「うた」の力を今こそ信じて~善良な市民よ、立ち上がれ!2014年07月02日 16時12分09秒

★清志郎の遺した「うた」は今も力を持つ            アクセスランキング: 106位 

 山梨の山里から帰ってきた。
 今さら記すまでもないが、自公政権は、昨日7月1日、集団的自衛権の行使容認の閣議決定をした。つまりこれまでの憲法の解釈を変えて、この国、日本も攻撃を受けていなくとも他国、外国へ行き戦闘行為、戦争に参加できるようにするということだ。これから法整備を整えて国会に諮っていく。与党自公及び右翼政党多数の現国会ではそのまま「行使容認」が法律として確定していくだろう。

 しかし、そのことは現行憲法ではっきり禁じられている。それを「解釈」として憲法を変えることなく一内閣、一国会で「可能」とすることは、果たして三権分立を考えれば異常というかそもそも許されることなのであろうか。
 これは一つの権力が勝手に暴走したクーデターであり、まっとうな法治国家ではあってはならないことではないのか。司法の立場が何故これを諌めないのか、国家の最高規範である憲法をないがしろにした憲法違反である、と断じないのか不思議でならない。衆参一回の選挙で議席を得た政党、政治家が勝手に国の未来さえも決定づける権利があるのか。
 
 これまで戦後ずっと続いてきた「専守防衛」というスタンスを変えて、積極的に戦闘地域に、日本も「国際貢献」の名の下に戦争に参加していくことになる。そのとき、その先に何があるのか。何が待っているのか。残念ながら多くの日本人は想像すらできていない。

 さて、今朝は山梨の古民家で目覚めた。そこはパソコンもインターネット環境もテレビすらない。マス坊は携帯はあるけれどメールすら読めも書けもしない。
 仕方なく、ラジカセのラジオで、一番よく聴こえる八ヶ岳周辺に向けた地域コミュニティFMを常時設定してBGM的に流している。ただ、それは地元局の制作の番組は本当に内容もなく、どこそこで何々の集いがあるとか、何々を開催中とか地域のお知らせと気の抜けたインストしか流さずラジオとしての態をほとんど成していない。
 ただ、そうした地方局は、新聞の地方紙と同じく、出来合いの「番組」を配信(供給=契約して購入)してもらっているようで、自局政策とは打って変わった今風のDJが語るおしゃれなラジオ番組も朝晩は流れてくる。

 その地域FMで今朝、ミュージックバードから供給を受けた「モーニング・コミュニティ」という放送が朝7時からやっていた。自分は起きてコーヒーを入れたりしていた。
 男性DJがトップニュースとしてやはりまずは、と切り出したのが「自衛権行使の閣議決定」についてで、これは日本の将来についてとても大きな大事なことであり賛否両論あるし、昨日は反対する集会もあったが、今の国会では賛成する勢力が多いので・・・、と口ごもり、野党のふがいなさについても嘆じ、これからも目が離せないと話を結び終え曲をかけた。
 それが忌野清志郎の「善良な市民」であった。思わず手をとめ耳をすました。

 拙ブログの読者ならばご存知かと思う。
 今は亡き清志郎が2004年だったか発表した曲で、「泥棒が 憲法改正の論議をしてる コソ泥が 選挙制度改革で揉めてる でも 善良な市民は 参加させてもらえず また 間違った人を選ぶ 泥棒が 建設会社に饅頭を貰ってる 金屏風の陰で ヤクザと取引してる でも 善良な市民は・・・」と政治意識の低いこの国の小市民的国民性を鋭く糾弾したうたである。
 この曲はまさに「今」のことを唄っていると鳥肌が立つ思いがした。うたは、「善良な市民は見知らぬ土地で弾にあたって死ぬだけさ」、と結ぶがこの集団的自衛権行使閣議決定の今、恐ろしいことに清志郎の懸念したことがまんま「現実」となってしまったのである。
 そして今日、閣議決定を報じた放送の中ですぐさまこの曲を流したDJ及びスタッフの勇気とセンスに大いに感心した。心から敬意を表する。何も語らずとも彼らの思い、志が伝わってきた。

 そして思った。おそらくこれからはこの曲は大手民放ではスポンサーの関係から「放送禁止歌」として流すのを自粛させられるだろう。しかし、いかに権力者たちがこの曲、清志郎の残したプロテストソング「善良な市民」を国民が聴けないよう、手を尽くしたとしてもインターネットの時代、様々なところから曲は流れるし唄われていくはずだ。
 そして今ならば一度でもこの曲を耳にすれば、いくら善良な市民であろうとも我が身に照らして思い当たることがあるだろう。そして思うはずだ。戦争に行くのは自分や自分の身内なのだと、そんなのまっぴらごめんだと。もう絶対やつらに騙されない、間違った人は選ばないぞと。

 今、事態を受けて連日国会や首相官邸前で多くの人たちが連日抗議活動を続けている。そのことはとても大事であり自分も駆けつけたいしそうすべきかとも迷う。ただ、なかなか諸般の事情もあり行くことはかなわない。仕方なくブログなどで思うところを書いているだけだが、今朝のFMから流れてきた「善良な市民」を改めて聴いて、これだ!と思わず膝をうった。
 うたの力なのだ。ビクトル・ハラを挙げるまでもなく、時の権力を批判し唄をつくり、唄って当局に逮捕され殺された歌い手もいた。文学の力、文字の力も大きいけれど、それは媒体としてやりとりしなくてはならない。また、読む、読んでもらうという行為を求められる。
 うたはそうではない。「うた」としてただあるだけで良い。街角でその歌が流れ、人は聞けば心を動かされる。考えさせられる。そしてその歌は人から人へと歌い継がれ、人の心を、世界をも変えていく。

 自分がこの大変な時代にできること、すべきことをずっと考え続けていたが、ブログで思いのたけを発信したとしてもどれだけの人に伝わるか正直疑問に思っていた。
 読んでくれるのはたぶん皆同じ思いの人たちだけであろう。それでは世界は何も変わらない。わかってくれる人はわかるし伝わる人だけに伝わるのでは何も広がりはしない。
 だから「うた」なのだ。拙いけれど思いを「うた」にして、そして同じ思い、考えを持つ仲間たちの「うた」をもっと広く世界に向けて「発信」していく。YouTubeなどのサイトにも積極的にアップさせていく。いまならそれが可能だし有効利用、活用しない手はない。

 幸い自分には多くのプロテストソングをうたうシンガー仲間もいる。彼らとはかって、歌の力で世界を変えていく。

 清志郎はもういない。が、彼の遺した歌は今もなお大きな力を持ち世界を動かしている。ならば彼に倣って「うた」の力を今こそ信じて善良な市民たちの心を動かしていく。非力無才の我が身にどこまでできるかわからない。だが、自分ができるだけのことはやっていく。
 そう、今まさに「泥棒が国際貢献をしたがっている 大義名分を掲げまた二枚舌を使う でも善良な市民は見知らぬ土地で弾にあたって死んじまうだけさ」なのだ。

 諦めては世界は変わらない。自分たちはどんな世界にしたいのか、強く望みJ・レノンのようにイメージしていくことだ。うたの力を信じていこう。
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http://youtu.be/wyFbtwp_ggk