映画「愛」とフォークソング「愛」 ― 2013年04月14日 21時06分28秒
★愛こそ全てであるわけだが・・・
愛だけが人を動かし世界を変えていく。そのことに些かも迷いはない。
ただ問題は自分にはその「愛」が不足していることで、古本「愛」はもとより最近では音楽愛、それもフォークソングについての「愛」も何だか嘘くさく思え自信がなくなってきた。となるといったいオレは何を愛しているのだろう。自己愛は誰だって持っている。しかしそれだけでは人は生きていけやしない。対象として何を愛するか、愛していくかだ。
今日は自らが司会し企画した無頼庵フォークソング講座の日。一応2ないし3名の参加者はいるはずなのだが、常時来てくれる2名のうち一人が今日は体調悪いと開始直前連絡が入り、けっきょく一名だけ。なので話を先に進めるわけにもいかず、ギターの練習などはやって後は、撮りためたフォーシンガー達のライブビデオ映像などをテレビで眺めて懇親会もなしでお帰りいただいた。それもこれも自分の不徳の致すところである。
三留まゆみさんの「映画塾」のほうは、回を重ねるごとに盛況で、羨ましくも不思議にさえ思う。が、考えてみると、音楽、それも自らも表現できるフォークソングと観る映画は同列におくことも語ることもできないと気づく。つまり、「映画」というものは、最初から愛する対象が決まっていて、存在してあるものなのだ。だから好きなそれを愛し、熱く語ることはできる。そうした同好の士も数多いる。
しかし、自分のやろうとしている「フォークソング」に関してはよほどの研究者のような目的意識がない限り、別に集って語るほどのものではない。人気あるシンガーご自身が語り唄う集いならばそのファンは集まろう。しかし、純粋にフォークソングとその歴史について皆で勉強し直すようなワークショップ、それも無名の講師の企画など人が集まるはずがない。
何故なら、「うた」など誰だって誰でも自ら唄えば良いだけのことで、その表現手段は語り集うことではなく、個人的にもすぐ始められることなのであった。つまり自らが唄い出せば済む話であって、そこが映画という、ある作品を通して皆が語り集うことができる対象とそもそも違うのであった。
宝塚のように、「音楽」でもその対象を強く愛しファンが集い語り合えるものもなくはない。が、フォークソングとはそもそも民衆が自ら実践すべき表現行為なのであって、それは熱く語る「作品」ではなくもっと身近な個々のものであった。人気シンガーならきっとファンの集いとかそんな場があって、たぶん映画と同じく皆で各々その魅力を語るのかもしれない。でもそれはごく稀であり、改めて気づいたことは、音楽=うたとは聴くもの、自らも唄うものであり、映画は、観るもの、かつ語るものなのであった。映画の表現行為とうたの表現行為はそもそもが違っていたのだった。この企画始めてみてわかったことだ。
ゆえにフォークソング講座など人は集まらない。むろん、その根本原因は自分の不徳の致すところ、あらゆる「力」の無さが原因なのはわかっている。だからと言って、幸い一人でも参加者が来てくれるかぎり続けていく。衆寡敵せず、でかまわない。
今の時代は名のあるシンガーが出るフォークコンサートだって客が入らないのである。ならば人は集まらないというのが前提としてやっていく。そのうえで、自分のこの小さな手のうちにもささやかでも「音楽」はある。心に流れるメロディーがある。それを来てくれた方と語り合いたいと願う。
愛だけが人を動かし世界を変えていく。そのことに些かも迷いはない。
ただ問題は自分にはその「愛」が不足していることで、古本「愛」はもとより最近では音楽愛、それもフォークソングについての「愛」も何だか嘘くさく思え自信がなくなってきた。となるといったいオレは何を愛しているのだろう。自己愛は誰だって持っている。しかしそれだけでは人は生きていけやしない。対象として何を愛するか、愛していくかだ。
今日は自らが司会し企画した無頼庵フォークソング講座の日。一応2ないし3名の参加者はいるはずなのだが、常時来てくれる2名のうち一人が今日は体調悪いと開始直前連絡が入り、けっきょく一名だけ。なので話を先に進めるわけにもいかず、ギターの練習などはやって後は、撮りためたフォーシンガー達のライブビデオ映像などをテレビで眺めて懇親会もなしでお帰りいただいた。それもこれも自分の不徳の致すところである。
三留まゆみさんの「映画塾」のほうは、回を重ねるごとに盛況で、羨ましくも不思議にさえ思う。が、考えてみると、音楽、それも自らも表現できるフォークソングと観る映画は同列におくことも語ることもできないと気づく。つまり、「映画」というものは、最初から愛する対象が決まっていて、存在してあるものなのだ。だから好きなそれを愛し、熱く語ることはできる。そうした同好の士も数多いる。
しかし、自分のやろうとしている「フォークソング」に関してはよほどの研究者のような目的意識がない限り、別に集って語るほどのものではない。人気あるシンガーご自身が語り唄う集いならばそのファンは集まろう。しかし、純粋にフォークソングとその歴史について皆で勉強し直すようなワークショップ、それも無名の講師の企画など人が集まるはずがない。
何故なら、「うた」など誰だって誰でも自ら唄えば良いだけのことで、その表現手段は語り集うことではなく、個人的にもすぐ始められることなのであった。つまり自らが唄い出せば済む話であって、そこが映画という、ある作品を通して皆が語り集うことができる対象とそもそも違うのであった。
宝塚のように、「音楽」でもその対象を強く愛しファンが集い語り合えるものもなくはない。が、フォークソングとはそもそも民衆が自ら実践すべき表現行為なのであって、それは熱く語る「作品」ではなくもっと身近な個々のものであった。人気シンガーならきっとファンの集いとかそんな場があって、たぶん映画と同じく皆で各々その魅力を語るのかもしれない。でもそれはごく稀であり、改めて気づいたことは、音楽=うたとは聴くもの、自らも唄うものであり、映画は、観るもの、かつ語るものなのであった。映画の表現行為とうたの表現行為はそもそもが違っていたのだった。この企画始めてみてわかったことだ。
ゆえにフォークソング講座など人は集まらない。むろん、その根本原因は自分の不徳の致すところ、あらゆる「力」の無さが原因なのはわかっている。だからと言って、幸い一人でも参加者が来てくれるかぎり続けていく。衆寡敵せず、でかまわない。
今の時代は名のあるシンガーが出るフォークコンサートだって客が入らないのである。ならば人は集まらないというのが前提としてやっていく。そのうえで、自分のこの小さな手のうちにもささやかでも「音楽」はある。心に流れるメロディーがある。それを来てくれた方と語り合いたいと願う。
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