もう何も怖れないと言いたいけれども2017年09月02日 23時26分11秒

★危機を乗り越え新たなステージへ進みたい

 9月に入った昨日から突然季節は秋へと変わり、いきなり涼しくなった。過ごしやすいどころか、今日など寒いぐらいで、父は無事ショートステイに行かせたが、今朝は着ていくものに戸惑うばかりであった。これで体調崩さなければ良いのだが。

 昨日まで記した今回の我の「発狂」的事態、精神的危機は、すべて自らの愚かさが招いたというしかないのだが、そのことで我は何を得たのか学んだのか。
 もうこれで何が起きようと怖れない、動じないとか、何を突然失おうと奪われようとも平気な覚悟が出来たと言えればよいのだが、何かを失う恐怖はますますもって大きくなってきている。

 しかしそれが当然起きることだと予め想定して、デフォルト値に設定しておけば、晴れの日の後に曇りや雨の日が来るように、それはそれで当然起こるべき仕方ない事態だと受けとめることは可能だろう。
 基本が知恵足らずのバカなのだから、これからもまた性懲りなくバカなことを考えなしゆえ繰り返すことであろう。
 それをその都度悩み騒いでパニック起こしてもしょうがあるまい。そもそもあれもこれも完全にうまくやろうとか失敗なくやろうと考えるほうがおこがましいのである。

 つまるところ人生とはこれから失っていくしかないわけで、最後の最後は自らの命もゼロとなって、抱えていたものすべてを放棄して死んでいくのだと気がつく。
 昨今話題の言葉で、よく耳にする断捨離という仏教用語は、要するに死んだ後、周りの人たちに迷惑をかけないように、生前から抱えているものをどんどん捨てて減らしていくということでしかなく、それを意識し自ら率先するかしないかの違いでしかない。
 そう、人は嫌だって失っていくのだから何でそんなことにわざわざ時間かけるのか理解に苦しむ。そこまで死後も良く思われたいと願うとしたら何という見栄っ張りか。
 そんなことよりも今を、人生をもっと楽しみ、災害ボランティアでもいい、障害ある人へのヘルパーでもいい、自分ではない誰かのために尽くすべきではないのか。
 この世に生を受け生まれて来た者は人であれ動物であれ、必ずそこに意味と役割がある。
 愚かな我のように自ら混乱の極みに陥るようなバカであってもほんの少しは誰かのために役立っているのもしれない。そう、どれほど非道な人間でもその人がいることで、何かが変わり、社会は互いに少しづつでも影響しあって動いているのに違いない。
 人の行為に全く無駄なことはないし、すべてこの世にあるものはそこに存在の意義と価値がある。

 嗤われたことだろうが、我が今回の一連の騒動、誰かに伝えようと思ったわけではないが、書き記したことで気がずいぶん楽になった。ようやく正気に戻り、今回の危機を乗り越えた気がしている。また鬱病にかかり、すべてが停滞するところだった。あるいは自暴自棄になって誰か他者を傷つけたり事故をしでかしていたかもしれない。

 季節は爽やかな過ごしやすい秋へと移り変わった。さあ、これからまた辛く厳しい寒さの冬が来るまで、計画立てて、精力的に歩を進めていこう。幸い父はまた持ち直してくれている。有難いことだ。
 ならばできるときにすべきことを少しでも少しづつでもやっていく。また新たな猫がやってくるかもしれない。全ては神の計らい、御心のままなのだ。ネグレクトしても抗っても仕方ない。

 晩年の漱石先生が好んで揮毫していた言葉、則天去私。我もまたようやくその意味がわかってきた。そのうえで、天、=神と語らい問いかけていこう。どうかもうこれ以上我から奪わないでくださいと。失う哀しみ、辛さにこの弱き心はもう耐えられませんと。