それはカッコが悪いけど2014年11月03日 21時32分11秒

中川五郎 @W・サルーン10月
★今いちばん唄いたいうた  アクセスランキング: 67位
           
 先日のこと、青梅線河辺駅前のライブハウス「W・サルーン」で、今年1年間、月一恒例で企画されている「月刊 中川五郎」というライブの中で、その五郎氏が、「今頃になって急に唄いたくなった昔のうた」といってうたったうたがこれであった。以下その歌詞を記す。

座り込みをするのや デモをするのはカッコがわるい
    もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
   行動しなければ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

    人ごみで叫んだり うたうのはカッコがわるい
もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
声に出さなきゃ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

    胸にゼッケン貼り付けて 街を歩くのは カッコがわるい
もっとカッコいいやり方が 他にあるかもしれないよ
それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
行動しなければ 始まらなーい そうさ 始まらなーい そうさ

 以下もっと続くし、聴きとったものなので歌詞は正確でないかもしれない。が、ある時代を過ごした人にとってはかなり懐かしいうただと思う。

 今でも岡林の「友よ」とか風船の「遠い世界に」などは日本のフォークのスタンダード中、皆でシングアウトする曲としてよく唄われるであろうし今の人にも知られているはずだ。だが、この曲は、不思議なほど最近は唄われないし聞かれない。

 そして不明を恥じるが、もともとはいったい誰が作り誰が唄っていたのか正確なところは思い出せないし調べてもまだよくわからない。ただ、子供の頃、新宿のフォークゲリラたちの間でもよく唄われていたと記憶するし、じっさい自分も一緒に唄ったことがあるとても懐かしいうただ。単純かつ耳に残るキャッチなメロディとシンプルなコード進行、そして何よりも自由に歌詞を付け加えることもできる。五郎氏はこの日はヘイトスピーチに関して新たに歌詞を加えてこう結んでいた。

 それはカッコがわるいよと 君は何度も言うけれど
 ぼくらの町で憎しみの スピーチ溢れているのに
 まるで聞かないふりをして ずっと黙り込んでいる
 きみらのほうがカッコわるい そうさ カッコわるい そうさ
 
 こんな曲があったことをずっと忘れていたが、五郎氏が突然唄ってくれたおかげで、ああ!!と久々に思い出した。フォークキャンパーズでもやっていたのではないか。懐かしいだけでなく実に時節にかなった名曲だと思うがどうだろう。こんな時代だからこそ今再びもっと唄われるべきではないか。

 で、気にいって以後、それからは自分もまたウチに来てくれたシンガーたち、もっと後の世代の、その頃まだ生まれてもいなかった、みほこんたちにも唄って聞かせてはこのうたを知ってもらっている。彼女も気に入ってくれたようだ。そして若い世代もこれから歌い継いでくれるかもしれない。

 考えてみれば、あの学生運動や反米闘争の時代、こうして何がカッコいいのか、何がカッコ悪いのかとよく若者たちは熱く討論していた。
 そしてそれをそのままうたにしたのが、この曲で、実に青臭く今聞くと気恥ずかしい気もするけれど、今のような時代だからこそまた唄う価値、意味があるような気がしている。※あの頃、早川義夫氏にも「かっこいいことはなんてかっこわるいことなんだろう」という趣旨の曲がありましたね。

 そう、原発反対叫んでデモに行くのはカッコがわるい、もっとカッコいいやり方が他にあるかもしれないよ、きみはカッコがわるいよとぼくらに何度も言うけれど、行動しなければ、声に出さなけりゃ始まらなーい のである。

 五郎氏のライブではこれから常にリクエストして唄ってもらいたい。また、拙いながらもマス坊にも言って頂ければどんなうただか演ってみせます。まあ、今はもっとカッコいいやり方、ユーチュブにでもそのライブ映像をアップすれば即誰もがアクセスできてっとり早いのだろうが。

戦争の親玉 日本語詞2014年06月18日 12時25分53秒

爆弾をつくるお前さんたち
壁のかげにかくれても机の下にかくれても
あんたの顔はまるみえだ

おいらの世界をおもちゃのように
ひねくりまわしただこわすだけ
いつもかくれてたまがとんでくりゃ
雲をかすみと逃げるだけ

若者たちに引き金ひかせて
死人の数をあんたは数えて
屋敷にかくれる若者の血は
ただ大地に赤くしみこむ

あんたはきっとおいらに言うだろう
世間知らずとまだ若すぎると
でも一つだけわかることは
人を殺すことはゆるさない

名もつけられずに死んでいく子供
かたわのままで生まれる子供
そんな恐怖をまきちらして
お前には血など流れちゃいない

おれたちはしっかり見届けよう
うすら寒い夕暮れに
あんたが墓場に入る時まで
おれはしっかり見とどけよう


※アルバム「関西フォークの歴史」第1集の解説によると
「高石友也とボブ・ディランの最初の出会いとなった曲。訳詞は、当時、大阪労音のフォークソング愛好会がガリ版刷りで出した歌集の中にあったものを高石が唄えるように直したもの」とある。

古本音楽① こな雪2014年01月15日 09時42分48秒

★幻の国家・満州国で日本人の子供たちに歌われたうた      アクセスランキング: 154位

 どんよりとした曇り空。外は今にも小雪が降り出しそうだ。
 さて、昨日記した、今日では忘れ去られ歌われなくなったうたとして「こな雪」という曲をまず取り上げた。リンクさせたページからはメロディと歌詞が表示されるはずだがどうであろうか。この曲をご存じの方がいたでしょうか。

