レコードコンサート再び2012年11月24日 20時37分24秒

★昨日かけたレコードなど。

 コメント頂いて、気がついたが、自分は意図せずして「レコードコンサート」をやっていたようなのである。

 今の若い人はそもそもレコード自体かけたことも聴いたこともないだろうからレコードコンサートなんて何のことかわからないだろう。昔はレコードが高く貴重なものであったので、なかなか個人では所有できなかった。んで、繁華街にはあちこちに名曲喫茶、ジャズ喫茶なるものが存在していた。そこでは、かなり高級な良い再生システム、つまりアンプはマッキントッシュクラス、でっかいタンノイやJBLなどのスピーカーで、かなり大音量で客のリクエストに基づいてレコードをかけてくれた。まっ今だってそんな店はなくもないが、私語は禁止させるほど本格的な名曲喫茶はもはや残ってないのではないか。あれも一つの昭和文化だったのだと今思い至る。
 
 レコードコンサートとはそうした文化背景の中で、主にクラシックのレコードをどこそこのスペースに同好の士が集いレコードに耳を傾けるというものだ。まあ、特に意味はない。ただそれだけのことだ。むろん音楽の間は原則として私語禁止である。今では名曲喫茶はかろうじて残っていてもそんなことをする人は皆無であろう。

 思うに、音楽というものはかつてはスピーカーから聴くものであった。それが当たり前であったしそれ以外方法はなかった。あとはライブコンサートでありじっさいに生で会場で聴くしかない。それがカセットテープウォークマンが登場してからは、音楽とは個人のもの、一人でイヤホーン、ヘッドホーンで聴いて楽しむものと変わってしまった。携帯型のCDプレイヤーも同じく。じっさいウォークマンが出てきたときは衝撃だった。最初は戸惑った。だってどこにもスピーカー部がなく単にイアホーンで再生することしかできなかったのだから。それでいいのか!?と思ったがそれが大ヒットしたのである。音楽を聴く環境を一変させたのである。もうスピーカーに縛られることなく街でも電車内でもどこででも音楽が聴けるようになったのだ。

 スピーカーを前にして大きな音で音楽を聴く。スピーカーを鳴らす。自分だけではなく同時に何人か一緒にそれは聴ける。それが当たり前だと思っていた。が、たぶん今の人は家庭内、あるいは自分の部屋にオーディオシステムは、たとえミニコンポですら持っていないのではないか。あってもラジカセ程度の大きさのものかもしれない。そして皆が携帯、もしくはそのような大きさのモバイルプレイヤーで、イアホーンで音楽を聴いている。オーディオとはそうした個のものになってしまった。

 みんなでスピーカーを前に音楽を聴いていた時代が良いとか懐かしいとは思わないが、名曲喫茶にせよジャズ喫茶にせよ、レコードコンサートも含めそれは一つの文化でありなくなってしまうのはもったいなく残念だ。何よりもレコードはそれ自体が芸術であってその音をより多くの人たちで共に観賞する「文化」は21世紀の今だって価値と意義を持つと信ずる。ならばこれからも手元のレコードを聴く集い「無頼庵レコードコンサート」もやっていく意義があると思えてきた。まあウチのステムはたいしたものではないけれど、セパレートステレオの大きなスリーウェイのスピーカーで鳴らした音は間違いなくイアホーンで聴くものとは段違いである。距離と空間を通して腹にどしんとしっかり響いてくる。ぜひ一度無頼庵にその音を聴きに来てもらいたい。

 念のため昨日、フォークソング講座本番でかけたのではなく、終わった後、皆で呑んだり食べたりしながら聴いたレコードのリストを挙げておく。全てオリジナルのLPレコードである。

・浅川マキ/LIVE
・春一番/'72
・友部正人/大阪へやってきた
・加川良/親愛なるQに捧ぐ
・'71 全日本フォークジャンボリーライブ第二集
・上田正樹と有山淳司/ぼちぼちいこか
・ジャックス/ジャックスの世界

ギターの思い出ばなしを少し2012年10月05日 22時16分09秒

★明日のフォークソング・ワークショップを前に

 先だっての台風により一週間延期した、ウチ無頼庵でのフォークソングのワークショップがいよいよ明日となった。参加予定者はごく少数であるのはいたし方ないが、焦らず諦めずゆっくり続けていこうと思う。何事も継続は力だと信じて。

 まだ万全の準備完了とは言い難いもののとりりあえず場所は作ったし揃えるものはだいたい用意した。まったく初めて明日会うという方はいないようだし、ならばかまえずにのんびりやっていけば良い。気心しれている方は安心だが本当は新しい出会いを求めていたのだがこれも時の運と縁であろう。まだ自分にその力もなく時が満たないから縁がないのである。それは仕方ないことだ。

