すべてはごく単純に考えよう2015年05月15日 23時55分29秒

★北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといえばよいではないか。

 国家間の安全保障とか集団的自衛権があるとかないとか、行使するとかしないとかいったい何のことだか、フツーの人たちにはよくわかりにくい。
 で、こう考えた。国家という単位で考えるからメンドーくさくなるので、国家を成す最小単位、個々の個人で考えたらどうだろうか。

 我が人から殴られたり、襲われたりしたら当然のこと、抗い反撃もしよう。正当防衛はどんな社会でも認められている。
 米国などでは、凶器となる銃火器でさえも、登録すれば自衛のためとして個人でも保持を認められているが、その是非は今はさておく。

 自分と親しい友だちが誰かに襲われ大変な目に遭っているとする。友なのだから当然その知らせを受け助けに行く。それはすべき義務でもあると考える。
 ただ、その争いに加わり、敵である相手を殴る蹴るとかするかしないかだ。よく新聞種となる暴走族グループ間の抗争では、一度コトは収まってもまた仲間を集めて仕返しに出向いたりなかなか収拾つかないことが多い。たいていは、警察沙汰となり、関係者が全員逮捕されたりして終わりとなる。ヤクザの抗争だって同様だ。

 思うに、友がもしケンカしているのなら、共に加勢して争いに加わるのではなく、まずは間に入り、仲裁に努めるのがまっとうな考えであり基本的常識だろう。まさに宮沢賢治の『アメニモマケズ』にある「北に喧嘩や訴訟があれば つまらないからやめろといい」である。

 こう考えてみれば、集団的自衛権を行使するということは、友がケンカしたら駆けつけて、友を支援して紛争の=ケンカの仲間入りをするということだとわかろう。確かに、親しい友が苦境にあればそうした助けもまた必要かもしれない。
 しかし、暴走族の抗争やヤクザの出入りをみるまでもなく、いったんそうした「仁義なき戦い」が勃発したらコトは簡単に収まらない。やられたらやり返し双方の応酬は果てしなく続く。個人や組織の場合はそうしたとき国家の権力である警察が乗り出し双方を逮捕して終わりをつける。

 国家ではどうなるのか。国連理事会にはそうした権限も力もない。つまるところ勧告や決議は出せても紛争そのものをやめさせることは不可能だ。それは中東情勢やウクライナを見ればたちどころにわかる。世界の民がどれほど憂いたとしても一度起きた紛争は簡単に解決しない。
 
 むろんそうしたケンカが起こる前に、起きないよう力による均衡、パワーバランスの必要性を説く人たちもいる。台頭する超大国中国やロシアに隣接する小国日本は、そうした「大男」たちに脅迫されたらば、「オレには、守ってくれる強い仲間がいるんだぞ、ナメタラあかんぜよ、コラっ!」と虎の威を借りることだ。
 が、それはヤクザ社会で言うところの「舎弟」の契りを結ぶことであり、親分であるアメリカが、どこそこの組に殴りこみするときは真っ先に駆けつけ先兵として切り込まないと子分としては合わす顔がない。それで命も落としても覚悟の上のことだ。

 個人の場合、そうしたケンカや紛争においては、加勢すべきではないのは言うまでもない。ケンカしている二人がいたとすれば、周りの人たちは割って入って、当事者たちを抱きかかえて引き離し、「冷静になれ、暴力では解決しない、ケガしてもつまらないからやめろ」と諌めるしかない。
 もしそこに分け入って友を助ける名目でケンカに加勢すれば、相手方もまたそいつの友たちも加勢して来てケンカは大きくなって長引き、周囲を巻き込んで大変な事態へと拡大してしまう。
 これが個人間の「有事」の際の常識ではないか。国家はまた別の話か。

 ならばこそ、友が、ケンカや紛争に巻き込まれたとして、たとえ友は一方的被害者であっても、我側は武力によって、軍事的にそのケンカに加わってはならないのである。それをやってたらまさに収拾つかなくなるだけだ。すべきことはまずケンカをやめさせ双方のはなしを聞きできる限り公平に調停に立つべきであろう。我が日本国憲法はそう示唆している。

 そのケンカや紛争の最たるものは、戦争であり、一度始まってしまえば、そのどちらがが降伏するまで、終戦はまずありえない。停戦しても何度でも紛争の火種は尽きない。
 死ぬのは兵士だけでなく一般市民も家を焼かれ財産を失い国土を奪われもする。世界中に難民があふれかえる。地球環境じたいが疲弊してしまう。

 ならばこそ、集団的自衛権として、つまり他国の戦争に参加してはならないのである。ケンカや武力攻撃ではモノゴトは解決しないのは先の大戦で世界中の人々が学んだことのはずだ。
 いや、モノゴトは解決はした。戦争も終わった。が、あまりに多くのものを20世紀の人類は失ったのではないか。
 そのうえで、戦勝国アメリカが日本に押し付けたとされる憲法を抱き、加害者として被害者としてすべてを失った日本人は、ここに人類の理想が記されていると誰もが喜び感激したのである。

 国家の政権が国土や国民の財産、権利を守るのは当然であり大切なことだ。が、その手段としての「戦争」は絶対にありえない。ひと度戦争が起きてしまえば、暴走族の抗争よろしく戦火は拡大し、収拾付かなくなっていく。ベトナムやイラクと同じく泥沼化する。民族と国家間の憎しみは高まり経済も社会も混乱して全てが行き詰る。テロが国内でも横行し、反体制活動家たちは全員逮捕されていく。

 真に想像すべきは、有事に際して、戦争のある、戦争ができる世界ではなく、戦争をしない、戦争のない平和な世界なのである。夢見てるって言われようと、それは僕一人ではないはずだ。