まだまだできることとすべきことがあると2019年02月15日 22時03分57秒

★困った、父の体調が悪い

 私事を書く。このところ老父の体調が悪く、どうにも他のことが手につかない。今日は医師の訪問診療を頼み、とりあえず薬出してもらった。微熱が続き、昼夜咳が続いている。簡易検査の結果、幸いインフルエンザの疑いはなくなったようだが。当面は自宅で様子見となろう。

 実際のところ、九十半ばになろうとする人なのだから、いつ死んでもある意味良いのである。ただ、家族として介護する者としては、今ここで急に死なれるとちょっと困る、いや大いに困るというのが本心だ。改めてそう気づく。
 何しろ、来週2/23日には、我が責任負う「共謀」コンサートが、谷保かけこみ亭で控えているわけで、入院にしろ葬式にしろ今ここで父のことで時間奪われるのは想定外というしかない。こんな我でも対社会的責任がある。

 そう、いつ死んでもおかしくない人を抱えて暮らすことは、こういうことなのだと今改めて気づく。思えば、母の時も同じであったが、いざそのとき、コトに直面したときは、まだまだ時間はある、まだできることとすべきことがある、と強く思った。しかし結局為すすべなく、なし崩し的に「現実」に打ち負かされ「敗北」していくことだ。
 そうした思いはおそらく誰もが肉親や愛する人の死のときに感じたことではなかろうか。無力感に苛まれる。

 しかし、それもこれも結局のところ、人の死とは、天命であり、その人の命のリミットだったのではないかと、このところ思えるようになってきた。だが、だからといって、そのとき、死に臨むときこそ、何くそっ!!何としても、と強く思う気持ちこそ一番大事だと思うし、そうして、できることとすべきことの先に、人の死があって然るべきだという考えは揺るがない。でないと後々までずっと悔いが残ろう。
 生者は死者に、いや、死に行く者に何がどれだけ出来たかということだ。誰もが常にそれが問われている。それこそが看取る側、生者の義務なのである。
 そう、それを怠る者は、やがて自らの死のとき、同様にないがしろにされても文句は言えまい。

 いや、何であれ、ときにことにおいては、まだまだできることとすべきことがあるのだ。そのはずなのである。そう思い、あれこれ必死にもがきあがくのが人間であり、人間らしさなのではないだろうか。
 運命や天命は確かにある、しかしそれは諦めや諦観とは絶対に違う。相手任せとは違う。あくまでも駒は、我らの手のうちにあり、その一手の先にそれがあるのだと信じたい。

 ならばこそ、最期の最期まで、絶対に諦めてはならない。坂口安吾が説いたように見苦しくももがき苦しみ生を全うすることだ。そう、何であれ、絶望や諦観はたやすい。大事なことは、最期の最後まで、まだまだできることとすべきことがあると信じてそれを模索していくことではなかろうか。
 敗北はする。しかし、そのことがまた次に活かし続くのだと信じたい。人類の歴史とはそうした「敗北」や挫折の上に、学び得たものではなかろうか。ならば人もまた、であろう。