「その日」が来る前に、来るまでに・中2016年11月24日 12時50分04秒

★それは、正しい選択なのか

 よもやの11月の積雪である。明け方は雨が降っていて、いつものように早暁に目覚めてはベッドの中で、読み進めている聖書を開いていた。旧約中の『サムエル記Ⅱ』のダビデ王が主人公の頃である。
 雨の音がしなくなったので、やんだかと思い、犬たちの散歩に行こうと起きだして外を見たら雨はいつしか雪に変わっていた。驚いた。

 予報では、関東も積雪かもと注意報が出ていたが、まだ霜も降りていない11月なのだ。そんなバカなことがあるものかと高を括っていた。
 黒犬が白くなるほど降りしきる雪の中を、犬たちと傘もささずに歩いて、人生とはこうしたものだなあとつくづく思った。何が起こるか先のことは誰もわからない。トランプ大統領誕生のように。
 外に出しっぱなしだった、亡き母が手入れしていた寒さに弱い観葉植物の鉢を大慌てで玄関の中に取り込んだが、雪を被ったが大丈夫か。もうこれでプランターの野菜や地植えのハヤト瓜などは全滅だろうと諦めた。異常気象故の事だと思うが、自然のことなのだ仕方ない。
 雪は今、昼過ぎてもせっせっと降り続いている。都心部より気温の低い多摩地方は、溶けつつも数センチにも積もってきた。

 人は常に様々な選択や判断を迫られる。そしてそれが正しいものか、後にならないとわからない。いや、正しくは、多くのことは後になってもわからない。何故なら人生に起きる出来事はたいていは一度限りだし、間違えたからといって、違う選択、やりなおしが許されることはまずないし、人は死んで人生を〆ない限り、最終的「評価」は出ないからだ。
 ただ、後になれば、トータルに過ぎたことを振り返ってみて、それが正しかったか、結果として誤り、失敗であったかは、またある時点では判明する。
 歴史家というのは実に楽な仕事だとも思える。というのも過去は変えようがないから、個々の事件を点と点を先で結ぶようにして、「今」の視点で俯瞰すれば、そこに確実に因果関係は見いだせるからだ。
 しかし、逆に、未来は同様には予期も予測できない。ある程度、過去の事例、経験や統計から天気図のように、「こうなればこうなる」と予想はつく。しかし、それだって未来は何のデータも示してくれないから、何が起きるか、先にいけばいくほど何もわからない。

 聖書の中では、特に旧約の登場人物こそ、常に神に祈り、戦をすべきか迷った折など神に問いかけては神自身が様々な指示を彼らに与えてくれる。何故ならそれこそが神の御心、考えであり、逆に神を怒らせるような不正をして神の逆鱗にふれれば子々孫々大変な事態に陥る。
 ただ神が直接、その姿を現し、語ることは一度もなく、たいていは、モーセなどの預言者が、神の声を聞くことができ、それを人々にそのまま語るのである。民はそれに従うしかない。
 ここでいう「預言」とは、未来を予測する「予言」とは違う。まさに字のごとく、神の言葉を預かることであって、どうやら古代にはそうした巫女的な人々がどこの国でもいたことがわかる。

 そして王や為政者はそうした預言者から神の方針を聞き、戦争や政治を行っていたし、預言者自身が、神に命じられて民を率いることも多々あったことは旧約に記されている。
 ただそれは、新約の時代となって、ナザレのイエス昇天の後には、もはや預言者は登場しないし、神は、ごく一部の弟子や後の大使徒パウロとなるサウロには現れ語ったと記されているが、もう人には何も語らなくなってしまう。
 今もキリストの教会は教義をめぐって多種多様に世界中に存在しているが、旧約のように、神自身が人に直截語ることも預言者の口を通して何かを示してくれこともなくなってしまった。神の不在とか、神は死んだと言われる所以である。

 ならば人は迷ったとき、道が定かでないとき、いったいどういう判断を下せば良いのだろうか。神には祈る。しかし、神は何も答えてくれないし、この世は次々と神の御心にかなうとは到底思えない最悪な事態が続していく。世界は破滅へと向かっていると考えるのは我だけではないだろう。
 個人も然りだが、国家が選ぶ、その判断、選択は果たして本当に正しいのであろうか。それは取り返しもつかない誤り、失敗かどうかいつかはわかるのだろうか。
 そして往々にして、結果が出たときは既に本当に取り返しがつかない事態になっているのではないか。
 我々は祈っても何も答えを返してくれない神に祈るしかないのか。

 「その日」は必ずやってくる。その日の前に死んだ者は幸運だったと思えるようなことが起きるその日、そのときがきっと来る。