現実を前にして「うた」」はどれだけ力を持つか2015年08月30日 09時30分39秒

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 今日も曇ってうすら寒い。時おり、弱い雨がしとしとと降りそそいでいる。記録的猛暑の八月最後の日曜はどうやら一日こんな肌寒いすっきりしない雨模様となるらしい。
 さて、今日の国会周辺での10万人大行動どうしたものか。雨の中ギターなど機材持って行くべきか迷う。

 このところずっと考え続けていることがある。現実を前にしてうたは、音楽はどれほどの力を持つのかということだ。
 むろん音楽家や芸能人たちが声を上げることは正しい。人はまず一個人の存在として、どのような立場であろうと自らの考えや思いを表明すべきであろう。マスコミ、言論人も含めて、きちんと立場を表明しある事案に対して意見なり認識を発するのは正しいことだ。

 が、場合によってはかつての俳優山本太郎のように、結果として仕事をなくすことだって多々あり得るし、権力側からは「偏向」だとか左傾化しているとして、「つぶさななあかん」と標的にされる危険もまたあろう。
 しかし、それを支持するわけではなく、声を上げるときに声を上げず、無関係を装い、素知らぬ顔を決め込むのは人として卑怯なことだと思う。
 この世に本当に無関係なことなどあり得ず、消費税や市町村の税金が個人全員にまんべんなく圧し掛かるように、決められたことは常に誰にでも関係してくる。
 再び戦争が始まる時代となれば、じっさいに戦争に行かないとしても子や孫や親族の誰かは逃れられないだろうし、ひとたびそうした時代となれば自由にものをいうことだって憚れる。
 そしてそれを止められる、反対の意志を表明できるのは、その時代の道筋ができてからでは遅すぎる。今しかない。
 戦争の時代が来て、秘密保護法も既にあるのだから、戦争反対の集会を計画しただけで、国家転覆のテロを企てたと逮捕拘禁される可能性は高いだろうし、権力に異をとなえただけで、赤だとかスパイだとか弾圧もされよう。そしてそうした風潮が国民全体に広がっていく。

 だからこそ、今こそまず誰もが可能なかぎり自らの「意見」を表明しなければならない。創価学会員であろうと、公明党が自民党のお先棒を担いだからといって唯唯諾諾従う必要はないはずだ。
 思想信条の自由と信仰の自由がある限り、戦争法案に反対するのは当然のことだと思える。ともかく今できることを一人でも多くの個人があらゆる手段で「反対」の声を上げていくしかない。

 そして実はまたこうも思う。そうした時代のときに、では音楽家や歌い手、芸術家たちはじっさいに何ができるかだ。何をすべきかでもある。
 果たしてどこか室内のホールで、ほぼ同じ思いを抱く仲間内の観客を前に、安倍政権批判のうたをルーティンとしてうたっていれば良いのだろうか。それが歌い手のすべきことなのだろうか。

 今日の大行動に参加してそのことを考えなおしてみたい。