 ごくたわいのない童謡というか唱歌である。このうたはマス坊は父から知らされた。父は今、米寿を過ぎ来年は九十歳となる。むろん大正時代終わりの生まれである。
 先年、親たちと茶の間で、茶飲み話として「雪のうた」について話していた折、突然父が、こんな雪のうたがあったぞと思い出し調子ぱずれに一節を歌いだした。
 ♪こな雪さらっさら、こな雪さらっさら、と。子供の頃に聞いて覚えたうただという。

 しかし戦後生まれの自分も昭和の初めに生まれた母もまったく知らないうただ。父はもうかなり呆けているので妄想かという気もしたが、彼が思い出した歌詞の語句をネットで検索したところ、やや苦労したが満州唱歌・こな雪がヒットし出てきた。歌詞も確かにほぼ父の記憶どおりであった。
 なかなかロマンチックな時代を感じさせる詞と単純ながら耳に残るメロディであろう。

 1. こな雪 さらさら、
   こな雪 さらさら。
   里のこなやは 日が暮れて
   ろばの目隠し はずすころ、
   こな雪 さらさら、
   こな雪 さらさら。
 
2. こな雪 さらさら、
   こな雪 さらさら。
   町のかじやは、夜がふけて
   槌のひびきの さえるころ、
   こな雪 さらさら、
   こな雪 さらさら。

 この曲は中国大陸に日本が建国した満州国の小学校で、尋常3年、つまり小学3年の教科書に載っていた曲でらしい。大正15年作のものだと記されている。内地の教科書には載らなかったものと思われる。もしそうであればもっと今でも歌われていたのではないか。

 どうして父がこの曲を知っているのかと考えると、彼は満州生まれでも満州で育ったわけでもないのだが、子供の頃、その父に連れられてすぐ下の妹としばらくかの地にいたことがあるらしい。山師的気風に満ちていたマス坊の父方の祖父は、若いころ、妻子を内地に残して上の子供たちだけ連れて一旗揚げるために満州に渡った。どれぐらいの期間、かの地に彼らがいたのか定かではないが、どうやらこのうたは向うで覚えてきたものと想像される。彼らが現地の小学校に通ったのかはわからないが。でないと音楽に疎い父がこんな曲を知っている説明がつかない。

 実は今、かつて大陸にあった、日本が作り上げた傀儡政権国家「満州国」について音楽も含めあれこれ調べている。作曲者の園山民平という人は、どうやらその地で活躍された方らしく他にも「たかあしをどり」など「満州唱歌」をいくつか残している。今調査中なのでまたこの続きを記す予定である。

 思うのだが、日本人は、嫌韓、反中としてもいったいかの国についてどれほどの知識があるのだろうか。その歴史認識、過去の歴史の経過も含めてあまりにも知らなさすぎるのではないか。
 今の若者は日本がアメリカと戦争をしたことすら知らず、沖縄の歴史さえもわからずにただディズニーランド的親米感を抱き、アジア諸国には強い反感と嫌悪感を持つのである。ゆえに、産経等の世論調査では、安倍首相の靖国参拝についてかの国たちが強く抗議したことすら若者中心に「余計なお世話」「内政干渉」といった反応が高まるのだ。

 今、我々は「中国」というと、本土だけでなく台湾も香港もすべて中国と中国人だと考えてしまう。が、実は、その中国人=漢人と満人はまた民族的に違う。本来は言語も異なる。台湾の現地人、先住民族もまったく中国人とは異なる。その満人たちの国家がたとえ傀儡であっても皇帝溥儀を担ぎ「満州国」として独立した、させたことはそれなりの必然性があったのではないか。チベットの独立問題を満州国と絡めて考えはしないものの、戦争という人類最大悪とナショナリズムの問題なので迂闊なことは書けないが「満州」とはとても興味深い歴史の事例だと思う。
 
 さておき、「こな雪」、実に単純ながら心に残る童謡だと思う。特に歌詞が心にしみる。粉屋のロバの目隠しとは何のことか、もう説明しない。わからない方は周りのご老人に尋ねてみてください。

ご参考までに↓

http://www.youtube.com/watch?v=QcTtUXWMf_g

今ではもう誰も知らない、唄われないうた・前説2014年01月14日 08時00分38秒

★古本音楽家宣言          アクセスランキング: 134位

 さても寒い季節である。はんぱでない冷え込みだ。ここは東京でも多摩の田舎なので、手はあかぎれ、耳や手足の指先はしもやけ気味である。こんなに寒い時は「寒空はだか」さんに仕事が来るのだろうか。「~ホットブラザーズ」なら呼びたくても、その芸名だけでも夏はともかく冬は損しているような気がするが、それは余計な心配であろう。人はまず己の身を案ずるべきか。

 うたの話を書こう。うたとはその作者が不明でもその存在だけで世に残りまさに人口に膾炙して、歌い継がれていくものである。日々世界中で新たな楽曲が生まれ、そのいくつかはヒットもする。この場合のヒットとは、レコード的、つまり商業的に売れることだけでなく、つまるところ世に知れ、人々に歌われるうたのことだ。
 むろんのこと、世にはその「歌い手」のみしか歌えないうたも多々ある。クラシックのオペラなども大方そうであるし、流行りのラップミュージックなど、あれも「うた」だとすればまさに当人だけの「うた」だ。聴き手は共に唄えないし後世に歌い継がれることはない。

