐息、父に風邪はまだ伝染らず、今日明日と一泊二日で施設に無事預けられたので、今ようやく今日の予定は成し終えることができた。繰り返しになるが、父が在宅の日は、自分のことも家のことも全く何もできない。何をしでかすかわからず常に目と手が離せないから、犬の散歩すらゆっくり思うようにできないほどだ。
 かといって父が早く死んで、一切もうその世話をしないですむことを望んでいるかというと、その辺は微妙で、今は父が生きている、そしてこの家に基本的にいるということを前提に我が人生は設定されているので、その先については何とも想定できない。

 じっさい、父無しで、我一人で今後の人生とこの家を抱えて、たった一人で残りの人生をやっていくことはまだ何も考えられない。
 それはとてもつなく自由かもしれないが、逆にとてつもなく孤独で不自由のようにも思える。我は一人では生きていけない。いや、やってはいけるけれど、おそらくすぐに死んでしまうのではないか。
 何故なら、父が施設へ行って家にいない日は、我は、気がつけば夕方までコーヒーなど飲み物類は飲んでるが、主食はほとんど何も食べず、自らのためには何一つ作りもしないからだ。犬たちには餌をつくって与えるが、はたと気づけば、自分は朝から何も食べていないことによく思い至る。
 腹も空かないことはないが、自分一人のために何か作る気力もないし、そもそも自分のことはどうでもいい。その辺のお菓子類をつまんでそれで済ませてしまうし、作るとしてもインスタントラーメン程度ならまだしも後はすべて何であれ面倒くさい。飯炊けば何日も残るだろうし、一回一人分だけ炊くなんて面倒くさくてバカらしい。
 我は料理作るのは苦ではないが、それは他人がいてこそであって、誰かのため、他人のためにならならどんなことだって苦にしないが、自分のためには何一つしないし飯もつくらない。自分のためには何一つしたくない。そんな無意味なことはない。

 そういう意味で、面倒な手のかかる父がいてこそ、我の人生は動き、嫌でも飯を作ったり洗濯したり介助もするわけで、その人がいないのならば、果たして我は我一人の身のために自らそうした「生活」を営むのか全く自信がない。今の感じではたぶん何一つやらないのではないか。
 誰も来なければ掃除もしないし、飯もつくらないし何も食べない。思えば我は元よりこの我が人生に対してずっとネグレクトしていて、それでも何とかやってこれたのは、そんな我でも求め請われ、そこに役割があったからだ。つまり今なら「父」という存在があってこそ、我は対社会的に嫌でもがんばって何とか対応してやっているのである。

 世に性同一性障害とかいう「病気」があるのだそうだ。そのもって生まれた自らの性に違和感を感じその性で生きていくのが苦痛でならず、別のもう一つの性のほうが本当の自分だと思うらしい。そして、その自ら任ずる「本来の性」のほうに人生を合わせるべく、日常生活も肉体すら変えることを望むのだと。
 ならば、我はそういうふうに自分の性も含め人生をきちんととらえられ向き合える人はある意味幸福だと思う。

 我の場合は、「人生同一障害」というべき、自ら一人だけではどこにも居場所がなく、居心地の悪さをずっと常に感じていて、本当の自分の性と同じく、「本当の自分」がどこかにあるような気もするが、いつだって現実はとことん最低で、自己嫌悪の挙句は自己否定するしかなくどこにも自分の居場所は今も昔も対社会的にはない。
 謙遜ではなくほんとうに誰とでもうまくやっていけないし、誰にも愛されない。少しは親しくなったとしても女も男も皆やがては我から去っていく。幸いにしてそうした我を見捨てず愛し見捨てずとことん付き合ってくれたのは、我が父と母だけなわけで、その母は既に亡く、そして最後の一人は、もう呆けて半ば狂人と化した父だけのわけで、その人がいなくなれば、我は果たして一人で何をよすがに生きていくべきか。その不安が強くある。

 むろんこんな我にも友人知人は多くなくも有難くもいる。多少は気にもとめてくれる女友達も何人かいる。が、その女性たちと我の人生は関わることはないし、むろん同性はまして交わるこほとんど何もない。皆それぞれの大変な人生がそこにあるだけなのだ。
 つまるところ我は残りの人生をたった一人で抱えて何とか維持していかねばならない。だが、我は我が人生にそもそも何も関心がない。いや、そもそも愛してないからきちんと関われない。どうしてもきちんとすることができやしない。そもそも自分のことがどうにも好きではない。長年付き合ってきたが、もはやとことん愛想が尽きている。
 気がつけば相変わらずバカでどうしようもない自分がそこに呆然と佇んでいる。

 幸い我は、多少なりとも信仰を持ち、そんな我をも生かし見守ってくれている有難き「神」の存在を信ずるから、自死することはないけれど、自分の罪と罰についてはもうとことんうんざりするほどわかりきっている。
 我がまだ生き、残りの人生があるならば、それは償い以外の何物でもなく、まさに自堕落野放図に生きて来た、愚かな人生の自業自得の結果なのだと思う。

 人生は誰にとっても公平なものだとつくづく思う。我は就職もせず十分好き勝手に生き、したい放題して、傍若無人に多くの人を傷つけ、さんざん苦しませてきた。そして今、老いて結果として自ら身動きとれなくなり、まさに青息吐息、四苦八苦の状態に陥って、つくづくああそうだったのか、と気がつく。これだから今こうなったのだと。
 後悔しているか、悔やんでいるか。いや、人生がもう一度やり直せたらと願う人にはまだ救いがある。我は、もう一度やり直すチャンスを与えられたとしてもまた必ず同じ失敗をしでかす「自信」がある。それぐらいどうしようもないダメなのである。

 だが、絶望はしない。諦めない。このどうしようもない人生の行きつく先には何があるか、ある意味、カタギの人たちへの復讐の念も込めて、どうしようもない「見本」としてとことん生き延びてやる。
 我が人生は屈辱以外何ものでもない。ならばこそ、それみたことか、と嘲り罵倒する者たちに対しても、何としても一日でも長く生きて行かねばならぬと思う。その意味でも我が人生は自分のためではない。

 まあ、どうしょうもない人生だけれど、とことん生きて行かねばならない。何故なら、周りを見れば、まだ死ぬべきでない善き人が、嫌でも無慈悲に死んでいる。ならばこそ、我もまたその日が来るまではおいそれとカンタンに死んではならないのではないか。
 人は死ぬときは嫌でもお構いなしに必ず死ぬのだから。