 さて、今回、ギター講座のようなこともやる。この自分に人様を教える資格がそもそもあるかとご批判もあろうが、自分のような準初心者だからこそ教えられることもあるかと考える。というのは・・・

 昔読んだ雑誌、たぶん「話の特集」だか「面白半分」だったか忘れたが、筒井康隆の「サックス講座」の広告が載っていて、それが講座だったか教室だったか、果たしてそれは本当に実施されたかも知らないのだが、ともかくあの作家の筒井氏がサックスを教えるという記事であった。今も彼はサックスを吹いているのか、それがどれほどの腕前なのか全く知らない。実は その記事が載ったときは彼がサックスを習い始めて間もない頃であった。なのでその広告に目をひかれ驚かされた。

 その広告文面の筒井氏の文面がふるっていた。確かこんな内容だった。「世の中にはサックスでも何でもプロとしてその腕前が達者な人が先生としてできない初心者に教えるのが当たり前だと思われているがそれは間違っている。何故なら、巧い人はもう巧くできるのが当たり前だから、できないときのことをすっかり忘れてしまっている。自分はまだ初心者でようやく少しづつできるようになってきたところだからできない人の気持ちはよくわかる。だからきっと良く教えられるはずだ」という論旨であった。なるほどと思った。まあ一理あろう。

 たしかに上手い人、できる人はそれが当たり前になっているから、できない人の気持ちがわからない。自分も昔はできない人だったのにいつしかその気持ちをとっくに忘れてしまっている。ゆえに、ようやくできるようになってきた人のほうができないときのことがわかり、できるようになるコツを体得したばかりだから教える側として最適だという論は成り立つ。この論を進めれは、虫歯のない人は歯医者になるべきではないということでもあるし、金持ちは貧乏人の痛み、苦しみはわからないということに繋がる。それは裕福な苦労知らずの世襲政治家達ばかりだからこの国の政治が悪くなったということと同じなのだ。まっそれはともかく・・・

 自分もギター歴は長いけれど、ギターを弾いていなかった時期も長い、ブランク永井であるから、宵闇せまれば悩みも果て無し、の気分がよくわかるのである。じっさい、再びギターを再会、いや、再開したのは岡大介と出会って以降、この数年なのだ。そして今もまだ初心者気分で少しづつ練習している。
 昔、高校生の頃は相応に弾け、唄い、それなりに音楽活動もやっていたはずだが、もう今は声も出ないし指も動かないただの素人オヤジである。でもだからこそ、昔より真摯に音楽と向き合い、ギターと向き合っている。わからないこと、出来ないことばかりだからこそもっと学びたいと願っている。だから他人に、もっとできない人に教えたいことがあるしきっと教えられるかと思う。

 でも、実はギターに関しては人から教わったという記憶はほとんどない。大昔、自分がまだ高校生の頃に、福生の基地側、北口青線地帯にあった「フォークビレッジ」というスナックで、そこのマスターにうたを聴いてもらいアドバイスを受けたぐらいだ。向かいの高名な喫茶店「家なき子」はまだあるのかもしれないが、その店はもうとっくにない。もう40年近く前の話なのだから。
 今頃になってウチの在庫に山ほどある古いギターテキストを開いては、アルペジオとかスリーフィンガーとか目で学びなおしているところだ。耳では聴いて指は動いていたけれど、きちんと体系的に勉強したことはほとんどなかった。それもこれもこうした講座をやるからである。古人曰く、教えることは学ぶことだと。今そのことを実感している。

詩人とミュージシャンとの間に④2012年06月07日 22時20分38秒

昨今人気高い藤しんいちろうが会場を沸かせる。
★うたはそもそも「世につれ」なのである。

 と、書いてきて、では関西フォークとは、自作自演のうた、そうした作者自らが作ったうたを自分で唄う行為なのだと思われるかもしれない。
もちろんそれも大きな要素であるが、それなら単に今でも数多いるシンガーソングライターということになってしまう。今のしょうもないJポップだって、その多くが唄っているミュージシャンの歌詞も曲も自作自演ということが多い。まあ、そうした系譜の祖、シンガーソングライターと呼ばれるルーツは拓郎、陽水ら、元々フォーク畑から出たヒットメイカーがヒット曲、売れるアルバムを生み出し、やがて荒井由実、のちの松任谷由実というニューミュージックの祖によりそのシステムが一般化したからであるが。しかし、関西フォークのスピリッツはそれだけではないはずだ。