 つまるところ、好き嫌いは別として、うたとはカラオケでそのリストに載っているものだと極論しても良いかもしれない。つまり難しい歌であろうとも皆が歌いたいと望みじっさいに歌われるうたが「うた」なのである。ホントか嘘か知らないが中川五郎氏の「腰まで泥まみれ」さえカラオケに入っているのだそうだ。※むろんカラオケにない良いうたもいくらでも存在していることは言うまでもない。
 そしてそうしてある程度世に「認知」されたうたは人々の耳や記憶に残っていく。そして後の世でも「名曲」として歌い継がれていく。それ以外のヒットしなかったうたはすぐに、もしくはやがて忘れ去られ歴史から消えていく。この世にはそうした林美雄的「ユア、ヒットしないパレード」の歌うたに溢れている。 

 しかし、だからと言ってすべてそうした消えた曲、忘れ去られたうたが意味も価値もないものだとは限らない。うたの場合、歌謡曲によくあることだが、その歌を唄っていたオリジナル歌手が死んでしまうとよほどその知られた人気曲以外はもう歌われる機会がなくやがては忘れられ消えていくものだ。例えば、岡晴夫や水原弘など、割と早く死んだために良い持ち歌はたくさんあるのに、今ではそうした彼らのうたは代表曲以外まず歌われることがない。それはとても残念だと思う。

 またこの世には、唱歌、同様の類でもあるいは民謡、日本のフォークソングの世界でも誕生し一時は唄われ、世に知られたが時代と共に忘れ去られて消えていこうとしている歌がたくさんある。そうした収集と保存、歌い継ぎは、民謡の世界は遠峯あこ嬢、民権演歌のほうは岡大介さんにお任せするとして、不肖私マス坊はそれ以外のジャンルを取り上げていこうと考えた。私的にはそうした忘れ去られた古いうたを「古本音楽」と名付けている。

 というわけで自称「古本音楽家」としては、そうした埋もれた、たぶん知る人の少ないほぼ今日では忘れ去られた素晴らしい「うた」どもを機会あれば紹介していきたいと考えた。本に古本があり、それもまた流通させるその仕事が古本屋、古書店という稼業だとするならば、音楽もまたそうして再び世に流通させたいと願うがどうだろう。
 歌う人は今はもうなく、たぶんそれを知る今生きている我々が死んだらほんとうに消えてしまう可能性の高いうたを取り上げ、願わくば自分でも拙いながらもうたっていきたい。こんな素晴らしいうたがあることを世に知らしめ残したい。

 第1回目としてとりあげるのは、
 ◆満州唱歌 こな雪 である。
http://bunbun.boo.jp/okera/w_shouka/t_sinsaku/m3_kona_yuki.htm

カセットデッキの名機復活!2013年11月05日 09時42分22秒

★修理に出していたティアックのカセットデッキが復活した。 アクセスランキング: 131位

 すごく嬉しい出来事を記す。以前もちょこっと書いたかと思うが、何でもアナログ家電なら修理してくれる藤野のシゲさんのところに出していたティアック社製のカセットテープのデッキが一昨日修理が完了したと戻ってきた。まだきちんとオーディオに繋いでないが、テープは再生も送りも巻き戻しも問題なく稼働している。ものすごく古いデッキだったのでもう捨てるしかないと諦めていたものがまた使えるとは夢のようだ。本当に嬉しい。

 そのデッキは、カセットデッキのトップメイカーだった、優良オーディオメーカー・ティアック社製のff-80という機種。たぶん1970年代のものだと記憶する。どうしてウチにあるのか、自分では買った記憶はないが、誰かから譲ってもらったのかもしれない。
 当時でも7~8万そこらしていたのではないか。たしか同社の同モデルの最高機の一つ下の機種で、カセットデッキとして当時、そして今も最高レベルのデッキだ。動いていた頃、使ってみてカセットでもこんなに音が良くなるのかと驚嘆した記憶がある。そのわけは、スタビライザー機能にある。

 レコードでも同様なのだが、こうしたアナログオーディオは、いかに走行を安定させるかが一番重要で、そこにふらつき、ムラがあると音質は歪んだりノイズが出たりしてその素材そのものの真の良さ、本来の能力は再生できない。
 レコードの場合も、意外に皆さん知らないようだが、カートリッジの性能の問題以前に、レコード盤をターンテーブルにいかに未着させふらふらぐらぐら揺れないようにするかが最重要なのだ。何しろレコードはすぐ反ったり歪んだりする柔らかいものなのだから。

 そのためには穴のところ、レーベルが貼ってある部分に重石にあたるものを乗せて少しでも盤を固定してターンテーブルに密着させなくてはならない。そうすると走行は安定し、ふらつきは減り音質は格段の向上する。ただ、それはかなりモーターにも負荷がかかるのでプレイヤー自体がどっしりしたダイレクトドライブの本格的なものでなくてはならない。安物の昔の電蓄程度のプレイヤーではそんな重石を乗せると機械そのものが壊れてしまうだろう。その重石にあたるものをスタビライザーと呼ぶ。

 アナログのオーディオカセットテープを用いるカセットデッキも理屈は同じで、ヘッドでカセットテープの磁性体をトレースするのだが、テープ自体が左から右へと巻かれて動いていくときにふらつきが起こる。それを防ぐことさえできれば走行は安定し音質は良くなる。だがカセットのデッキにはそんな機能は元々なかった。
 そこで他の会社はどうしたのか知らないが、このカセットデッキの老舗ティアック社の高級機種は、カセットテープがふらつくことのないようカセット本体を固定させるスタビライザー機能が付いている。これによりカセットテープとはいえ、音質は格段に向上する。ただ、今もデッキはいくつか新品が出回っているし、ラジカセ的なものはいくらでも存在するがそんな機能があるものはこの地球上にどこにもない。ティアック社、タスカムのブランドで出しているデッキにもそんなものはない。そもそも今は高級機種など作られていないしすべて海外生産の、ただテープが再生できればそれで良いという程度の安物なのである。

