人は知っていることを語り書き記さねばならない。 ― 2015年02月24日 23時19分53秒
★体験した「時代」を記録していく アクセスランキング: 101位
いろいろあってあたふたごたごたしていた。正直なところいつまでこんなブログが書き続けられるかわからない。※ワケあって昨日は書きたくてもアクセスできず書けなかった。
山梨から帰ってきた。昨日の暖かさのせいもあって、現地はもう雪はほとんど消えていた。たぶん今年の冬はもうこれで終わり、積もるような大雪はないと思えた。春はすぐそこまでだ。幸いである。
先日、かなり年下の女性の話をライブで聴くことがあり、その世代の人、つまり今の若い人たちにはかつての横溝正史一連の角川が仕掛けた一大ブームのことも、中でも「八つ墓村」のことなど何も知らないのだと驚きと共に思い至った。
まっ、ある意味、それは当然であろう。自分が今の若い人たちの話題作や人気音楽、巷のブームになっていること、アナ雪や妖怪何たら等何一つ知らないのと同様に、過去のある時代、それも歴史の教科書にも載らないサブカル的な事態についてはそれを体験していない世代はまず知るはずもない。
今これを書き、たぶんこれを読んで頂いている世代の人たちなら当たり前に知っていて、原体験に思っていることでも、今の人、それも30代ぐらいから前の人、1970年代生まれには周知の事実、常識や教養ではないのである。
我々が一般常識として知っていると思い、それ前提に書いたとしても、それは果たして彼ら今の人たちに了解され伝わっているのかよく検討すべきだと改めて気づかされた。
つまり今50代半ばの我が書くことは、50代、つまり1960年代以前の人たちには理解されたとしてもそれ以降の世代には、基本的によほど説明しない限り内容(意味や趣旨)以前に、何についてのことだかがそもそも理解されない、わからないのではと思えてきた。
知っていることを書き記さないとと思ったが、その「知っていること」とは所謂歴史的常識ではない。つまり、過去のことでも我ならば日本が1945年に米英連合国との戦争に敗けたとかの等実体験のない常識的歴史の知識ではない。あくまでも個人的な体験からの知識、過去の時点で自分が知り、実体験した事実のこと、そうした自己経験の「歴史」である。
かつて、その一世を風靡した角川書店=角川春樹が仕掛け自社映画とタイアップしての横溝正史復権の大ブームは、まさにその時代を体験した者でないとピンとこないであろう。昭和52年、『犬神家の一族』から始まった。
出来や内容はともかくもあのおどろおどろしい世界に、当時の若者は魅せられ映画は大ヒットし、テレビのシリーズも続き、文庫はベストセラーとなった。それは今のAKBの比ではない。老人や子どもはどうか知らないが、社会現象ともなった。
ただそんなことは学校で学ぶ歴史の教科書には取り上げられない。そんな映画がヒットしようと角川の文庫本がどれほど売れようと、じっさいの政治社会、実生活とは関係のないことだから。ただ、「世相」としてはそうしたブームに沸いた時代がしばらく続いたということだ。そうした時代があったと。
そのときを生きていた我々はそのことを常識として、当たり前だとして認識している。しかし、そう思って「常識」だと安心していると、その後の世代、つまりそのブームに遅れてきて体験していない世代にはその「常識」は全く通じない。なぜなら教科書で教えない歴史は体験しない限り、基本的に未知のことでしかないからだ。
その溝、狭間を埋めたり繋ぐことは、一つは知らない者=後からの人が好奇心と向上心で、過去を追い求め新たに学ぶ努力をするかであり、もう一つは、その体験者が後からの彼らに、こうした時代があって、こうこうであったと語り伝えるかどうかだ。
むろん我々が後からの若い人たちに語ったとしてもそれが伝わるか、彼らが訊く耳を持ってくれるかはまた別の話。しかし、まずは誰でも知っているはずという「常識」にあぐらかくのではなく、、逆に、知らないであろうという前提のもとに、ある体験した「時代」を、どんなことでも語り、あるいは書き記すことこそが真に大事なのではないか。
つまるところ、今この関連で書くべきでないのかもしれないが、安倍政権のもと、再び戦争が始まるような世相が、改憲や憲法解釈変更も含めて、堂々とそれが当然の如く大手をふってまかり通る時代にしたのは、戦争を体験した世代がきちんと後の世代に、戦争を知らない彼らに、しっかりと語り書き記していかなかったからではないのか。
戦争反対、反戦平和第一が当たり前、それが誰にでも通じる一般「常識」だと勝手にも思い込んで戦争が、なぜいけないのか、その体験した辛さ、苦しさ、悪害をきちんと後の人たちに語り書き伝えなかったからこんな時勢になったのだとあえて言いたい。
ならばこそ、自分が知っていることが、皆の「常識」とか「当たり前」などと思うことなく、何事も後の人たちにとっては知らない未知のことだとの認識のもとに、彼らに語り、書き記していくべきだと断ずる。
もし、許されるならばこの自分、マス坊が実体験として知っていることを、今考えたことを加味して後世へ、後から来た若い人たちに語り、書き残すので知って頂きたい。そこにイデオロギーは込めない。考現学的にあくまでもただ、そんな時代があったのだと記録として。
過去を知ることは実は未来を知ることである。そして過去を知らない者、過去に目をつむる者は未来に対しても盲目となろう。
お付き合いください。ねがわくば。そんな時代があったのだと。
