ようやく「正気」にかえった2017年01月28日 18時18分58秒

★ああ、そうだったのかという思い~心はいったいどこに行っていたのか。
 
 心ここにあらず、という言葉があるけれど、この一年、まさに自分は頭おかしかったのだ。今、ようやくそのことに気づく。ずっと発狂していたのだと思う。

 埃だらけの本と紙ゴミの山をかきわけ、今さっきようやくテレビモニターの前を片付けて、リモコンの電池も入れ替えて一年ぶりにテレビをつけた。
 なんと昨年12月のクリスマスイベントから一度もテレビにスイッチ入れていないしDVDも何も全く観もしなかった。いったいどうしていたのか。何が起きていたのか。

 この二階の広間、無頼庵には誰も来なかったし誰も呼べなかった。母の容態が春先から一気に悪くなってきて、一階の納戸と化していた小部屋に電動介護ベッドを設置するため、そこに置いてあった物たち、本や雑誌、そして日々溜まる雑古紙の類もともかく二階へと運び上げた。
 そして秋に母が急死し、死後の煩雑な事務的作業にまた追われて、けっきょく丸丸一年があっという間に過ぎてしまったのだ。

 去年の12月に、ささやかにでも今年も恒例クリスマスパーティを、とカクサクしたものの、何故かこの我自身体調が悪く直前になって中止してしまった。
 そして一か月後の今、新年会として人が来ることになって、前日の夕方、今もまだスペースづくりに慌ただしい。そしてようやくテレビの前も片づけて久しぶりにリモコンを手にとりテレビのスイッチを入れてみたのだ。
 おかしな話だが、これでやっと我が人生も「外」の世界とつながった気がした。むろんパソコンでは文字でのニュースは読んでいたし、下の居間では父との夕食時など定時のニュースはぼんやりつけていた。
 しかし、テレビをつけていないと、いや、テレビが常に見られる状況になっていないと、本当は何も外の世界の事はわからなかったのだ。

 この一年、CDもネットでアマゾンなどから注文はしても、落ち着いて聴くこともなく、ギターも弾かず、音楽の練習もせず、ライブにも顔出せずまったくすべての文化的なこと、外の動きと我は隔絶していた。
 そのことに今さらながら気づいて愕然とする。いったいどうなっていたのだろう。
 母とのこと、その介護と看取りも含めて家のことにただひたすら追われて、しかも死後もまた慌ただしく、まさにこの一年間ずっと心あらずだったのだ。
 よくそんな夢遊病のような状態で、事故も含めて大事に至らなかったかと感心する。自分でもよく無事に生きていたと思える。心がないのだから、ふらっとうっかり死んでいてもおかしくない。
 神のご加護があったからだとしか思えない。こんな我を神は見捨てずにいてくれたのである。
 この一年、我の心はいったいどこに行っていたのか。今、それを取り戻して、胸をなでおろして安堵のような心持でいる。

 これでやっと「外」の世界と繋がった。まだかなりおかしいけれど発狂していたのは治りつつある。さあ、これからだと思う。とりあえずそのことの報告をしておく。もう大丈夫だと思いたい。

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