怒りと憎しみの連鎖が止まらない世界2015年02月05日 13時12分03秒

★国家や民族、宗教の違いではなく人間と地球とで考えるとき      
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 外は冷たい雪交じりの雨が降り続いている。家の中もものすごく冷え込んでいる。
 立春を過ぎ、もうあと少しで冬は去り、本格的春は来るはずだが、世界は憎しみの連鎖が広がり止まることを知らず冷えきっている。いや、その先に爆発さえ起きそうな不安を抱えている。

 世界各国のどの政府でも、その長は自国民の安全と国益を守ると、イスラム国のテロには断固屈しないと熱く語っている。それは正しい。まったく正しい。同感である。

 が、どの国家もそれぞれが国益を守ることに固執してしまえば、必ず多国間においては、軋轢が生まれよう。国際社会とは様々な国家で成り立っている。自国民の安全と国益がその国家においては真っ先に優先されるのは当然でも、各国それぞれが国民はともかく、特に自国の利益だけに囚われ最優先するのならばそこにまた紛争は起きる。必ず利害はぶつかる。争いは途絶えることはない。

 むろん人命は重く尊い。しかしそれは自国民のみならず他国人も同様であろうしましてイスラム国の「住民」でさえ同様ではないのか。
 彼らは極悪非道なテロ組織だと断じてもかまわないし、自分もそう思う。しかし、その地に空爆を加え、あるいは地上部隊を派遣し壊滅させるとしても誰がテロリストであり、誰がその支配地域に住む、彼らに抑圧された一般住民なのか区別などできないであろう。

 報復を誓いテロリスト集団だから彼らを全員抹殺してしまえと言うのはあまりに乱暴な非人間的な論理ではないか。狂信的無法者であろうとも法的に裁くのが国際社会の論理であり人間的行為だと信ずる。
 無法には無法で対応していたらば争いは永久に終わらない。憎しみの連鎖で紛争は止まらず地球そのものが疲弊していく。

 どの国家であろうと為政者は国内的には自国民の安全と国益を守る義務がある。しかしそれは国家という単位で考えるからであり、その枠を取っ払い、各地域に住む 人間と、地球 という規模で考えれば人命の大切さはもちろんのこと「国益」などに囚われなくて住むのでないか。

 むろんそんなことはオーエンやJ・レノン的夢想者の謂いだともわかっている。しかし空想だとしても、21世紀に生きる我々は、この地球を次の世紀と世代へと繋ぐためにも、そろそろ国家とか民族とかの枠組みから離れて、真のグローバル化を考えるべきだと自分は思う。

 そこにある、確かなことは、人や生きもののすべての「命」と「地球環境」だけなのである。

 世界の富の大半を所有するほんの1パーセントの人たちはもうとっくに国家なんて概念は持っていない。彼らは行きたいときに地球上どこへでも行き、住みたい土地に住んでいる。それは金ゆえの「自由」だと我々は考えてしまうが、貧困層、弱者こそその土地に縛られ民族や宗教にがんじがらめにされ、自由も含めあらゆるものを収奪され続けていく。抑圧された貧困層、弱者たちこそが、自らの国家や民族に固執してしまうのである。外国人排斥のヘイトスピーチに共感する人たちの多くが世界各国同様に経済的弱者であるように。

 国家間は国益を巡って対立し続けるのではなく、やがては地球連邦という巨大国家の一州として存在すれば良いのではないか。そうなれば国益や人種、宗教をめぐって対立や紛争などありえない。
 そのとき、我々は日本人である前に、地球人して地球という国家に生きているのだから。そのうえで、治安や秩序を乱す狂信者たちやテロリストには地球政府が正しく法の裁きを加えれば良い。

 昨日そんな夢をみた、とピート・シーガーも歌っていたはずだ。