いろいろあってあたふたごたごたしていた。正直なところいつまでこんなブログが書き続けられるかわからない。※ワケあって昨日は書きたくてもアクセスできず書けなかった。
山梨から帰ってきた。昨日の暖かさのせいもあって、現地はもう雪はほとんど消えていた。たぶん今年の冬はもうこれで終わり、積もるような大雪はないと思えた。春はすぐそこまでだ。幸いである。
先日、かなり年下の女性の話をライブで聴くことがあり、その世代の人、つまり今の若い人たちにはかつての横溝正史一連の角川が仕掛けた一大ブームのことも、中でも「八つ墓村」のことなど何も知らないのだと驚きと共に思い至った。
まっ、ある意味、それは当然であろう。自分が今の若い人たちの話題作や人気音楽、巷のブームになっていること、アナ雪や妖怪何たら等何一つ知らないのと同様に、過去のある時代、それも歴史の教科書にも載らないサブカル的な事態についてはそれを体験していない世代はまず知るはずもない。
今これを書き、たぶんこれを読んで頂いている世代の人たちなら当たり前に知っていて、原体験に思っていることでも、今の人、それも30代ぐらいから前の人、1970年代生まれには周知の事実、常識や教養ではないのである。
我々が一般常識として知っていると思い、それ前提に書いたとしても、それは果たして彼ら今の人たちに了解され伝わっているのかよく検討すべきだと改めて気づかされた。
つまり今50代半ばの我が書くことは、50代、つまり1960年代以前の人たちには理解されたとしてもそれ以降の世代には、基本的によほど説明しない限り内容(意味や趣旨)以前に、何についてのことだかがそもそも理解されない、わからないのではと思えてきた。
知っていることを書き記さないとと思ったが、その「知っていること」とは所謂歴史的常識ではない。つまり、過去のことでも我ならば日本が1945年に米英連合国との戦争に敗けたとかの等実体験のない常識的歴史の知識ではない。あくまでも個人的な体験からの知識、過去の時点で自分が知り、実体験した事実のこと、そうした自己経験の「歴史」である。
かつて、その一世を風靡した角川書店=角川春樹が仕掛け自社映画とタイアップしての横溝正史復権の大ブームは、まさにその時代を体験した者でないとピンとこないであろう。昭和52年、『犬神家の一族』から始まった。
出来や内容はともかくもあのおどろおどろしい世界に、当時の若者は魅せられ映画は大ヒットし、テレビのシリーズも続き、文庫はベストセラーとなった。それは今のAKBの比ではない。老人や子どもはどうか知らないが、社会現象ともなった。
ただそんなことは学校で学ぶ歴史の教科書には取り上げられない。そんな映画がヒットしようと角川の文庫本がどれほど売れようと、じっさいの政治社会、実生活とは関係のないことだから。ただ、「世相」としてはそうしたブームに沸いた時代がしばらく続いたということだ。そうした時代があったと。
そのときを生きていた我々はそのことを常識として、当たり前だとして認識している。しかし、そう思って「常識」だと安心していると、その後の世代、つまりそのブームに遅れてきて体験していない世代にはその「常識」は全く通じない。なぜなら教科書で教えない歴史は体験しない限り、基本的に未知のことでしかないからだ。
その溝、狭間を埋めたり繋ぐことは、一つは知らない者=後からの人が好奇心と向上心で、過去を追い求め新たに学ぶ努力をするかであり、もう一つは、その体験者が後からの彼らに、こうした時代があって、こうこうであったと語り伝えるかどうかだ。
むろん我々が後からの若い人たちに語ったとしてもそれが伝わるか、彼らが訊く耳を持ってくれるかはまた別の話。しかし、まずは誰でも知っているはずという「常識」にあぐらかくのではなく、、逆に、知らないであろうという前提のもとに、ある体験した「時代」を、どんなことでも語り、あるいは書き記すことこそが真に大事なのではないか。
つまるところ、今この関連で書くべきでないのかもしれないが、安倍政権のもと、再び戦争が始まるような世相が、改憲や憲法解釈変更も含めて、堂々とそれが当然の如く大手をふってまかり通る時代にしたのは、戦争を体験した世代がきちんと後の世代に、戦争を知らない彼らに、しっかりと語り書き記していかなかったからではないのか。
戦争反対、反戦平和第一が当たり前、それが誰にでも通じる一般「常識」だと勝手にも思い込んで戦争が、なぜいけないのか、その体験した辛さ、苦しさ、悪害をきちんと後の人たちに語り書き伝えなかったからこんな時勢になったのだとあえて言いたい。
ならばこそ、自分が知っていることが、皆の「常識」とか「当たり前」などと思うことなく、何事も後の人たちにとっては知らない未知のことだとの認識のもとに、彼らに語り、書き記していくべきだと断ずる。
もし、許されるならばこの自分、マス坊が実体験として知っていることを、今考えたことを加味して後世へ、後から来た若い人たちに語り、書き残すので知って頂きたい。そこにイデオロギーは込めない。考現学的にあくまでもただ、そんな時代があったのだと記録として。
過去を知ることは実は未来を知ることである。そして過去を知らない者、過去に目をつむる者は未来に対しても盲目となろう。
お付き合いください。ねがわくば。そんな時代があったのだと。
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