僕は文章が書けない ― 2015年02月06日 23時18分17秒
★ブログと「売文」はまったく違うのであった。 アクセスランキング: 160位
このところ、とある雑誌に載せる原稿を書いている。が、思うように、満足いくように書けず頭が痛い。締切は過ぎ、どうしたら良いものか。
当ブログも読んで頂いている恩ある方から声がかかった。彼が主宰する雑誌に、フォークや音楽について、マス坊の思うところ、やってきたことなどについて原稿書けとの依頼である。お前なら書けるはずだと期待された。原稿料も出る。有難く思う。そのご期待に応えねばと奮起した。
で、先月はいろいろライブで忙しかったので、腹案を練って今月に入ってからやっと書き出した。八千字程度の原稿である。書き出せば一晩で一気に書ける。つい分量もオーバーするほど書けた。だが、読み返すとどうにも自分でも気に食わない。
ライターの女友達に読んでもらったら、「もう一度よく読み直して書き直せ」と即NGが出た。自分でも満足してなかったから当然である。
さっそくまた一晩かけて新たに書き直した。前回よりは満足いく出来となった気がした。それを遊びに来てくれた評論家の友人に頼んで読んでもらった。
忌憚のないご意見を、とこちらから願う前に、彼はざっと読んですぐNGを出してくれた。冗長すぎる、キレが悪く、言いたいことが全然伝わらないとのことである。言われるとその通りでまったく返す言葉もない。
遅くとも今週中には原稿入れると約束してしまった。さてどうしたものか。このまま相手方に送っても間違いなくボツになる「自信」はある。
ブログならいくらでも書けるしそれなりに書き手として自信もあるし何一つ迷いはない。そんな人間がどうして雑誌の文字原稿となると書けないかというと、要するに分量と媒体、そしてスタンスの違いとしか言いようがない。
読み手の方には申し訳ないが、ブログなんて落書き帳なのである。推敲も見直しもろくにしないし、毎回この程度の分量なら30分ほどで書き上げられる。あくまでも思いつきと勢いで一気に書ける。
そして自分でもまず読み返さないし、おそらく読み手の方も一回限りで読み捨ててしまうはずだ。つまり書いた記事はサイトには残ってはいるがきわめて賞味期限の短い雑文なのである。だから気楽に、テキトーにも書ける。読み手もまた同様のスタンスであろう。
それでは書く側として無責任だとお怒りの方もあるかもしれない。でもブログとはそうしたもので良いのではないか。
しかし商業原稿となるとそうはいかない。まず長さが違う。コラム程度の長さではないし、決めたテーマにそって論旨に沿ってはじめから終わりまで一つの筋がなくてはならない。
そしてそこに、原稿料に見合うだけの価値、内容もなくてはならない。中身もなく、つまらない原稿ならばその雑誌は載せるのを控える権限がある。金出して読まれる価値があるかどうかが問われる。金が動くゆえ真剣な関係が求められる。
ブログは、タダだから、そして誰が読もうと、あるいは誰にも読まれなくたって書き手も含めて誰もちっとも困らない。だから支離滅裂で良いとは思わないし、そんなつもりで書きはしないが、あえて告白すれば、しょせんは気楽なものなのである。
しかし、文を書いてそれで金を頂くという世界は、そんな甘さは許されない。金額の多寡ではなく、文を売って金を頂くからには、常にそこに相応の価値と責任が求められる。
今そのことを痛感している。つまるところ常にまったくのタダという世界は貧乏人にとっては有難く思えるが、実はモノゴトのあり方としてはちっとも良いことではなかったのだ。
1円であろうとも金が動くことにより「価値」が問われ検証され批判もされる。いや、批判も反論もできるのである。
金が動かない、金を媒介した「関係」がないところには良くも悪くも批評すら成り立たない。つまり金を払ったからこそ文句も言え、その相手と関われるが、タダという関係においては文句のつけようすらない。いや、文句は言えたとしても効力がない。
昔は売文業もやった経験もあるが、このところはずっと当ブログをはじめ原稿はタダで書き、タダで読んでもらっていた。それは良いことだとも思っていた。タダだからこそ多くの人に読んでもらえると信じてもいた。
だが、それは間違っていた。そうしたユルイ世界に浸かり切っているとひたすら冗長に長くなってしまい規定の分量に収まらないだけでなく、文の切れ味が鈍くなってちっとも読み手に伝わらないのである。
拝金主義や商業主義を否定し、お金などどんな関係にも介在させないほうが良いことだとずっと考えていた。が、今その間違いに気づいた。タダという関係は結果としてちっとも良くないのである。
フリーコンサートや投げ銭という形式のライブもこのところ多い。しかし、それが本当にタダで成り立つものならばともかく、そうでないのならたとえ10円、100円でもお金を介在させるべきだと思う。まあ、そもすると主催側自らがこれは100円の価値と蔑むことにもなるのでそうしたものの値段は難しいが。
いずれにせよ、金が動き、分量もきちんと決まっていることはとても良いことなのだ。そうした既定の枠があってこそ真の批評や批判応酬の関係も成り立つ。タダだと文句のつけようすらない。結果、関係があいまいになり深まらない。こちらもだらだら書いて冗長かつ切れが甘くなる。読み手も真剣に読まないし感想を返さない。
まあ、ブログなんてそうした関係のものなのでもあろう。書き手も読み手もそれが嫌ならその先のありかたを模索すべきであった。
人は旅に出ないと世界というものを真に味わえない。世界の姿がわからない。「売文」の世界と関わって今痛感している。まさに井の中の蛙であった。ぬるま湯につかり過ぎた。