 本場米国のフォークソングとは、ディランやスプリングスティーンにも多大な影響を与えた二大巨星、ウッディ・ガースリー、ピート・シーガーの楽曲を見ればわかるように、そのほとんどが、トピカルソング、またはマーダーソングであった。トピカルソングとは、時事ネタを唄の題材にしたものであり、マーダーソングは文字どおり殺人事件を唄ったもので、フォークとはそうした事件をバラッド、つまり物語うたとして「うた」にしたものであったのだ。あのボブ・ディランだって、初期のアルバムのほとんどがそうした曲で占められていることに気がつくだろう。※誰がディビー・モアを殺したのか、八ッティ・キャロルの淋しい死他参照。

 それは高石友也や高田渡が評論家三橋一夫の示唆により目を向けた明治大正の日本の演歌師たちのうたと近似であり、そのときどきの世相や憤懣やるせない政治ネタなどを「演歌」にし世相を批判したように、向こうのフォークも本来はそうした事件をうたにして告発することが大きな要素であった。まあ、もちろんそれだけではなく、遠く離れた恋しい故郷や別れて会えない恋人、死んだ人を偲ぶうたもまた多いが。

 つまり関西フォークとは、そうした本来のフォークソングのスピリッツに則って、政治や世相を風刺しうたにして批判したり笑い飛ばすという側面も大きく持っていた。ゆえに、社会派フォークとか、プロテストソングとかマスコミから評されたし、毒にも薬もならない従来の歌謡曲とは明らかに異なる強いメッセージ性とどんなことでもうたにしてしまう自由な柔軟性を当初からはっきり持ちえていた。大手レコード会社の自主規制組織レコ倫では絶対に許可しないような性的、反体制的なことを題材にしたものでも彼らはうたにしたし、関西フォークのアーチストの拠点、URCでは自主制作的に自らシンガーのライブ会場や会員制通信販売で売りさばいていたのである。

 だが、そうした時事性、社会的メッセージ性を強く持っていた関西フォークムーブメントもURCが1970年代半ば過ぎに事実上倒産してからは、完全に立ち消えてしまい今では社会派フォークは一人御大中川五郎のみが今も元気に孤塁を守っているだけとなってしまった。しかし、新潟では、現在は東京に居を移した藤しんいちろうというシンガーがいて、かつての岡林的コミカル風味の風刺ソングや時事ネタを巧みに取り入れた笑わせる自作曲で、ステージをいつもおおいに沸かせている。そうした風刺性のあるシンガーを生み出したということも有馬敲言うところの「関西フォークの精神」が今も息づいているということなのだと推測できる。

 そう、うたとは誰が何をどう唄ったって全くかまわないものなのだ。だのに巷には、あなたに会えなくて淋しいよとか、いつもきみのこと見守っているから元気を出して、大丈夫だよ、とか愚にもつかない失恋歌や下劣な応援ソングばかりはびこってうたは自縄自縛にがんじがらめにされてしまっている。うたとはもっともっと自由なものではなかったのか。誰もがうたいたいことを自分の言葉で自分の方法で自由にうたってかまわないはずだ。実はそれこそが有馬敲が関西フォーク黎明期から今に至るまで全国行脚で実践して示している「生活語詩運動」の思想であり、フォークソングのフォークは、フォークロア、民芸だとするならば生活語とはとりもなおさず「フォークソング」を指している事に思い至る。

 つまり本来のフォークソングの正しい継承者たちが今でも新潟には沢山残っているわけで、今回の有馬敲と彼らの出会いは、喩えれば長崎の隠れキリシタンの村に明治になってカトリックの枢機卿が訪れたほどの運命的な「再会」であったのだなと思える。
 その場に立ち会えたこと、またそうした場を藤しんいちろう氏とお膳立て出来たことの光栄を噛み締めている。

居ながらにしての時代・22012年05月04日 22時19分18秒

★今やレンタルCD、DVDだって人は利用しない

 今の人は信じられないかと思うが、昔は、増坊が子供の頃は、貸本屋という商売があった。それは昭和40年代の頃で記憶では、うちの町にも駄菓子屋と並んで一軒はあって、そこでマンガ本を借りた記憶がある。むろん、今だってレンタルCDショップでコミックスを貸すそうしたサービスをやっている店もある。が、その店は、小説本などもあったのか記憶は定かではないが、書き下ろしのマンガ本も置いてあって、もうその頃は少年サンデー、少年マガジンなどの週刊マンガ雑誌も出ていたのに「貸本マンガ」もまだかろうじて流通していたのだ。
※話はそれるが、水木しげるなどもそうした貸本マンガから出た人で、知る限り貸本で書き下ろしをやった経験があるのは山上たつひこ氏世代までだろうか。貸本マンガ文化については稿を改め書き記しておきたい。

