死者は生者を裁きはしないが。2014年04月06日 11時41分20秒

★死者に対して生者が抱く罪悪感について考えた。   アクセスランキング: 146位

 変な夢を見た。昨晩は、例によって午前2時頃に、しかもうなされて目が覚めた。よく覚えていないが嫌な不安な思いだけが残る悪夢を見ていた。昔付き合いのあった、先年病死した後輩の女性が出てきた。それからしばらく暗澹たる思いで(そう、この「暗澹たる」という言葉は生前のT氏がしばしば電話で口にしていた言葉だった)、その夢の示すことを考えたりしてしばらく起きていた。死者はまだ自分を赦してくれていないと思えた。

 それからまた寝直し、断続的に目覚めてはまた寝ることを繰り返し今朝は日曜ということもあり8時過ぎまで惰眠を貪っていた。
 その明け方頃に見た夢では、何度か訪れたことがある東村山のT氏のアパートに自分は来ていて、並んでいる郵便受け口の名札を見たらまだ彼の名前があった。それは301とか310とかで、なんだ、彼はまだ生きてここにいるではないか、部屋が変わったからハガキが届かなったんだとと安堵し、その部屋をたずねようと考えた。

 夢の中のことだから変なのは当然だが、現実の彼のアパートの部屋は昔ながらの外に鉄製の階段がかかっている二階建ての軽鉄筋の二階角部屋で三階なんかない。が、夢の中では新たに立て替えられたような小綺麗な高層のマンションのような建物で明るいエントランスを入って内部の階段で各室へ上がっていくようだった。で、各部屋のドア横にあるルームナンバーをたどったのだが、まるでガウディの建物のように各室ごと段差が不揃いについていて、らせん状の階段を上がっていくらしいのだが階ごとの差がその建物にはきちんとない。しかもナンバーの順番もランダムすぎてどこに目当てのT氏の部屋があるのかもわからない。
 結局、探したが彼の部屋301だかはみつけられないまま夢から覚めてしまった。しばらくベッドの中でその夢の意味を考えた。そして思った。おそらくそこは今彼がいるところ、天国かどうかはわからないが、死者がとりあえず入る待機する部屋なのではないかと思えた。だから訪ねても会えるわけがなかったのだと悟った。むろん夢の話でしかない。

 よく大災害とか大きな事故、戦争などで多くの人が死ぬと、生き残った者が死んでいった者たちに対して負い目を感じて申し訳のなさ、すまなさで自らを苛むと聞いてはいたが、確かにそうした気持ちは誰でもが持つのだと知った。
 冷静に考えれば不思議な心理だと言うしかない。死とはたいがいが不慮の突発的な出来事であり、殺人事件のような直截的関わりの時以外は人は他者の死に責任は負わないはずだ。人の生き死とは個々の事情でしかなく関わりもまたそれぞれの事情が優先される。ある人生が死によって終わったとしても他者はそこに何の責もおうべきではない。むろん悲しみや驚きは当然あるがそれは付随してのことで生者は死者に煩わされてはならないはずだと考える。そう理屈では割り切れる。

 が、自分の場合、いや、これは自分だけでないと思うが、普段はお気楽にすっかり忘れているのだが、亡くなった人たちは自分をまだ赦していないという思いがずっとしている。むろん、此方に対して何か憎しみや恨みがあるのならおそらく枕元に立ち恨みつらみを述べたり祟ることだってしてくるはずだろう。そうせずに、何一つこちらにその「存在」を示すことがない死者たちは、あっけらかんと現世から去ってしまったとしか思えない。もう何もこの世に思い残すことはないのだと思いたい。

 しかし、人の気持ちとしては、生前の果たせなかった今も悔いている不義理や彼らが死に臨んでいたとき、苦しんでいた最中に、何もできなかった、何一つしてあげられなかったという苦い思いが古いワインの澱のように心の底のほうに溜まるばかりだ。そして彼らは死に、この世にはもういないのに、彼らより無価値な自分が臆面なく未だ生きながらえているという申し訳なさが膨らむばかりでどうにもやりきれない。ほんとうに申し訳ない。

 死とは常に他人の問題であり、当事者にはなれないとよく言われる。「当人」になったときはもう死んでいるのでこの世にはないのでもはや関係ない。その意味で人は生きている限り死なないし、死とは常にヒトゴトでしかないわけだが、だからこそこうした死者に対して「後ろめたさ」と申し訳なさ、遺された者の「罪悪感」を感じるのであろうか。
 いや、やはりもっと精一杯、真剣に彼らと関わるべきであったのだと思わざる得ないし、そうしなかったからこそ遺された者たちは常に、もっとあれこれしてあげれば良かった、何かもっとできたことがあったのではないかと悔い思い悩むのではないか。理屈では割り切れても気持ちはなかなか収まらない。それは時だけが癒すことができる。

 過去は戻せないし死者たちも戻らない。ならばこそこの苦い思いを抱えて教訓としてこれからの死者に臨むしかない。やがては誰もが死に、地上は誰も知らない誰とも関係のない人たちだけとなる。そのうえで今はささやかな関わりが持てた人たちと丁寧に、関わりを大事に大切にして余生を生きていきたいと願う。

 誰もが老いた今、これからも永遠の別れと葬式が続く。いつかまた皆であの世で出会い再会を喜ぶ時もあると信ずるが、まずはこの現世での出来事と関わりを大事にしてあの世へとつなげていきたい。
 誰に対しても思いを残すことのないように、自分自身もまたせいいっぱいじんせいを生きていこう。それしか道はない。そしてこんな我をも憐み心配してくれる人たちがいる。実に有難いことだ。
 生者にも死者にも幸多かれ。魂の平穏を。

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