夢の中で母と会う日々2017年01月28日 09時04分44秒

★涙でメガネが曇るばかり

 改めて自らのダメさとどうしようもなさをただただ噛みしめている。
 このところ、片づけ作業で、辛くとも去年一年の母との看護の日々を今さらながら「検証」している。そのせいか、このところの夢の中にほぼ毎回母が出てくる。
 夢で会えて嬉しくないわけはないが、その夢から醒めて、母のいない現実に向き合うのはまた何とも言えない辛く哀しい気分ともなる。
 いや、単に淋しいとか哀しい以前に、言葉にできない「どうしようもなさ」に気持ちは落ち込む。これが現実なのだから、それを受け入れていかねばならないし、実際、もう母無しでやっていけるとは思っている。
 が、この無常感というべきか、やるさなさは、我に生涯付きまとうのではないか。そんな気がしている。端的に言えば、ただただ「どうしようもない」という気分だ。

 子として親を亡くす、親を送るということは、誰にでも必ず起こるごく当たり前の出来事であろう。人類史上誰もがそうやって子は親を、そして親となった者は子に看取られ死んでいった。繰り返す季節の営みの如く。
 そんなごく普通の出来事がどうして辛く苦しいのか不思議に思うが、それこそ人が単なる動物でない故であろうか。様々な悔いや残した思い、果たせなかった願いがいつまでも澱のように、悲しみの気分と共に心に沈殿している。

 夢の中に出てくる母は、死ぬ前の痩せ衰え変わり果てた姿ではなく、元気で相変わらず動き回っている、かつての「いつもの姿」である。
 ただ夢の中でも、母は癌という病に侵されているという、我も母もその認識は持っている。しかし、その姿は元気なので、心配だけど、まあこれなら大丈夫だと安心するのである。
 それは母一人の時もあるし、父と共に二人で過ごしているときもある。我は夢で安堵し、喜ぶのだが、夢から醒める途中に、ああ、これは夢なのだとしだいしだいにわかってきて、しかももう母は死んで焼かれてその肉体はこの世にはもうない、母はもうどこにもいないとはっきりわかってくる。その度に愕然とする。
 そのこと、その事実と毎回向き合うことが実はとても辛い。そしてまた泣きながら目覚める。もう、母のことは我が内で気持ちの整理もついたと思っていた。が、やはり夢で会えても、それが夢だとわかって現実に改めて向き合うと本当に哀しく辛い。苦しい。必ず泣いてしまう。メガネは曇り、枕元はティッシュの山である。

 しかし、辛くてもまだ我はこれからも生きていかねばならないし、人生とはそうしたことの繰り返しなのだから、受け入れるしかない。
 幸いなのは、この家での母を看護している辛い日々の夢は一度も見ないことだろうか。夢の中の母はいつまでも元気な姿で変わらずにこやかに笑っている。ならばそれこそがあの世での姿なんだと思うし、我が母は永久にその元気な姿でいるのだ。
 それだけが救いだ。母の魂よ、安かれ。そして我が魂も安らかにあれと祈るしかない。これが人が生きていくということなのだ。辛くても仕方ない。どうしようもないことなのだ。

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