このところ、とある雑誌に載せる原稿を書いている。が、思うように、満足いくように書けず頭が痛い。締切は過ぎ、どうしたら良いものか。
当ブログも読んで頂いている恩ある方から声がかかった。彼が主宰する雑誌に、フォークや音楽について、マス坊の思うところ、やってきたことなどについて原稿書けとの依頼である。お前なら書けるはずだと期待された。原稿料も出る。有難く思う。そのご期待に応えねばと奮起した。
で、先月はいろいろライブで忙しかったので、腹案を練って今月に入ってからやっと書き出した。八千字程度の原稿である。書き出せば一晩で一気に書ける。つい分量もオーバーするほど書けた。だが、読み返すとどうにも自分でも気に食わない。
ライターの女友達に読んでもらったら、「もう一度よく読み直して書き直せ」と即NGが出た。自分でも満足してなかったから当然である。
さっそくまた一晩かけて新たに書き直した。前回よりは満足いく出来となった気がした。それを遊びに来てくれた評論家の友人に頼んで読んでもらった。
忌憚のないご意見を、とこちらから願う前に、彼はざっと読んですぐNGを出してくれた。冗長すぎる、キレが悪く、言いたいことが全然伝わらないとのことである。言われるとその通りでまったく返す言葉もない。
遅くとも今週中には原稿入れると約束してしまった。さてどうしたものか。このまま相手方に送っても間違いなくボツになる「自信」はある。
ブログならいくらでも書けるしそれなりに書き手として自信もあるし何一つ迷いはない。そんな人間がどうして雑誌の文字原稿となると書けないかというと、要するに分量と媒体、そしてスタンスの違いとしか言いようがない。
読み手の方には申し訳ないが、ブログなんて落書き帳なのである。推敲も見直しもろくにしないし、毎回この程度の分量なら30分ほどで書き上げられる。あくまでも思いつきと勢いで一気に書ける。
そして自分でもまず読み返さないし、おそらく読み手の方も一回限りで読み捨ててしまうはずだ。つまり書いた記事はサイトには残ってはいるがきわめて賞味期限の短い雑文なのである。だから気楽に、テキトーにも書ける。読み手もまた同様のスタンスであろう。
それでは書く側として無責任だとお怒りの方もあるかもしれない。でもブログとはそうしたもので良いのではないか。
しかし商業原稿となるとそうはいかない。まず長さが違う。コラム程度の長さではないし、決めたテーマにそって論旨に沿ってはじめから終わりまで一つの筋がなくてはならない。
そしてそこに、原稿料に見合うだけの価値、内容もなくてはならない。中身もなく、つまらない原稿ならばその雑誌は載せるのを控える権限がある。金出して読まれる価値があるかどうかが問われる。金が動くゆえ真剣な関係が求められる。
ブログは、タダだから、そして誰が読もうと、あるいは誰にも読まれなくたって書き手も含めて誰もちっとも困らない。だから支離滅裂で良いとは思わないし、そんなつもりで書きはしないが、あえて告白すれば、しょせんは気楽なものなのである。
しかし、文を書いてそれで金を頂くという世界は、そんな甘さは許されない。金額の多寡ではなく、文を売って金を頂くからには、常にそこに相応の価値と責任が求められる。
今そのことを痛感している。つまるところ常にまったくのタダという世界は貧乏人にとっては有難く思えるが、実はモノゴトのあり方としてはちっとも良いことではなかったのだ。
1円であろうとも金が動くことにより「価値」が問われ検証され批判もされる。いや、批判も反論もできるのである。
金が動かない、金を媒介した「関係」がないところには良くも悪くも批評すら成り立たない。つまり金を払ったからこそ文句も言え、その相手と関われるが、タダという関係においては文句のつけようすらない。いや、文句は言えたとしても効力がない。
昔は売文業もやった経験もあるが、このところはずっと当ブログをはじめ原稿はタダで書き、タダで読んでもらっていた。それは良いことだとも思っていた。タダだからこそ多くの人に読んでもらえると信じてもいた。
だが、それは間違っていた。そうしたユルイ世界に浸かり切っているとひたすら冗長に長くなってしまい規定の分量に収まらないだけでなく、文の切れ味が鈍くなってちっとも読み手に伝わらないのである。
拝金主義や商業主義を否定し、お金などどんな関係にも介在させないほうが良いことだとずっと考えていた。が、今その間違いに気づいた。タダという関係は結果としてちっとも良くないのである。
フリーコンサートや投げ銭という形式のライブもこのところ多い。しかし、それが本当にタダで成り立つものならばともかく、そうでないのならたとえ10円、100円でもお金を介在させるべきだと思う。まあ、そもすると主催側自らがこれは100円の価値と蔑むことにもなるのでそうしたものの値段は難しいが。
いずれにせよ、金が動き、分量もきちんと決まっていることはとても良いことなのだ。そうした既定の枠があってこそ真の批評や批判応酬の関係も成り立つ。タダだと文句のつけようすらない。結果、関係があいまいになり深まらない。こちらもだらだら書いて冗長かつ切れが甘くなる。読み手も真剣に読まないし感想を返さない。
まあ、ブログなんてそうした関係のものなのでもあろう。書き手も読み手もそれが嫌ならその先のありかたを模索すべきであった。
人は旅に出ないと世界というものを真に味わえない。世界の姿がわからない。「売文」の世界と関わって今痛感している。まさに井の中の蛙であった。ぬるま湯につかり過ぎた。
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