老いのカタチは人それぞれ、死への途も千差万別2015年05月23日 20時33分10秒

★長生きの家系ではあるけれど                アクセスランキング: 239位

 ※はじめに、明日は、八王子の浅川河川敷広場でのフリーライブに出向く予定。詳細は先に問うブログで告知掲載してある。
 クルマで昼頃でて現地には午後一で着く予定。同行希望の方は、明日午前までお早目に連絡ください。

 と、どうでもいいことを書こうと思う。このところ考えていることだ。
 ウチの老犬、それは先だって死んだバドの甥っ子、ブラ彦なのだが、今16歳だか17歳で、変わらず元気でいるのだけれど、このところ朝晩夜泣きがひどくなって困惑している。
 明け方まだうす暗いうちからワンワン吠え出し、それが散歩に行くまで、ときに行った後も続く。こちらはおちおち寝ていられないし、それは夕方早くも同様で、近所の手前や世間体もあり、仕方なく何度も散歩に行っている。

 いろんな犬を多々飼ってきて、思うのは皆それぞれ老いて死に方は違うということだ。
 晩年は病院通いがひっきりなしという犬もいたかと思えば、先のバドのように頑健で、老衰的にじょじょに弱ってきて最後は犬としてはギネス的長寿を全うした犬もいた。
 老いて目も白内障で見えなくなっても呆けたりした犬はこれまでいなかったと思うのだけれど、ブラ彦はどうやらボケ始めたようで、先日は家に上げてたら、目を離したら勝手に外に出てそのままいつもの散歩コースを一人で彷徨い始めてしまい追いかけてみつけ慌てて「確保」した。
 今までは勝手に一人でいなくなることなどなかったのだから、これはもう犬の徘徊である。たぶん一人では戻ってこれないだろうし、運悪ければ車にはねられる。うっかり目が離せない。
 たぶん、今夏は乗り切ると信ずるが、この冬は越えてもその先は難しいのではないか。

 ウチは人も犬も猫も長寿家系で、おそらく他の一般的家庭よりは皆長生きだと思うが、長生きすれば良いことばかりでは全然なく、その分の老いのツケのような気苦労が増してくる。
 先の老犬の場合は、晩年何年間は介護に追われて、歩けなくなった20キロ近くもあった大型犬を抱えて朝晩の散歩はほんと大変であった。こちらまで何度腰痛、ギックリ腰に見舞われたことか。
 それでも死ぬ直前まで反応はあり、呼びかければ尻尾ふったりと20年近くも飼い主と共に犬の人生をまっとうできたからもう何も思うところはない。ところが彼より若いブラ彦が早くもボケ始めてきてしまったのだ。うーむである。

 ウチは今老親のうち親父の世話で日々大騒動となっている。ハズカシイ話、毎日朝から晩まで我が家は大騒ぎだ。
 父はまだ徘徊や大小便をまき散らしたり24時間常に目が離せない状況ではないから楽だが、ともかく記憶が続かず、すぐ怒ったり機嫌悪いばかりか奇矯な行動を次々しでかすのでこちらもまたついキレまくりとなってしまう。これでは母の癌がストレスでさらに肥大していく。まあ、それでも世の90歳と比べればさすがに元大日本帝国一等兵であるからか頑健にできているのだと感心もする。大正生まれはそもそも体の出来が今の人とは違うのであろう。
 今心配するのは、介護認定の度がこのままだとさらに上がることだ。

 我が亡き母方の祖母は日本の公害闘争の原点・谷中村の出て、百歳近くまで生きたが、死ぬ直前まで頭はしっかりして「こんなに大変なご時世に、呆ける人の気がしれない」とこぼしていた。
 当人は、わりと早くから足が悪くなり自らでは歩くこともできない状態であったが、テレビは日々欠かさず観て、社会情勢は詳しく死ぬまでオツムははっきりしていたと思う。我の語彙や格言などはその祖母に学んだことが多い。

 早くあっという間に死ぬ人もあり、老いてボケていく人もあり、歳のわりに若く見える人、ものすごく老けて見える人もあり、老いてもちっとも惚けない人もいて、老いと死もまさに人それぞれだと考えさせられる。

 今、自らその老いのとば口に立ち、たぶんあと10年ぐらいすると次々周囲でも死屍累々の状況が待つと確信しているが、人はどのように老い死んでいくのかある意味自分も含めて興味深い。

 生まれたとき、幼児の頃は、自ら子育ての経験がないからかもしれないが、犬も猫も人もさほど個々の差はないように思える。むろん徐々に個体差や個々の性質ははっきりしてきて個性が目立つ。
 しかし、それぞれの老後と死に行く道筋を思うとまさに千差万別、一人として同じカタチはない。それはつまるところ生きてきた道、過ごしてきた歳月、そのしてきた人生経験の違いや差がそのまま個々の晩年に現れるのだと思える。
 環境ということもある。その人の人生処方、モットー、生き方も大きく関係しているはずだ。ある程度、生活にゆとりや余裕もあり、満足も納得もいく人生であれば、逆に呆けるのも死ぬのも早いのではないか。
 呆けるのは気の緩みだとは言ってはならない。が、その人の責任とは別に、ボケを誘発するような状況、安逸な環境もあるような気がしている。
 しかし、それは個々の当人、そして周囲の人の責任ではない。誰かに責は負わせられない。ただ様々な個人個人の人生があり、その全てのカタチが異なることは素晴らしいことなのである。
 時にボケることすらも良いことだってあろう。いちばん良い死に方は、少しづつ呆けて何も次第にわからなくウレシイも哀しいも何も思わなくなって、周囲に支え見守ってくれる人たちもいて、最後はいつしか眠るように老衰として天寿を終えられれば幸運かつ幸せであろうか。

 現実は、最後の最後まであれこれ思い煩い不安を抱え思いを多々残して病の痛みに苦しみながら無念の死を迎える人が多いかもしれない。自分こそそうした死が待ち構えていると覚悟もしている。

 しかしみんな違ってみんな良いのだから、どう生きようと同じく、人はどう死のうとまた良いのだ、それも個性であり自由なのだと思いたい。