 立川には、自分が学生時代になっても一般書籍を扱う貸本屋が残っていて、たぶんそれは80年代になってたかと思うが未だに!とびっくりした記憶がある。貸本マンガは一冊たしか5円ぐらいから、その立川の店は一冊50円~100円程度は貸し出し料とっていたかと思える。
 そうした商売は、80年代になるとレンタルレコード店としてひところ一大ブームを迎えることになる。レコードのような傷がつきやすいものを貸して商売とするのだから今思うとかなり無理有る気がするが、当時はレコードそのものが高く、LPは一枚3000円近くはしていたので、数百円で利用できるそうした店は貧乏な若者達にとっては大いに助かった。むろんラジカセやミニコンポの普及などハード面の伸びにソフトの価格がついていかなかったこともある。
 そしてそのレコードは、すぐにCD、コンパクトディスクと映画のビデオにとって代わり、レンタル業界は、著作権で一時はもめたが、ツタヤなどの大規模レンタルチェーンも誕生し、個々に営業していた町のレンタルビデオショップは淘汰され、皆どこもホカホカ弁当の店になってしまった。それはともかく・・・

 そして今、そのツタヤなどかつて一世を風靡したレンタルショップが今かなり苦境にあると人伝てに聞いた。今では旧作はどこも一枚100円だし、入会金無料をうたって利用者拡大にけんめいの努力をしている。なぜ経営が大変か、理由は簡単で、今の人は店に借りに行き、また返すという手間が面倒だからなのである。そう、今では家に居ながら金さえ払えば音楽も映像もダウンロードできるし、契約さえ結べば貴重な古い映画でも何でも見放題の時代なのである。

 貸本でもCDでもDVDでも借りたらば返さなくてはならない。これは忙しい現代人にとってはかなり苦痛を伴う面倒なことで、図書館を利用することも多い自分もすぐ返却日を過ぎてしまう。公共図書館の良い点は、あまり返却を強くやかましく言ってこないことで、何より無料なので多少の手間はガマンも許容もできる。が、レンタルショップだと遅れればすぐ延滞金はつくし、その返す日までに観たり聴いたり録音したりと気ぜわしい。だから返さないで済む方法のほうを人は必然的に選ぶ。

 じっさい、返さねばならないという気苦労と今や各種契約も安いから個々のダウンロード代なども含めトータルに考えれれば、レンタル業界にまず勝ち目はない。21世紀の今、いちいち外へ出てレコードショップを回ったり、レンタルショップに足を運ばなくても金さえ出せば、それもカード決済で、何でも手に入れられる。パソコンなどインターネット環境にあればの話であるが。

 居ながらにして何でも手に入り何でも見聞きでき、知ることすら可能である。そして何でも取り寄せることもできる。とてもつもなく便利で楽である。この便利さこそがまさに夢の21世紀であろう。だが、本当にそれは良いことか。オレはいまインターネットでこれを発信しつつ甚だ懐疑的である。

居ながらにしての時代・12012年05月03日 23時32分54秒

★夢の21世紀に生きてみて

 気がつけば21世紀もゼロ年代から10年代へ、既に10年以上経っている。子供の頃、さんざん科学雑誌やマンガ、SFで憧れ夢見た、あのイストレーター真鍋博描くところの世紀に入っているわけだが、世紀の変わり目にはそれなりに感慨もあった気がするものの気持ちとしては何一つ前世紀との差は特にない。
 生活も自分の場合、パソコンは所有し、薄型液晶大型テレビも居間になくはないが、携帯電話は旧型でメールだって送れないし、洗濯機も二層式でほぼ20世紀の暮らしを続けている。車もハイブリッド車ではもちろんない。どこが夢の21世紀なのか。

 が、世相、社会を見回すと近年大きく様変わりしていることがいくつもあることに気がつく。それは、インターネットの普及により情報の流通量が飛躍的に増えて、しかもそれは小型化モバイル化したので、どにいても電気さえあれば情報にアクセスすることも自ら情報を発信することもできるのだ。それは交通網などのインフラ整備よりも素晴らしく画期的なまさに夢の発明だと思える。むろんコンピュータとネットワークシステムは20世紀の発明だが、それがようやく各家庭、あまねく個人にまで普及したことこそが21世紀的ということなのだと思える。

 じっさい、1990年代の本や雑誌などを見ると、携帯電話が一般化してもまだ文化人の多くが不要だとか面倒だとか文句言っていて当時はまだあまり普及していない。しかし今日、老人でも携帯は日常的に持ち歩いてメールでやりとりしている人も多々いるし、携帯そのものを持たない人のほうがいまやごく少数派となってしまった。
 そして公衆電話や宅電、配達される新聞、書店で売っている本や雑誌、CD、DVDソフトなど前世紀からあるものが今や絶滅の危機にある。それらは情報メディアとして、必要かつ不可欠なものであったが、今日では携帯端末、インターネットの普及により代用代行、いや情報だけ得られればモノは不要という時代においては価値を失いつつある。おそらく21世紀中葉にはそうしたモノ文化は新たに流通しない、つまり全て消えてしまっているかと案ずる。

 21世紀はどんな時代なのかと問われれば一言でいえば、どこにいても居ながらにして全てが可能になっていく時代なのだと答える。それはとてもつもなく便利で楽な良いことなのだが、反面とてつもなく大きな問題を内包している。何回かにわたりその「問題」を考えてみたい。

オープンリールデッキ再起動・32012年01月16日 21時22分22秒

★なーに、なーに、これなーに?

