今はただ「うた」のことだけを2015年02月15日 21時16分12秒

★今年はまず自らの「うた」を中心に据えて             アクセスランキング: 170位

 つくづくうたうこと、「うた」の行為は難しい。奥が深いことだとこのところ痛感している。

 先にちょこっと拙ブログで書いた、某誌からの原稿依頼の件は先日入稿終えられた。とにもかくにもほっとしている。発売日など詳細が出たらお知らせするつもりでいるが、いろいろご心配おかけしました。

 それは、我マスダがしてきた音楽との関わりについて書いてくれとのことで、いわばマイ・バックページという体裁をとった。
 紙幅の関係もあり思うぞんぶん書けなかったこともあるが、おかげでそれからもずっとうたと音楽について考え続けている。今まではその場しのぎで対応して深く考えることもなかったが、今回原稿に向き合って初めて体系的に自分のやってきたことを振り返り今後についても見えてきた。実に有難いことだと思える。こうした依頼も含め神の計らいであろう。

 うたがうまくなる、つまり失敗せずにうまく歌えるようになるには場数を踏むしかない。必死にまず練習してライブに臨むしかない。
 敬愛する中川五郎氏やシバさんからその「秘訣」も訊いた。曰く、百回一人で家で練習するより外で人前で(それは客の数は関係なく)、一回でもうたったほうが力がつく、と。その通りだとじっさい思う。

 先だってかけこみ亭でも一曲だけ唄わせてもらって、人前でうたうと「うた」が自分の中にも戻ってくる、入ってくるかんじがした。これが一人で家で演っているとその「返し」がない。だからライブの一回は家での百回に勝るというのは真実だと実感した。

 しかし、そうして機会あるごとに外でうたったとしてもうたは深く難しいものだからちっとも思い通りにいかないしうまくもならない。納得も満足もできず本当に難しいものだと痛感している。うたは深い。そして技術以前にその唄い手の存在じたいさらけ出しこんな人間ですよ、と示すことに他ならない。

 長くこうした音楽に向き合い、様々なライブを観続けてきて、今はもう一曲聴いただけでその歌い手の内面、音楽性だけでなく人間性すらもはっきりつかめるようになった。
 巧い下手は問題ではなく、うたとやっている音楽に対する向き合い方、考え方が生のライブではすぐに出てしまう。それは隠しようも取り繕ろうこともできやしない。CDとかの形にすればいくらでもイコライザー的に調整も変更も後できく。が、生でのライブとなるとそこにその人自身がすくっと立ち品評会に出される果物のように全角度からくまなく吟味される。
 むろん世の中には何もわからない人も多々いるからその評価は多種多様であろう。しかし、わかる人にはわかるし伝わる人にはすぐに伝わり良くない偽りのものはすぐにバレてしまう。ひとそれぞれとかいう以前に相対的でない絶対的のものは確かに存在している。

 辛いのは、そうした視点で自らのうたや音楽を捉えてしまうことだ。何がいけないのか、その存在の甘さも含めての自己評定は真に辛い。いや、客観的に、冷静に自分のうたや音楽を聴くことすらまだできやしない。

 ただこれだけは思う。誰にせよ、うたううたがあり、それは唄いたいうたと同義として、そして唄う場があって、さらにはそれを聴いてくれる観客が一人でもいたとするならば、それは良い、素晴らしいことだろう。
 現実のはなし、ビィクトル・ハラの名を挙げるまでもなく、この世界にはうたうことを禁じられ、歌う場を奪われた歌い手はたくさんいたし、彼のようにうたのために殺された人だっている。そしておそらく今の紛争地や「イスラム国」支配地域では、うたや音楽すらも享楽的と禁じられているはずだ。

 そう思うとき、誰であろうとどこであろうとうたとうたう場があることはとても良いことなのだ。そしてならばこそ機会あらば唄い続けなくてはならない。

 私ごとだが、本日、国立の一橋大学正門前で、午後2時から敬愛する館野公一さんたちの月一活動に参加させてもらい、ちょこっとだけ唄わせて頂いた。昔も外で唄った記憶はなくもないが、それは高校生の頃のことで、実質路上ライブデビューであった。
 
 次回は3月15日。もし、お時間ありましたら通りすがりに覗いてみてください。ご参加ください。