 このデッキが壊れて動かなくなって、近くにあったティアックのサービスセンターに持って行った。確か入手した当初、不具合も一度は直してもらった記憶もあるのだが、やがてまた動かなくなって、そこに持ち込んでもこれはもう交換するパーツがないので直せないと断られてしまった。応対した窓口の技術者もこれはすごく良い名機なのでもったいないと残念そうな顔していた記憶がある。
 そう、確かに今は販売終了後7年だかそこらでその機種のパーツの保存が終わるので修理がきき、修理したくてもその材料がメーカーにもなく直すことはかなわなくなるのだ。海外ではありえない話だが、それもまた資本主義ということなのであろう。つまり直して長く使い続けるより新しくまた買え、そのほうが安いから、という理屈だ。

 しかし、このデッキなどは、同機能の新製品は出ていないし、もはやカセットデッキ、カセットテープ共々風前の灯火なのであるから、修理を考えた当時でさえこのデッキに勝る、または機能的に及ぶ機種は存在していなかった。ということは、あのすばらしい音質はもう再生できないのかと嘆くしかなかった。
 以降、何度もその壊れた古いこのティアックのカセットデッキはゴミとして処分することも考えた。どうせ動かないのだから、ウチは博物館でもないし場所をとるばかりだから捨てるしかないはずであった。
 だが、もしかしたらいつか直ることもあるかもしれないとその都度心が迷い、けっきょく21世紀も13年過ぎる今の今まで、捨てずにただ場所を占めていたのだ。たぶん製造から40年は過ぎていることは間違いない。まあ、ウチにはそうしたガラクタが他にもいっぱいある。

 それが友人を通して知った、藤野在住の奇特な方の手で、メーカーの技術者でもパーツがないので修理できないと突っ返されたこのデッキが直って戻ってきたのである。まさに夢のようだ。捨てないで良かった。奇跡が起きた。実に有り難いことである。

 さあ、これで、これから溜まりにたまった、自分が中学生のとき70年代初頭から録音してきたカセットテープを全部これで再生して、最良の音質でデジタル化していく。そのシステム、ソフトもそろえてある。ただ、再生するにあたり良いデッキがなかったのだ。
 このティアックの高級機が復活したのだから、いよいよ機は熟した、時は来た。この読者の方で、大事な昔録ったカセットテープが手元にあり、それをデジタル化したいと願う方は当方で順次その作業を代行していく。

 今ならまだ間に合う。まだできる。カセット文化万歳!という気分でいる。

それぞれの「今」について、「今」考えてみたこと・②追記2013年10月28日 23時05分41秒

今回活躍したsankyoのOMS-850T ランプ交換したばかりなのにベルトが切れた。どうしたものか・・・
★8㎜映画の現在は・・・

 三留まゆみの映画塾で、8ミリ映画の特集をやった。その報告を書いている。
 この映画塾の参加者のほとんどは、ブロアマ問わず映画関係に関わりのある方ばかりで、若い時からその8㎜フィルムで自主制作映画に携わり自主上映活動をやってきた人も多くいた。だから当日彼女の呼びかけで何台も映写機が集まったのだ。
 実際彼女自身がかつてそうした8ミリフィルムによる自主映画界の主演女優としてアイドル的人気があり、今もカルト映画界のディーバとして著名人でこの企画が盛況なのはひとえに彼女の人気に負うところが大きい。よって、久しぶりに昔の8ミリ作品を映写してみようと考えたしだいであった。

 が、先にも書いたが、まずその映写機がなかなか出てこないし、見つかっても長十年も放置していたから稼働させるベルトが切れて動かなかったり、ランプが切れていて点かなかったりと使用に耐えるものがなく大いに苦労した。

 けっきょく、ランプは新しいものを着払いで取り寄せて、万が一のために球は切れているがリールは動くものを予備用にも持ってきてもらい当日を迎えたのだった。で、何を上映したのかというと、参加者であるそのかつての自主映画少年たちが若い頃、学生時代に撮っていた作品を持ちよってもらい順次かけていった。しかし、今も自主映画活動をされている方はたいていが、過去のその8ミリ作品をビデオ化していて、DVDにして持ってきてくれた方も多かったので、当日前半はまずDVDでのそれをテレビで観た。

 そして後半は、それこそ何十年ぶりかに昔撮ったフィルムを撮った当人も久々に映写機にかけたという感じで、映写機でそれぞれの8ミリ映画作品を次々と上映していった。幸い無事にどれも映写でき、音声がややうまく再生されなかったりした作品もあったが、いちおう予定していたものはすべて終わるところまで来た。と、最後のフィルムの上映が終わる寸前、突然モーターが止まり、フィルムのコマがランプの熱でぶわっと溶けてしまうという惨事が起きた。もうほぼ終わりのところまで来てついにベルトが切れたらしい。
 けっきょく予備に持ってきて頂いた別の映写機でリールを巻き取り、最後はまたDVD化した作品をテレビで鑑賞して映画塾8ミリ映画特集の回はようやく終わった。

 今思うとよく数十年ぶりに稼働させた映写機がほぼ終わるところまで無事に動いたものだと感心する。最後のフィルム作品の方には申し訳ないが、8ミリ映画とはこうしたフィルムが焼けるトラブルは付き物であったのだ。それをも観客に示せたのは反面教師的に良かったことだったと思う。
 そして今回も映画塾に参加された「レトロ商会」という今も8ミリフィルムの販売から現像まで手掛けている会社の方からもお話を伺うことができたのも有り難かった。かつての作品をビデオ化する(これをテレシネと呼ぶ)だけでなく、2013年の今現在も8ミリフィルムで映像を録り作品を作る人たちがごく少数でも存在していることとそれを可能にする環境がまだあることを知ることが出来たのは幸甚であった。フィルムとフィルムを繋ぐスプライシングテープもデットストックのものが流通しているらしい。