 今日は一日どんよりとした曇り空。陽射しもなく冷え込んで今にも雪が降りそうだったが、けっきょく降らずに、たぶん今晩も雨も雪も降らないらしい。東京では12月からもう一ヶ月も雨が全く降らず超カラカラの異常乾燥である。春先は雨が多いが、まだ当分はこんな状態かもしれない。今はまだ1月半ばなのである。2月に入らないと東京は雪も降らない。

 さて、いろいろお知らせしたいこともあるが、まずはオープンデッキの件だけ報告を終わらせたい。
 自分が高校生の頃多用した、実に40年近く前の機械なのにデッキは問題なく作動し、ともかく久々にリールを通して再生してみた。まだアンプには通さずまずヘッドホーンで聴いている。
 一応回転ムラもなく、再生できることは確認できたが、さすがにその有馬敲さんから届いたテープは、1960年代半ば頃のものなどで、録音された時点の回転も遅くノイズもひどいし音も小さい。聴けなくはないのだが、北山修がDJをやっている関西のラジオ番組の冒頭だけ聴いて試しに聴くのはやめにした。
 というのは、磁性体の剥離が激しく、回しているうちにゴミのようにテープから録音面がぽろぽろと剥がれ落ちていく。たぶんお仕舞まで聴けなくはないが、それでもう一度再生することは難しいかと思える。つまりこれを再生するときはまさに一回限りの覚悟で、そのままデジタル録音機にダビングしながらでないとおっかなくてとても聴けやしない。つまり一期一会ならぬ一期一度だけの再生とする覚悟で万全の準備で始めないとならないということだ。

 まあ半世紀近く前のテープなのだから聴くことも当然難しいどころか、存在していること自体が奇跡的であろう。全部が無事に聴けるとも思わないし、それぞれ状態も違うので、再生できるやつから年内を目標に、友人のスタジオで再生とデジタル変換作業を進めていこうと思っている。無事それが進めばまたこの場で内容も含めてお知らせできると思う。


 さてと、先日、その有馬さん当人と飯田橋のホテルのロビーでお会いした話は書いた。その折、また古いカセットテープなども彼は持参しさらに渡されたのだが、その中に、奇妙なものをみつけた。思わず笑ってしまった。今の人はいったいこれが何か絶対知らないと思う。※画像もアップさせた。高田渡が二つあるが、真中は紙箱、左端はその中身のカートリッジ本体である。

 高田渡と山平和彦のLPを元にしたテープのソフトなのであるが、カセットテープではない。大きさは横約10センチ、高さは13.5センチ。カセットテープより一回り大きいサイズで紙箱に入っている。中身はプラスチックで、ファミコンのソフトに似てなくもない。奇妙なことに短い面、つまり前方一面だけカセットと同じくテープの見える窓があるだけで、他の面はすべてプラスチックで覆われている。つまりカセットのようなテープを駆動させるための穴はない。
 さて、これはいったい何でしょう。なーに、なーにこれなーに?

 今40歳以降の人、つまり40代ぐらいの人なら記憶にあるかと思うが、これは8トラのテープなのである。増坊たちは昔これを「ハチトラ」と呼んでいた。正式名称は、8トラック・ステレオ・カートリッジ とケースに書いてある。これはオープンリールでもないし、カセットテープでもない。何で8トラと呼ぶのか知らないが、トラックが8つあるところからそう呼んだのだと推察する。しかし、じっさいは再生するにトラックは4つしかない。

 これはもともと業務用というべきか、乗用車やトラックなど車両用オーディオとして普及していたもので、カセットテープが一般化する前は、車の中で音楽を再生するには8トラしかなかった。それとカラオケ用の再生ソフトとしてである。
 だから一般家庭で再生機器としての8トラプレイヤーなど見たことはないし、持っている人もいたのか知らない。自分が知る限り車の中で使うこととせいぜい初期のカラオケシステムであった。だから当然ソフトの種類も一応いろいろ出てはいる。基本は歌謡曲だが。しかし一つのトラックに何分録音できるのか知らないが、あまり機能的ではないし音も良くなかったような気がしている。オーディオとしての以前にそうした業務用として普及したのが8トラだったのだ。

