世界はダメな者がいてこそ成り立っている。2016年08月01日 11時49分26秒

★ダメを抱えて共に生きる社会を

 ドリフが好きだ。我自身は、世代的にクレイジーキャッツの方により深い思い出を持つが、ドリフターズの黄金期にテレビで毎週笑い転げていたことを告白するし、リアルタイムに彼らを観続けることができたのは幸福だったと今にして思う。
 俗に、「高木ブー理論」というものがある。ダメを入れることによっていったん過熱した状況を冷やして、次へ進めていくという手法だ。

 子供の頃、そのドリフの番組を見ていて、いつも不思議なのは、なんで高木ブーのようなつまらない人がメンバーにいるのだろう、ということだった。断っておくが、現実の人気ミュージシャンとして活躍されているその高木ブー氏個人を卑下して書いているわけではない。あくまでもあの番組内でのことだ。

 今の人は、その番組をじっさいに詳しく観ていないかもしれないので説明すると、基本様々なコーナーがあって、いかりや長介のリーダー仕切りのところ、次々と他のメンバーが出て来て観客に己のギャグを披露する。
 一番人気は、加藤茶で、荒井注、中本工事、そして高木ブーがそれぞれ出てくる。荒井、中本はその独自の売り、ポジションがあって、それなりにウケる。順不同だが、高木ブーはたいがいいつもラストだ。
 が、最後に出てくる高木ブーは、どうしてもパッとせず、たいてい笑いをとれないですごすご下がる。すると、長さんは、呆れたように、「ダメだ、こりゃ、次行ってみよー!」と場を転換させる。

 たぶんドリフの中で一番不人気だったのはデブだけが売りの高木ブーだったのではないか。我も彼のことは嫌いであった。何であんなに面白いドリフに、こんなつまらない男がいるのだろうかといつも不思議に思っていた。
 が、それは愚かな子供心ゆえのことで、大人になって、どこかで、ドリフは高木ブーで持っている、という一文を目にして、ああ、そうだ、その通りだと思い至った。ドリフに高木ブーというダメなメンバーがいるからこそドリフはあんなに面白かったのである。

 笑いに限らず、モノゴトは何でも続けているうちに、マンネリにもなるし、さらにより派手に過激にならざるえない。最初は、1のレベルで満足していた観客は、しだいに飽きてくるし、さすれば演者側は2のレベルのサービス、成果を提供しないとならない。そうして、いつしかレベルは5にも6にもなっていき、観る側もやる側も疲弊していく。
 しかし、その中に一人つまらない者、受けない者を入れることによって、その過熱はある程度防げる。そう、ブーが出てくるといったんチャラになるのである。
 ドリフは、高木ブーという受けないメンバーを一員に加えていることで、常に過熱していく受け狙い合戦を元に戻すことに成功していた。
 これが高木ブー理論というもので、素晴らしい者、面白い者たちばかりだとエキサイトしていく状況をダメを入れることで冷ます効果があるのだ。
 ゆえに、ドリフは高木ブーによって成り立っているというわけであった。

 ※むろんクレイジーキャッツのように、メンバーその全てが、超絶のプレイヤーで、一人もダメがいないというスーパーグルーブも存在している。しかし、彼らは本来ジャズミュージシャンであり、しかもかなりの大人であったから、覇を競う気持ちなどさらさらなく、ギャグやコントを演ずるにしろ、余裕持ってジャムセッション的に、余業として楽しみながらやっていた。しかも相手は子供ではない。耳と目の肥えた進駐軍の将校たち相手にスタートしているのだから、そもそもドリフとは成り立ちが全く違う。

 さて、何でこんなことを書いているか。先日の障害者大量殺人事件以後、あちこちで障害者の人権について様々な論が喧しい。我も思うところをあえて書けば、障害者とは、程度の差はあれど基本ダメである。一人では何もできない人も多い。不自由している人も多い。※断っておくがその可能性を否定して書いてはいない。我自身が色覚異常という遺伝障害があり、それゆえに就けない職種もあるというダメな者として任じたうえで書いている。
 しかし、彼らがいてこそ、この社会は豊かで余裕もって成り立つことができるのである。

 何故なら、高木ブー理論の如く、もしダメな者がいなければ、より社会は過熱してさらに成果と結果を求めていくだろう。よりできるエリートたちが持てはやされ、能力ある者が高い地位に就ける。それは悪いことではない。しかし、そうした競争が過熱すれば、その成果レベルも極限まで上がってしまう。
 人はより働かざる得なくなるし、24時間仕事のことを考えねばならなくなる。結果社会全体が疲弊し、耐えきれず落ちこぼれる者も増え競争社会は格差と断絶を生んでいく。

 企業は障害のある者を雇用を拒む。理由は簡単で、仕事の足を引っ張るからだ。が、真の健全な社会とは、そうしたハンディのある者も交えて、過熱していく成果主義を冷ますためにも障害のある者たちも社会に加えて、共に手を携えてやっていかねばならない。

 事件の殺人犯の発した言葉のように、社会に迷惑かける者は存在の価値がないとすれば、我が父も母も、一人ではもはや何一つできない身体&知的障害者となってしまったのだから、抹殺されなくてはならない。
 そしてそれは今健常な者でもいつかは誰にでも起こる事態なのである。もし社会全体が、人口が増えすぎたことも頭に入れたうえで、障害あって生まれた者、後に事故や病気などで障害者と同様の状態になった者は生きている価値はないと、総意ができれば、彼らを殺すことも可能であろう。
 しかし、それは人類が自ら、自らを殺すことであり、人間としての人格と尊厳を否定することに他ならない。

 ドリフに高木ブーがいて良かったように、この社会は障碍者が必要なのである。そして人は誰でも老いて病めば同様の、一人では何もできない、手のかかる、生産性ゼロの存在になっていく。
 だが、だからこそそうした人たちと共に生きることが、人が人であるために必要なことであり、それを許容する社会こそが正しいのである。

 誰も書かないが、大量殺人の元施設職員、彼の事件に及んだ理屈をとやかくとり上げる以前に、この男も精神障害であり、彼が崇拝するヒトラーも現在では妄想型精神障害者、もしくは境界線上と分析されている。ならば、彼自身がまず社会に迷惑かける劣等危険分子として、抹殺されるべきであろう。彼の理論に倣えばの話。

 人はどんな理念、妄想を抱こうが、じっさいに行動に移さず頭の中にあるうちは何も問題はない。が、それがいつしか現実のものへと実際行動に移す段階で、昔でいうところの「キチガイ、狂人」となったのである。
 問題は、そうした人物を、この社会はどう受け入れて、コトなきよう、コトを起こさせないよう、共にうまくやっていくか、出来るかだけの話だと思う。むろん周囲が知った時点で警察に通報し即要監視下におけば良いとかそれで済むというわけでもない。

 彼の狂気は狂気として、矯正することは難しいかと思うが、世界で多発する無差別テロも含めて、憎しみから発する狂気=現代の病理と社会はどう向き合えるかが問われている。答えは出ないが向き合わねばならない。

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