 その他、今回の一件で映写機や自分の8ミリ探索騒動でいろいろなことを考えさせられた。長くなるからまた稿を改めて書きたいが、昔自分たちが8ミリを撮っていた頃からずいぶん時間が経ってしまっていたのだと今回ようやくはっきりと認識した。

 バカだから気持ちはあの頃のままで、それだけの時間の経過を浦島太郎的によくわかっていなかったのである。頭の中ではまたすぐに8ミリも作れると思っていたし、上映もいつでも簡単にできると考えていた。だが、そこには数十年の歳月、いつの間にか30年もの年月が過ぎていたのだった。だから映写機も当然劣化して使えなくなっているし、8ミリ映画を取り巻く環境はさらに大きく変化していたのだった。
 ならば自分も過去の撮ったフイルムがこのままより劣化し朽ちて見ることができなくなってしまう前に、他の8ミリ作家たちのように一日でも早くテレシネしておかねばならなかったのである。今回の上映でそのこともはたと気づかされた。

 いずれにせよ、カタチあるものはすべて歳月と共に朽ち劣化していく。どんどんボロボロになって動かなくなっていく。そうこの老いた我が身さえもそうなのだから、かつて愛好し夢中になったアナログ文化すべて、ハードもソフトも同様なのであった。そのことは8ミリだけでなくカセットテープもラジカセもレコードプレーヤーも然り写真のネガフィルムも含めて他のアナログ機材どれもが同じことであった。そうしたことを愚かにも今回の件でようやく思い至った次第である。

 まさに今回の8ミリ映写機の騒動は自分にとって玉手箱を開けた浦島太郎だったと気づかされた。それだけの歳月の経過をはっきり認識するきっかけとなった。ならば老いた太郎はどうやってその現実を受け入れて生きていくかまた考え直さねばならないだろう。
 これが「今」ということ、2013年の現在、現実現状ということであったのだ。

続・カセットテープよ、さようなら&ありがとう!2013年09月04日 22時21分36秒

懐かしいTDKのカセットテープ。これはパックイン・ミュージックへの投稿者に送られる特別仕様。
★ アクセスランキング: 137位

 迂闊に家は空けられない。今日は敬愛するソウルブラザー、さこ大介兄いのライブが小田急線鶴間であり、お誘い受けて行くつもりでいた。が、親たちの体調がまだもう一つのことと、天候が不安定で、家を空けるのが心配でお詫びのメール送って行くのは断念した。

 日中は晴れていても突然曇ってザ~と雨が降ったりするので迂闊に窓など開けていられない。夕方、暗くなってから断続的にかなり強い雨も降り出し、今も雷が鳴っている。ブログも外の様子を見ながら断続的に書いている。犬たちは全員室内に入れたから安心ではあるが、やはり今晩は出かけないで良かったかと今思う。

 さて、カセットテープについて書いている。前回の続き。

 1966年に国産初のカセットテープを発売したのがTDKだとその記事は写真入りで報じて、その老舗メーカーが磁気テープ事業から来年、2014年の3月で完全に撤退するのだという。※TDKのテープ事業自体は1953年に開始、従来のカセットテープも国内での生産は既に終っていたはずである。
 東京新聞の記事によると、同社は2007年にカセットテープの販売事業を米国の会社に譲渡。業務用の大容量バックアップデータを記録する磁気テープ事業は継続していたが、「磁気ヘッドなどの中核の電子部品事業に集中するため」撤退することになったと報じられている。

 カセットテープといえば代名詞でもあったTDKからその磁気テープ事業が消えてしまうことにも時代の流れだと感慨を覚えるが、記事では一方、今でもカセットは、カラオケ用などに低価格のラジカセも中高年中心に需要が高く、カセットテープ人気もまだ高いことを報じている。

 確かに、カセットの利点とは、記事にもあるように「(演歌のカラオケなど)歌を覚えようとして、短いフレーズを繰り返し聞くにも向いていて、メリット」がある。
 ⅰPodなどいじったこともないのでわからないが、おそらくデジタルでの再生機器だと、そうした細かい再生は難しいのではないか。自分の持っているICレコーダーでは録音は問題なくても再生機器としては全く役に立たない。パソコンではともかく、その部分だけ繰り返し随意に聴くことなんてできるのかわからない。ゆえに、自分はずっとカセットテープを何十年も愛用していた。

 テープの利点とは、ともかく全て目に見えることだ。録音されていることはテープが動くからすぐ判別できる。また編集もたやすい。音質はデジタルに比べ劣っていても曲間のタイミングなども含めて自在にマイテープが作れた。フェードイン、フェードアウト、音量の調節も自由自在。
 おそらく自分と同世代に生きた、かつての若者たちは、恋人に、友人に自らが選曲し録音したマイカセットをプレゼントしたり、そのテープをカーステレオから流して夜更けのドライブしたものだった。

 今でも手元にはそうしたラベルさえも手作りのテープが山ほどある。そうしたテープで片思いの女の子の心を射止められたかはともかく、今でもカセットテープがゴミに出ているのをみつけるとつい拾ってしまう。たいがいは松田聖子とかユーミン、サザンとか当時の人気アーチストばかりでどれもオリジナルのレコードなどで持っていてもカセットだとなぜか心惹かれる。それは、きっと「録音」という手間暇をかけて「手作り」したものだから愛おしく思えるのではないだろうか。手書きのインデックス、曲名リストも含めて。