 使用法は特に難しいことはない。そのままこのカートリッジを車に設置した機械の口に差し込めば今のPCに各メディアを差し込むのと同じくすぐに音楽が再生される。横にあるボタンを押せば各トラックがすぐに切り替わる。そうしてガチャコンとボタンを押して曲目を変えたりした記憶がある。

 しかし、何より驚いたのは、そうした業務用ソフトとして、高田渡やあの山平和彦が出ていたことであろう。トラックの運ちゃんが高田渡を聴きながら高速道路を走った時代があったのか。ほんとうに驚いた。まさか8トラのソフトとしてフォークソングが出ていたとは。知らなかった。これはともかく貴重なものである。他に持っている人はおそらくいないのではないか。
 有馬さんに聴いたら、これを聴いたことはないようで、これらは彼の詩作に曲がついたものが入っているので関係者から頂いたものらしい。

 これを一度でいいから再生してみたい気もするが、たぶんもう今ではその再生デッキはどこにもないのではないか。何しろ基本はカーステレオ用である。まあ、どこか鄙びた地方旅館に行けば宴会場の片隅にカラオケ機材として8トラのプレイヤーも眠っているのかもしれないが。それを探し求めるほど俺はヒマじゃない。そう、こんな時代もあったのだ。

オープンリールデッキ再起動・22012年01月13日 09時54分35秒

★それぞれの時代・世代のメディアとハード

 今の人は何で音楽を聴いているか想像するに、ネット上からダウンロードして自分の端末に取り込むのではないかと思う。そこにはオーディオと呼ぶものは存在しているのだろうか。
 村瀬春樹氏に及ばずとも、モノ過好き、モノマニアとして自分もまた様々な楽器やオーディオには若い頃から魅了されてきた。特にオーディオにはかなりハマった。
 当たり前のことだが、それぞれの世代や時代ごとにその音楽体験は当然異なる。親たちの世代は、完全なラジオエイジであり、茶の間のラジオを通してしか放送として音楽を聴く機会はなかった。まあ、文化住宅に住むお金持ちの家では、SP盤の蓄音機はあっただろうが、一般的ではなかろう。
 それが叔父たちの代になると、いわゆる電蓄、電気蓄音機、モジュラーステレオが普及し、レコードも所有するようになっていく。自分はその頃からの記憶はある。
 しかし増坊のように、昭和30年代に生を受けた、1950年代も後半世代は、メディア、つまりソフトとしてはLPレコード世代であり、ずうたいもかなり大きな家具調の、プレイヤーも一体型のステレオセットを持ち、カセットテープを多用したラジカセ世代とも言えよう。ウォークマンなどで街中を闊歩した世代はもう少し後の人たちだ。
 つまり自分はレコードとカセットテープで育った世代だと断言できる。むろんCDも後から出てきて、そちらも当然ソフトも沢山持っているが、基本は今も昔もレコードとカセット中心である。たぶんもうそんな人は物好きも極まって好事家、SP盤コレクターに近い存在かもしれない。

 と、そこにオープンリールデッキはどこに入るのか。
 私ごとを書くと、音を録る機械に出会ったのは、オープンデッキからであった。むろんのこと蓄音機といいつつもレコードプレイヤーの類は録音機能はない。オーディオ好き、音楽マニアにとって、音を記録するということは永遠の憧れであり課題であった。

 そして当時そのために家庭でも普及していたのは、オープンリールのテープを使ったデッキであり、大小いろいろある。まあ説明する必要もないかと思うが、映画のフィルムと同じく、リールのテープを回して磁気ヘッドに通して再生し片側に巻き取っていく。完全にテープが走行し終えれば再びもとのリールに巻き取らねばならない。当時はあまり思わなかったがかなりセットするのも面倒くさいしテープがパラけたりして管理も難しい。その原理を簡単にし小型化させカセットケースの中に二つのリールを閉じ込めたのがカセットテープなのである。

 増坊はそのオープンリールデッキを確か中学生のとき、高校進学の記念だったか親にねだって買ってもらったかと思う。むろん金だけもらい自分で秋葉原に出向いて買ったのではないか。もう40年ぐらい前のことであり、その時期もおぼろげであるが、確かなことは一つある。それはカセットデッキを買うかオープンリールデッキにするかかなり迷ったことだ。

 その頃、たぶん1970年代初頭の時代はちょうどカセットテープが登場し普及し始めた頃で、録音機器の時代はオープンリールからカセットへ移行し始めていたのだ。今のごく小さなメモリーを使ったICレコーダーのことを思うときまさに隔世の感がある。

