親のこと、自分のこと、取り巻く社会や政治のこと2017年06月18日 22時56分40秒

★どうしようもない自分が・・・

 こうしてブログを書きだしてもう10年になるのではないかと思う。書くのは苦痛ではないし日々の習慣だから毎日この程度のことはいくらでも書き続けことはできる。この世には何か短いものでも書くことに常に苦労する人がいると聞く。無内容でも我はそれが苦労なく出来ることはもしかしたらこれもまた「才能」なのかもしれないが、嬉しくもないし誇る気も何もない。それよりももっと望むのは違う能力である。もっと社会適応力、ヒトから好かれ愛されるまっとうな人格である。

 そうしてあれこれ日々このブログを何につけ政治状況も含め書き続けて来た。が、今の政治について書くと、何故か後々何か気持ちは落ち着かず、このところ書いても満足感、達成感が残らない。理由を思うに、書きたいことはいくらでもあるが、いくら書いてもこの「状況」は、変わらず焼け石に水であるし全て本来バカバカしいくだらないことだという虚しい「前提」がある。
 
 昨今の現政権が関与したとされる疑惑事件、森友学園にしろ加計学園にしろ、安倍友として、総理側の意向や忖度が反映されていることは当然であり、権力者とは国内外どこでも誰でもそうした「身内」に便宜をはかり、そこで懐を肥やすものなのだから、今さら驚きも問題視もしても仕方ない。
 ただ、今回はあまりにも露骨かつ強引なやり方が露呈してしまい、しかもそれをずっと無視し否定しすっとぼけていたからようやく国会内外で皆が怒り騒動となってきただけの話にすぎない。
 それをブログでも怒り、権力の腐敗に憤っても賛同者はいたとしてもそもそも虚しい実りないことのように思える。もちろんそれを見過ごして了として良いという話ではない。怒りは選挙に行きはっきり示さねばならない。そう、自民党に鉄槌を、公明党には仏罰を、である。

 ただ、わかっている人はなにを今さらだと思うだけの話だし、我がブログは警世や社会正義のために書いているのではないのだから、そんな権力や政治の腐敗について書けば書くほど我自らもしだいに虚しくなってくる。
 そう、社会の仕組みについてわかっている人は、バカたちの毎度の謂いや変わらぬ妄動についていちいち取り上げて怒り批判し、糾弾しても何を今さらでしかない。無意味ではないが、そもそも人間とは、権力者とは何千年たとうと何一つ変わりはしない。聖書に出てくる総督ピラトも安倍晋三もその保身と傲慢さと愚かさには何一つ変わりはない。

 今の政治について我個人はこれからも「行動」において動ける時は変わらずできるだけアクションをおこしていくつもりだが、このブログでは書くつど後味が悪くなってくるから、政治関連のことは当分ふれないようにしていくつもりでいようと考えた。

 我自身は若い時からずっと「赤」で、労働学校の浜林先生によって社会の仕組みに目を開かされた者だけれど、だからといって政治活動が一番の関心事や社会変革が人生の目的だとは考えていない。まして、真にプロレタリアート、無産者の政権や体制がやがてはやってくるとは残念だが、考えられないしそんな期待はしない。
 どんな時代になりどんな体制ができようと人間とは常に不完全でエゴと欲望の固まりだから、権力側にいる人間は、彼らの権益を守り保持することだけに頭がいっぱいになり、大衆全体のことは常に二の次になるだろう。
 レーニンの遺言は、あのグルジア人には気をつけろ、だったそうだが、その鉄の男の手に権力が集中したとき労働者憧れの社会主義国家ソ連の理念はどう変質したかは言うまでもない。彼ひとりで殺した人間の総数は、あのヒトラー総統に比べられる程なのだから。

 ならばそうしたいつの時代も「不変かつ普遍」のことについて、その都度怒り憤り、糾弾していたらまさに切りがない。むろん現実的に怒り、その怒りを示し行動していくことは正しいし大事なことだ。が、もう今の我はちょっと疲れた。欲深いバカたちの妄動についていちいち取り上げ怒りを込めて書き、このブログで糾弾していたらキリがないだけでなくただ虚しくなってくる。疲れるばかりだ。

 我にとって今も昔も一番の関心事かつ大事なことは、人間とはどういうもので、どこに向かっていくのかということだけで、生と死、そこに老いと病も加わり、人はどう死んでいくかということだけがいちばん気になる。死ぬとは逆に考えればどうとことん生きるか、死ぬまで生きていくのかということであって、そこに宗教も関係してくる。

 これまでも親のことや我らを取り巻く「社会」についてはずっと書いて来た。そして何より自分のことも。で、当然周りのこととして政治や社会についてあれこれ書いたが。今後はもっと「我が事」だけに特化していきたいしそうなるだろうと予測している。
 常に自己否定と自己嫌悪に苛まれて悶々としているこの男、他の誰よりも劣等の、どうしようもないこの人間が、何故に生まれ生かされ、今もなおまだ生きているのか、その「存在理由」をこれからも自問し考え続けていきたい。

 いろいろあって今はもう本当に自分自ら自分にうんざりしている。何で神こんなイレギュラーな人間を創ったのか。何の意味があるのか。周りの人よりその当人が誰より呆れ果てている。
 もう疲れ果てて人生終わりにしたいと考えるが、こればかりは勝手にそうする権限は与えられていないので、いつかは嫌でもやってくるそのときまで仕方なくとことん生きねばならない。しんどいこっちゃ、だが。
 洪水は我が亡きあとに来たれとは願わない。一日も早く、我がまだ生きているときに、その日が来たることを心から待ち望んでいる。

 もしかしたらまたブログ、間が空くかもしれない。が、我は生きて書ける環境、状態にある限り、書き続けていくので、お暇な方はぜひぜひ今後ともお付き合い頂きたい。まさにご笑覧ください、だ。

コメント

_ サクラブルー ― 2017/06/19 11時16分41秒

増坊さん、こんにちは。むかし柳田國男を読んで、「木綿」という素材がいかに日本人に「自由」をもたらしたかについて書いてあったのを思い出しました。博学な増坊さんならご承知かもしれませんが、柳田は一貫して、政治や社会の出来事より深いところで、日本という国を形成しているものに目を向け、その一方では、たとえば東京をも焼き尽くしたあの戦争に関してほとんど発言らしい発言をしていません。増坊さん同様、彼も「現実」には絶望していたのかもしれません。まあぼくも軽く絶望している口で、もしどこかに「絶望者」が集うクラブやカフェでもあれば、メンバーになるかも。そんな者にとって、救いは歌であり音楽ですね。増坊さんプロデュースのライブに行ってみたいと思いながら、仕事のせいでなかなか実現しません。翁二さんのライブの夜も、もうそろそろ始まるかな、なんてソワソワしてましたよ。

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