 さて、そうした手元のアナログのテープ、いくらまだ再生が可能と言っても半世紀を過ぎれば当然テープのみならず細部のパーツも劣化してしまう。一回は聴けても最後まで来るとテープが切れてしまったりもする。なのでこのところ特に貴重なテープから順にタスカム社のカセットテープをCD-Rに焼くレコーダーでデジタル化作業を少しづつ進めている。本当はカセットデッキはティアック社の最高級機で再生させてそれをデジタル化させたいところだが、まだ修理から戻ってこないし果たして直るのかわからない。仕方なく先年買っておいたそのタスカムの一体型機でその作業をやっている。

 おそらく自分の他にもカセットテープに深い思い入れがある御仁はいるかと信ずる。お急ぎでなければそうしたテープをデジタル化する作業を代行してもかまわない。
 しかしそれよりも以前に自分にとってはカセットはまだ現役なのである。そうして拾ってきたテープを時間あるとき聴いたり車のオーディオで流している※マス坊の車のオーディオはCDなどかけられずカセットだけなのである。

 問題は今はそうしたカセットを再生する良いデッキがまず手に入らないということだ。今も新品で買えなくもないようだが、ラジカセに毛が生えた程度のカセットプレイヤーではカセットの実力を再現できないのである。かといってそんな高級機はもうどこにも残っていないし手に入らない。自分の夢はティアックの最高級機で、TDKの昔野外録音したテープを再生させることだ。1970年代に大阪天王寺で録った春一番のテープなどもある。でもそれってオーディオマニアでは絶対ないですね。カセット至上主義であろうか。
 カセットテープよ、さようならと書いた。が、さよならするのはTDKであった。そのメーカーには今も深く感謝している。

カセットテープよ、さようなら&ありがとう!2013年09月03日 22時54分49秒

★カセット文化終焉す。  アクセスランキング: 148位

 平成生まれの若い人は、レコードよりカセットテープに馴染みがないかもしれない。レコードは今もクラブシーンなどで一部の先端若者のアイテムなのだから。
 現在ではMDだって、シングルCDだってもはや過去のものなのである。音楽を聴いたり録ったりするのに今では実態ある個々のモノ、テープなどの記録メディアなどは必要ない。自分ではやったことはないけれど皆すべてダウンロードしたりファイル交換でやりとりするのであろう。そうやってpodなどのごく小さなメモリーやハードディスクに取り込むことが「録音」ということなのか。
 まあ、それが21世紀の音楽事情なのだと昭和の世紀、1960年代から音楽を聴きだした者として諦観のような思いと様々な感慨がわく。

 カセットテープなど今も使っている人はいったいどれぐらいいるのだろうか。海外、それも東南アジアなど第三世界では今も現役かもしれないが、間もなく需要も供給も終わりを告げる。今日でもまだ町では見かけるから演歌などカラオケのレッスンではまだ使っている老人もいるかと想像するが、たぶんこの数年のうちにコンビニでも100円ショップからもカセットテープは姿を消すだろう。まして若者はそんなの使うはずがない。ニューメディアという言葉があるならばレトロメディアと言うしかないものなのだから。

 筆者、マス坊は、カセットテープが一般に登場した頃から今日までずっと使い続けてきた。自分の記憶から換算すれば40数年使い続けている。さすがに最近では、ライブの録音などはICレコーダーに移行してしまったが、それも2年前ほどからで、つい最近までソニーの小型ステレオカセットレコーダーにステレオマイクをつけて生の音を録っていた。そのテープ業界の老舗メーカーTDKがついに磁気テープ事業から撤退するのだそうだ。

 先日の東京新聞の朝刊、特報欄に、「TDK 磁気テープ事業60年余年で幕 カセット栄枯盛衰」と題した記事が載っていた。

 同社は今もCD-RやDVDなどの記録メディアを生産しているが、知る限りもともとは「東京電気化学工業」と称し、その頭文字をとってTDKと名乗っていた。こうした発想はNHKと同じで現代では有りえないから時代を感じさせますね。

 カセットテープは、オランダのフィリップ社の特許で、小型かつ手軽な記録媒体として、知る限り60年代末から70年代、そしてソニーのウォークマンが世界的ヒットした80年代にかけて世界中でまさに一時代を築いた音声記録メディアであった。
 じっさい、その以前には個人が音を録るマシンとしてはオープンリールのレコーダーしかなく、それの家庭用のもなくはなかったが、テープも高価だったこと、扱いが面倒でオーディオマニアならともかくも子供にはまず縁遠い。だから家庭で誰でも気軽に音楽、放送やレコードなどを録音できる機械は待ち望まれていた。※前にも書いた、8トラというテープも登場していたが、カーステレオなどに向けたあくまでもソフトの再生専用で、録音機能はない。

 そういう自分も思春期に入り、中学入学のときだったかソニーのオーディオシステムを親にねだって買ってもらった。自室に入らないほど大きな当時話題の4チャンネルシステムだったから(スピーカーがフロントの他にリア2つの4つもある)、応接間に置いてあった。
 が当初は赤井のオープンリールデッキを秋葉原で買ってしまい、面倒だと思いつつもそれでエアーチェックとかしていた。そのデッキの話は依然拙ブログで書いたのでパスする。

 カセットテープは出始めた当時はC-60の、片面30分、表裏往復で60分のテープしかなかった。それが確か1本1000円もした。だから気軽には買えないのでラジオ放送などを録音しては消して使いまわしていた。
 それが、70年代に入るとラジカセの登場と共にごく一般的に普及していく。怪しげなブランドもいくつも登場し一気に値段も下がる。しかし、TDKとソニー、そして富士フィルムはカセットの三大ブランドとして、いや、日立マクセルも入れて四天王として、長らくカセットユーザーの厚い信任を得ていた。