 自分としてはどちらでも良かったし、カセットにしようかと考えてもいたのだが、母の末弟、当時クラウンという家電メーカーに勤めていた年の近い叔父に相談したところ、カセットテープみたいなあんな小さい幅のテープは音がたかが知れている、音楽を録るならやはりオープンリールのほうだと諭され、かなり重いそのデッキを抱えて帰った記憶がある。いっとくがまだラジカセ、つまりラジオの付いた携帯型カセットプレイヤー「ラジカセ」は登場する前である。

 じっさいのところ、カセットテープは中学生になって出回り始めた当初はC-60、つまり片面30分の標準テープが1本で千円だったかと思う。今の千円ではない。当時の千円だからおいそれと買うこともできない。
 オープンのテープがいくらだったか記憶はないが、こちらは録音時間も可変でき、回転を遅くして録ればお買い得だったのではないか。それに何よりも音がじっさい良かった。カセットはドルビーシステムが普及するまではかなりヒスノイズが大きく音楽の録音には無理があったように思える。

 というわけで、自分が最初に買った録音機器はその赤井のオープンリールデッキであった。しかし、時代はラジカセの登場と共に、一気にカセットテープの世に変わっていく。
 しばらくは友人から借りたLPを録ったり、FM放送の番組を録音したりしていたが、やはり何といってもカセットの方が手軽で手間もいらない。やがてカセットテープもどんどん日毎に安くなっていく。オープンデッキはいつしか使うことは少なくなっていった。でも高校時代などバンド関係でのライブや録音ではずいぶん役立った。この機械にはマイクが2本繋げられたので、そのまま録音機材として活躍した。むろんかなりの重さなので持ち運びには難儀したけれども。また大学時代、自主制作していた8ミリ映画の音入れもこれに一度録音して編集したのだった。

 そして今それから数十年、買ったときからは40年近くたって、再び電源を入れてみた。まだ生きている。ちゃんと動くではないか。自分は何でも捨てない男だが、これをとっていて本当に良かった。機械も喜んでいる。
 さあ、これから大昔の関西フォークの黎明期の音源を聴いていこう。そして内容を確認したらディジタル化していかねばならない。それこそがオレの使命なのである。

オープンリールデッキ再起動・12012年01月12日 22時13分16秒

★オープンリールの録音機ご存知か。

 今の人はいったい何で音楽を聴くのだろうか。
 音楽の話・メディアやジャンルではなく、ハードについてである。iPodのようなポータブルオーディオプレイヤーとヘッドホーンだけで、部屋でスピーカーを大きな音で鳴らすことはないとか誰かが言っていたがほんまかいな。もう自分は何もわからないことを告白する。

 このところ、京都の有馬敲さんから昔のテープ、それもオープンリールのそれとかカセットテープが何度かに渡り送られてきた。その数数十本。古くは60年代後半からのもので、岡林や高石さんそれに高田渡が向こうのラジオに出たときのものなど箱に書いてある。
 それはとてもおそらく貴重なものであって、彼が録りためたというものではなく、ラジオ局などの関係者から参考資料として届いたものかと推察するが、フォーク史研究の古本音楽家として大変貴重な資料だと思える。
 しかし問題はそれをどうやって再生するかだ。

 カセットデッキとかラジカセの類は今も部屋にいくつも転がっていて、中には起動しないのもあるが、テープならかけられる。またそのテープをディジタルに変換する、つまりCDーRに落とすデッキは先年買った。このところは建て替え騒動で移動させて使っていないがそのデッキも出さねばならない。
 それよりなによりオープンリールを再生するプレイヤー、つまりオープンデッキである。そこで、大昔買ったその機械を出して電源を淹れてみた。まだきちんと再生したわけではないが、驚いたことにモーターも回りたぶん再生可能のようだ。
 そのデッキは、記憶がおぼろげだが、確か自分が高校に入るときに買ったように思える。いや中学生の頃だったのか。ならば実に約40年前のことになる。40年は過ぎていないがかなりそれに近い。テープを固定するためにはめこむゴムのストッパーはさすがに劣化してうまく嵌らないがそれ以外はまだ問題なく動くということに感嘆感動している。日本のこの頃のモノづくりの技術力はすごいものがある。まさにプロの仕事、本当の機械である。メーカーは赤井。テープデッキの専門会社であった。
 赤井は、のちにダイヤトーン(三菱電機)の音響ブランドと合併してA&Dというブランドで営業していたと記憶するが今でもその会社はあるのだろうか。当時はカセットも含めそうしたテープデッキのメーカーは赤井とティアックが二大専門メーカーであった。

