一人で酒なしで生きていく人生は2015年08月18日 23時20分52秒

★しるし無きものを思はずは ひとつきのにごれる酒を飲むべくあるらし    ランキング 103位                         

 人は一人で生まれて一人で死んでいくのだから、本来孤独が当たり前なのである。が、どうして孤独という状態が辛く苦しいのであろうか。

 もし、今これを読んでいる方々で、妻が、夫が、あるいは 結婚していなくとも恋人がいる方、そして子や孫がいる人は幸せである。たとえそれがどう煩わしく思ったとしても孤独に比べればそれは絶対に幸せな状態なのだ。そう断言する。そしてその幸せを噛みしめ、永く大切にしてもらいたいと願う。

 先だっての両国での転落事故で頭を打って以来、どうしたことか体質が変わってしまい、アルコールが全く呑めなくなってしまった。
 失態とその後の治療で自ら禁酒していたということもある。が、以後、不思議にまったく呑みたいという気持ちは起きず、付き合いなどで呑んでもちっとも美味くなく、例え缶ビールでも一缶でも呑み干せない。
 たかが5%のビールの類でも呑めない体質となったから他のもっと強い酒はなおのこと飲めるはずがない。

 アルコールが入ると頭が痛くなるというわけでもなく、ただビールでもチューハイでも飲むと美味いとは感じず、美味くないがゆえ呑みたくない、呑めなくなってしまったのだ。

 むろんこの季節、ビール的な苦い冷たい飲料を体は欲することはある。だからノンアルコールのビールテイスト飲料はよく呑んでいる。大して美味いとも思えないが、今の自分には本当のビールよりは美味しく感じる。だから飲める。いったいどうしたことか。

 アルコールだけでない。食もまず空腹を感じなくなった。昔は昼時などはお代わり無料の店などに入れば、ひたすらドカ食いもしていた。おそらく同世代の誰よりもいざとなれば大食いできたと思う。
 それが量も食べられなくなったし、食の嗜好も変わってしまった。以前は、インスタントラーメン、カップ麺の類は、美味いマズイ以前に大好きで、それが体に良くないのはわかっていても、一人でいるときはそんなジャンクフードで簡易に腹を満たしていた。

 むろん親たちに食事をつくるときはそんなことはしない。基本、何でも手作りの手料理を作ってはいたが、自分一人だと面倒くさくてインスタントで済まし、外で食べるときも味よりも値段よりもともかく量さえあれば良しとしてきた。そうした食の嗜好が大きく変わってしまった。そう、何であれ食欲というものがなくなってしまったのだ。

 むろん還暦を前にして当然のことながら体質も変わってきたとも思える。いつまでもそんな若いときのまま食べられるはずもない。
 しかし、去年の秋からいろいろ悩み事も続いたこともあったからか、体重はじょじょに落ちて、一時は68キロ近くあったのが、今は60キロそこそことなった。10%増量ならぬ、10%減量である。

 しかし、このままでいけば、おそらく50キロ台ともなろう。まあ、大学の頃や二十代はたしか58キロぐらいだったと記憶あるので、本来そのくらいがベストなのかもしれないが、40年前の体重に戻せても体力や気力まで40年前に戻るわけでもなく何か弊害もあるかとも思う。

 痩せる理由は簡単で、ともかく食べないからだ。昔は酔っぱらって帰ってきてからもまた深夜に牛丼を食べに行ったり缶ビール片手に飯も喰えた。そうしたことができなくなって、普段の食事にも関心がなくなればとうぜん体重は落ちる。
 以前かなりの頻度で通った近所のラーメン屋に先日行ってみたが、いつも食べてたものが何かちっとも美味しいとは思えず、薄っぺらな底の浅いものに感じていちおう残さず無理して食べたが、もういいや、と思ってしまった。たぶん、当分行くこことはないだろう。

 食に関しては万事がそんなで、昔なら心惹かれたものに関心がなくなり、食べても美味しいと思えないものばかりとなってしまった。むろん、たまにはうまいと思えるものに出会うこともある、が、以前よく利用していた低価格の外食にはもう気持ちが向かわなくなってしまった。おいしく感じないのだから仕方ない。それだけ味覚が鋭敏になったのであろうか。これが良いことなのかもよくわからない。そんなこんなでともかく食べることに気持ちがなくなったがゆえ食べなくなってしまったのだ。

 食に関してはそれで困りはしないし金も使わないから良いことなのだが、ふと夜更けに、孤独に苛まれ、寝つかれぬ長い寝苦しい夜を持て余すとき、ああ酒が呑めたらなあとつくづく思う。
 冷たい缶ビール開け、呑み始めたものの、どうにも美味くなく数口しか喉を通らない。ノンアルコールなら水替わりに呑めてもアルコールが入っていると何か気持ち悪くなって美味しいとは思えないが故飲めない。

 以前ならそんな苦しい晩は、まず缶ビールを1本空けて、枕元のウイスキーの小瓶から生のスピリッツを、聖書などを繰りながら数回喉に流し込めばいつしかてきめんに眠れた。朝もそれですっきり起きられた。

 また、呑めないので、友と酒場で過ごしてもやはり双方とも居心地が悪い感じがしている。アルコールならいくらでも杯を重ねられしだいに陶然としていい気分になってくる。それは相手も同様で、相乗効果で、最後は何一つ成し得たわけでも解決したわけでもないのに、同じ夢を見、同じ思いになった気がしてお互い満足して別れることができた。
 今は、彼の酔いを観察だけして同調もできず、話は合わせててもただ醒めて時間を気にしている自分がいる。それもまた辛いし失礼だ。心苦しくなる。

 人は酒なしで生きていくべきだと、生きていかねばと信じる者だが、人生の折々において、特に孤独と向き合うとき、アルコールなしではやはりかなり辛く苦しいと告白する。

 孤独とは置き場のない心だ。淋しさはどうすることもできない。我には老いた親はいる。が、この歳で、その老いた親たちに苦しい胸のうちを話すことはできない。彼らを心配させるだけだ。

 気の合う友はたくさんいる。心配してくれる女友達もいる。が、じっさいのところ真夜中に、あるいは起きてすぐに、その不安や淋しさを告げる相手はいない。淋しい思いを恋しい人に手紙やメールにして送っても向こうが困惑するばかりだろうし、返事も戻ってこない。迷惑かけ呆れられるだけだ。その人には恋人がいる。
 音楽も本も助けにはなる。時間潰しにはなる。が、かえってあれこれ考え気持ちは拡散し、ますます寝付かれなくなる。

 アルコールは孤独な心に終止符をうってくれた。この人生を一人でアルコールなしで生きていくというのが、我にまず課せられた使命なのであろうか。
 たった一人で、酒なしで生きていくには人生は長すぎるのではないか。いや、だからこそ素面で人生と対峙していきなくてはならないのだ。それを苦しみととらえるか、喜びと思うかだ。

 そのことははっきりわかる。が、今、弱き心は孤独を前にして思う残分酒に溺れられたらと夢想している。
 亡き河島英五のうたがふと頭をよぎる。そんなふうに、呑んで呑まれて泣きながら呑んで眠れるのならば、それもまた幸せに違いないと今は思える。