 ご存知のようにカセットテープとは、ごく単純な仕組みでできている。テープを左から右へ巻き取って動かし磁気ヘッドで磁気テープに録音し聴くのは再生ヘッドで音を再生させるだけだ。
 当初、業界の人たちはあんな細い幅のしかも薄いテープで音楽なんて録音してもたかが知れているとバカにしていた。が、技術は日進月歩、ノイズ除去のドルビーシステムも普及し家庭用のオーディオシステムとしては申し分のないレベルまで進化していく。

 出始めた頃の無名ブランドの格安カセットには、あきらかに8トラのテープを流用したと思われるひどいテープもあった。また単純なのに、上記のブランドカセットメーカー以外の機種だとすぐ回転ムラや巻き込みが起こる。
 個人的に一番信頼を置き長く愛用したブランドこそTDKであった。そのテープの多くは今再生してもきちんと聴くことができる。管理状態が良かったこともあるけれど、40数年過ぎてもこうしたシステムのものが動くこと自体メーカーの技術力の高さ、メイドインジャパンの実力なのだと感心してしまう。

 この話、もう一回だけ続く。

インターネットはこの「文明」そのものを変えていく・終2013年04月05日 17時28分47秒

★物こそ全てが、モノズキなのである~今もカセットテープ愛。

 繰り返すが、政権が変わろうが、景気が良くなろうが悪くなろうが、文明の流れは旧には戻せない。SLも観光以外に走ることがないように、ひとたび新しいメディアが生まれそれが普及してしまうと旧いものは残れない。
 広い世界には、未開の部族でもないのに現代文明を拒否して、車も電話も水道、電気すらない19世紀的な暮らしを続けている集落と人々がいると聞いたことがあるが、むろんそれで自給自足でき外の世界とは関わらず生きていければ理想だと思うものの自分にはできやしない。
 何しろ生まれたときから現代物質文明にどっぷり漬かり、高度経済成長時代を消費することで通過してきた一家の出として、モノに対する執着心は人一倍だと認ずるし、モノ無しに自分が自分でいられる自信が正直ない。

 禅の語に、吾、唯足るを知る、という名言がある。まさに、少しの物でも満足しそれ以上求めないという心境にならねば人は悟りを得るどころか安らかに死ぬことすらままならないとつくづく思う。人は身一つ、何も持たずに生まれてきて何も持てずに死んでいくのだからどうしてそんなに沢山の物が必要なのだろう。

 頭ではわかっていても、モノとしての実体がごくごく小さくなって、データとしてのみハードディスクやマイクロSDカード、USBメモリーに収まってしまうと物好きは居心地が悪くなる。じっさいにモノとしての実体がないと不安でならない。

 マス坊は、近年、ライブなどの録音は、ICレコーダーを使うようになった。しかし未だちゃんと録れているか不安が常にあるし、だいいちあんな小さな機械の見えない内臓メモリやマイクロSDカードに音が録音されていく仕組みそのものが全く理解できない。つまり目に見えない限り、手にとれない限りそこには実体はない気がしているのだ。それこそがアナログ人間の証だと自分でもつくづく思う。

 思い返せば、中学生の頃、出始めたカセットテープに初めて出会い、そのニューメディアに本当に感激し夢中になった。まさにカセットテープは革命的でありそれまでの音楽環境を画期的に変えてしまった。当時はC-60のテープが1本定価1000円もしたけれど。
 その後、映像も録画できるビデオテープが家庭用に出てきたときも嬉しい驚きであったが、やはり、何より最初のカセットこそ個人が自ら録音も編集も出来る携帯のメディアとして今日の文明の祖であったと思う。

 それまで音楽メディアはラジオ放送とレコードしかなかった。むろんオープンデッキのテープは既に出回っていたが、それは放送局やごくコアなオーディオマニアのためのもので一般的ではなかった。何よりデッキは据え置き型で持ち運びはきかないし、テープの扱いもともかく面倒で持ち運びどころか簡単に貸し借りなどできるモノではなかった。

 それがカセットテープの登場により、またその普及にはラジオ付きの携行できるカセットデッキ、つまりラジカセの登場が大きく、当時の若者は全員、ラジオカセットプレイヤーで、深夜放送を録音したり、好きな娘には、自らセレクトした曲を編集録音したマイカセットをプレゼントしたりとカセットはまさに一世を風靡し大活躍したのである。

 カセットテープの意義というか価値とは、音楽や放送を自ら録音しモノ(カセット)として所有できることにあった。それはビデオテープも同様に、コピー、ダビング、複製文化であって、いっときレンタルレコード店が社会問題となったように、版権を持つ者、歌手らの著作権を侵害しその業界の人たちの生活を脅かす結果となった。しかし、それもまた文明の流れであって、ユーチューブに見るように、もうそれは誰も止められはしない。

 またカセットテープは、ソニーのウォークマンという大ヒット商品に至り、音楽を家庭から街へ野外へと連れ出し、据え置きスピーカーからイヤホーンで聴くものと変えた。カーオーディオも全部8トラからとって変わった。そしてカセットはその後、マイクロカセットテープというさらに小さなテープを生み出し、一部は電話機の留守電機能や会議の録音用に用いられたが、そこでほぼ役割を終えた。※一時期は「エルカセット」という肥大化をはかったモノも出たがすぐに見事失敗したことを知る世代はもういないだろう。

 そしていつしか気がつくと、ウォークマンはカセットテープの旧タイプは姿を消して、内臓のレコーダーだけのIC ウォークマンへと姿を変えて、電車内で若者が聴くのはその類の超小型のプレイヤーばかりとなってしまったのである。もはやカセットテープは国内では作っていないし、売っているのを見かけるのも稀となった。