※この話やや長くなるので次へ続きます。

脱原発時代に「日本人」の行くべき道2011年07月27日 21時52分45秒

★漂流国家ニッポンの行く末

 今朝方は曇りがちで、いっとき小雨がぱらついた。自転車で古本回収のため朝の町を走っていたら咲き誇るムクゲや百日紅の木の下を縫うように燕が低く飛んでいた。様々な思いがわき出る。
 

 人が生きていくことは生活の糧を得るため働くことも大事だが、いちばんの仕事は子孫を作ることだとこのところよく考える。つまるところそのことは受け継いだ命をまた次へと渡すことであろう。しかし、誰もが当たり前にすることでもそれをしない人もできない人もいるのも事実であり結婚及び子作りや子育ては人として必須のことではもちろんない。

 ならばそれをしない、しなかった者としてできることは何かと考えれば、今まで生きてきて自ら知りえたこと、知識や技術も含めての伝統と文化を構成に伝えることではないだろうか。歴史を語り継ぐ、書き記すということでもある。そうした個人の記憶や技術がきちんと継承されてこそ伝統であり、文化なのだと思う。そしてそれらが市民レベルで蓄積された集合体が真の意味で国家、つまりこの国、日本だと信ずる。

 残念なことにこの国の伝統文化というものは甚だ脆弱であり、江戸の時代まで続き花開いた日本文化は近代に入り開国してからは欧米化の一途を進み、戦後は米国一辺倒となりそして今は韓国化が急速に進んでいる。他国の文化や思想を取り入れことは決して悪いことではないし、心は常に「開国」する必要はあろう。
 しかし言葉も食文化、生活スタイル、思考までも他国に倣ってしまえばその国の独自性、独立した国家としての必然性、存在理由もなくってしまう。かつてのハワイ王国や琉球国ではないが、植民地化しいつしか属国と化し、やがて国家として消滅していく。

 自分はどこそこの右派の論客に与する者ではないし、生涯サヨクの側に身を置き、現憲法を擁護する立場は変わらないが、いったい日本人とは何か、そのアイディンティティはどこにあるのかよく考える。
 米国のように他民族、多種文化の寄せ集めの国ならミックスサラダ、もしくはちゃんぽんになった文化でもかまわないし理解もできよう。しかし島国として独自の言語と文化を有史来続けてきた国家として今のあり方はかなりおかしいと思える。それは明治以降の欧米化であり、戦後の米国化であり、それもまた全世界的傾向だと思わなくもないが、あまりにも日本文化はないがしろにされている。

 日本には独自の素晴らしい伝統文化と固有の思想があった。謙虚であり礼節を美徳とし清貧を良しとしてきたはずだった。山や河、八百万の神を大切にしワビサビの心を持ちモッタイナイと物を慈しんできた。そして繊細かつ多様な語彙の言葉、他に類のない素晴らしい日本語を用いてきた。今そうした古来からの伝統文化が危機に瀕している。

 ならばどうすべきか。自分は某論客女史のように自主憲法を制定し教育として愛国心を幼少の頃より叩き込むことが解決策だとは考えない。また外国人を排斥し日本人による強国ニッポンを目指して国民を束ねることにも賛成しない。
 政治や行政が今とことんダメな体たらくの時代、上から目線で政治家たちに何かやってもらおうとか期待すること自体無駄だと思う。また利潤追求を第一義とする大企業に文化や伝統は任せられないし頼るべきではない。教育も大事だと思うが、学校や教師任せにすべきでもない。

 今、まずは国民一人ひとりが市民レベル、個人レベルで生きていくこととはどういうことなのか、人生を考え真摯に向き合うことではないか。3.11の大震災は、多くの死者、被災者を生んだだけでなく原発事故をも引き起こし、これまでの生活スタイル、日常習慣を見直し再考することをもたらした。関西圏はどうか知らないが、多くの日本人の意識に大きな変化を与えたことは間違いない。
 生活とは何か、家族とは何か、郷土とは何か、いちばん大切にすべきことは何なのか、多くの人が自ら問うたはずだ。自分もまた人の命、家も何もかも全てが儚いものだと思い知った。だからこそ、物ではなく、心、人々の思いを大切にして残すこと、聴き語り継ぐこと、後の世に書き伝えることが肝要だと気づいた。

 ここにはこうした人たちが暮らしてこうした生活があったと次世代に伝えていくこと。一瞬のうちに消えてしまったものを永遠にしていくこと。それが人々、程度の差はあろうと大震災に罹災した人々、日本人のすべきことだと考えた。
 思えば、原爆を二発も落とされた世界で唯一の被爆国が、今また大きな原発事故を起こして放射能を撒き散らし世界に非難されている。日本人ができることはこの教訓を今度こそ活かして、原発ゼロの戦争のための米軍基地もなくし平和憲法を誇る真に愛国心の持てる日本にすることだと夢想した。