 確かにそうした内蔵型プレイヤーならばカセットを入れた変えたりする手間なく何千曲も音楽を入れることができる。音楽ソフトの場所ももうとらないしいつでもどこでも持ち運べ、マラソンしながらも聴ける。しかし、自分はそうした携帯プレイヤーは持たないし、生涯使うことはないと思う。何故なら音質は良くてもモノがないものには馴染めないのと使いこなせないだろうからだ。今だって、車に付いているのはカセットデッキであって、長い運転のときにはお気に入りのカセットテープをセレクトして積み込む自分なのである。

 今ではCDだってなくなっていく時代なのだ。思うに、レコードがCDにとって変わられたとき、サイズが小さくなったように、やがてはモノとしての「実体」は不要となる兆しは見えていたのだろう。カセットテープは最後のアナログとして小さくともまだ「物」であった。しかし音楽がデジタル化されてしまえば、全てはデータファイルに過ぎないのだから、もうモノは不要となるのも必然の理であった。

 今、手元のICレコーダーのマイクロSDカードをたまに入れ替えるときがある。録音したライブなどのデータ自体は、パソコンに取り込んであるのだから消したって良いのである。が、パソコンもいつクラッシュするか定かではないので、そのカードも安いものなのでそのまま保存してある。
 しかし、取り出してそのごくごく小さいまさに爪の先ほどのチップを見て本当に不思議でならない。クシャミでもしたら吹き飛んで絶対みつからない。こんな小さなものに何十時間も音が入って記録されているのである。カセットテープのように、目に見えてその走行が確かめられ、それで録音していると安心できた世代としては死ぬまでこうした機器にはどうしても馴染めない。

 目に見えて手にとれるものだけが現実なのだと疑り深いトマスは思ったが自分もまた同感なのである。老いぼれの戯言はこの辺でとりあえず終わりとしておく。

まるでルンペンの如くに・続き2013年02月02日 15時37分22秒

★ルンペンも乞食もいない時代に

 光のどけき春の日である。今日は暖かかった。昨日までの冬の格好で外でいると汗ばむほどで、暖かいとそれだけで気分も体調も良い。今日は特別だと思うが、このまま早く暖かくなってほしいと心底思う。

 さて、書き出したことなので続きを。

 ルンペンとはドイツ語で、ボロ布、ボロきれとかの意味だそうで、マルクスの言う「ルンペンプロレタリアート」とは、要するに着のみ着のまま、ボロ服だけの何も財産を持たない無産者を指す。そこから転じて、家のない者=乞食、浮浪者を指したのだと思える。
 戦前の言葉だと思うし、昔はなぜかドイツ語から入ってきたスラングも多かった。古い小説などを読むと、学生言葉で、「俺、今ゲルピンなんだ」とかよく出てくる。
 意味は、ゲルト+ピンチ、あるいは「貧」の略で、要するにすっからかんの文無しだと言っている。ただし自分が学生の頃にそんな言葉は聞いた事もないし先輩でも使っている人などいなかった。戦前の旧制高校などではドイツ語は必修だったからそこから巷にもドイツ語系のカタカナ語が流行ったのであろう。
 それはともかく、乞食にせよ、ルンペンにせよもう街中では見かけなくなってしまった。
 乞食はもともと、「こつじき」、修行僧が家々を回る托鉢のことをさしていたが、同様の行為をする浮浪者を「コジキ」と呼び称したことは言うまでもない。自分が子供の頃にはウチにも玄関にそうした人が来て、母は握り飯をつくって与えたような記憶があるが、果たしてそれは現実か。あまりに本とか読んだので読んだ記憶が現実と混濁もしている。

 ただ、昔はそうして家々を回り、頭を下げて食べ物などを恵んでもらっている人たちは確かにいた。神社の境内で寝ているのを見たこともある。彼らを「おもらいさん」「モノモライ」と呼んで子供たちは蔑んだ気がするし、大人たちは「しっかり勉強しないとあんな風になるぞ」と脅したと記憶する。

 ルンペンにせよ、コジキにせよ、見かけなくなったのは戦後、新憲法によりとりあえず人権が保障され、生活保護などが受けられるようになったこともあろう。ただ、そのためには一定の住まい、住所が無くては受給されない。ゆえに、多摩川の川原では今もかなりの数のテント生活者が暮らしている。彼らは当然のこと生活保護は受けられない。
 ならば本来は昔風に家々を周り衣食を頼るしかないはずだが、今のご時世、世知辛いからそんな人が訪れたら「警察を呼ぶぞ」と怒鳴られるのがオチだから、皆アルミ缶を拾い集めたりして必死で働いている。幸い今は、デフレで食べ物でも何でも安いからそんなでもかろうじて生きていけるのである。

 安倍政権は、さっそく生活保護の支給額も一般給与水準が下がっている現状にあわせ下げると発表した。巷では生活保護者バッシングが盛りだからそれを歓迎する人たちも多いかもしれない。しかし、給与や年金支給額は上げず、この10年来下がり続ける一方なのに、物価上昇率を上げてインフレにしてどうして景気が回復するのであろうか。
 入る金は減り続けるのに物価がどんどん上がれば庶民はますます金を使わなくなる。いや使いたくても手持ちに金がない、ゲルピンなのである。生活保護需給も厳しく制限していけば、やがて街には昔のようにルンペンが溢れる。
 うたの文句では、ルンペンのんきだね~などと陽気だが、とてものんきでいられない。俺も何とかしないとこのままでは見かけも実体も本物のルンペン氏であろう。