インターネットはこの「文明」そのものを変えていく・終2013年04月05日 17時28分47秒

★物こそ全てが、モノズキなのである~今もカセットテープ愛。

 繰り返すが、政権が変わろうが、景気が良くなろうが悪くなろうが、文明の流れは旧には戻せない。SLも観光以外に走ることがないように、ひとたび新しいメディアが生まれそれが普及してしまうと旧いものは残れない。
 広い世界には、未開の部族でもないのに現代文明を拒否して、車も電話も水道、電気すらない19世紀的な暮らしを続けている集落と人々がいると聞いたことがあるが、むろんそれで自給自足でき外の世界とは関わらず生きていければ理想だと思うものの自分にはできやしない。
 何しろ生まれたときから現代物質文明にどっぷり漬かり、高度経済成長時代を消費することで通過してきた一家の出として、モノに対する執着心は人一倍だと認ずるし、モノ無しに自分が自分でいられる自信が正直ない。

 禅の語に、吾、唯足るを知る、という名言がある。まさに、少しの物でも満足しそれ以上求めないという心境にならねば人は悟りを得るどころか安らかに死ぬことすらままならないとつくづく思う。人は身一つ、何も持たずに生まれてきて何も持てずに死んでいくのだからどうしてそんなに沢山の物が必要なのだろう。

 頭ではわかっていても、モノとしての実体がごくごく小さくなって、データとしてのみハードディスクやマイクロSDカード、USBメモリーに収まってしまうと物好きは居心地が悪くなる。じっさいにモノとしての実体がないと不安でならない。

 マス坊は、近年、ライブなどの録音は、ICレコーダーを使うようになった。しかし未だちゃんと録れているか不安が常にあるし、だいいちあんな小さな機械の見えない内臓メモリやマイクロSDカードに音が録音されていく仕組みそのものが全く理解できない。つまり目に見えない限り、手にとれない限りそこには実体はない気がしているのだ。それこそがアナログ人間の証だと自分でもつくづく思う。

 思い返せば、中学生の頃、出始めたカセットテープに初めて出会い、そのニューメディアに本当に感激し夢中になった。まさにカセットテープは革命的でありそれまでの音楽環境を画期的に変えてしまった。当時はC-60のテープが1本定価1000円もしたけれど。
 その後、映像も録画できるビデオテープが家庭用に出てきたときも嬉しい驚きであったが、やはり、何より最初のカセットこそ個人が自ら録音も編集も出来る携帯のメディアとして今日の文明の祖であったと思う。

 それまで音楽メディアはラジオ放送とレコードしかなかった。むろんオープンデッキのテープは既に出回っていたが、それは放送局やごくコアなオーディオマニアのためのもので一般的ではなかった。何よりデッキは据え置き型で持ち運びはきかないし、テープの扱いもともかく面倒で持ち運びどころか簡単に貸し借りなどできるモノではなかった。

 それがカセットテープの登場により、またその普及にはラジオ付きの携行できるカセットデッキ、つまりラジカセの登場が大きく、当時の若者は全員、ラジオカセットプレイヤーで、深夜放送を録音したり、好きな娘には、自らセレクトした曲を編集録音したマイカセットをプレゼントしたりとカセットはまさに一世を風靡し大活躍したのである。

 カセットテープの意義というか価値とは、音楽や放送を自ら録音しモノ(カセット)として所有できることにあった。それはビデオテープも同様に、コピー、ダビング、複製文化であって、いっときレンタルレコード店が社会問題となったように、版権を持つ者、歌手らの著作権を侵害しその業界の人たちの生活を脅かす結果となった。しかし、それもまた文明の流れであって、ユーチューブに見るように、もうそれは誰も止められはしない。

 またカセットテープは、ソニーのウォークマンという大ヒット商品に至り、音楽を家庭から街へ野外へと連れ出し、据え置きスピーカーからイヤホーンで聴くものと変えた。カーオーディオも全部8トラからとって変わった。そしてカセットはその後、マイクロカセットテープというさらに小さなテープを生み出し、一部は電話機の留守電機能や会議の録音用に用いられたが、そこでほぼ役割を終えた。※一時期は「エルカセット」という肥大化をはかったモノも出たがすぐに見事失敗したことを知る世代はもういないだろう。

 そしていつしか気がつくと、ウォークマンはカセットテープの旧タイプは姿を消して、内臓のレコーダーだけのIC ウォークマンへと姿を変えて、電車内で若者が聴くのはその類の超小型のプレイヤーばかりとなってしまったのである。もはやカセットテープは国内では作っていないし、売っているのを見かけるのも稀となった。

 確かにそうした内蔵型プレイヤーならばカセットを入れた変えたりする手間なく何千曲も音楽を入れることができる。音楽ソフトの場所ももうとらないしいつでもどこでも持ち運べ、マラソンしながらも聴ける。しかし、自分はそうした携帯プレイヤーは持たないし、生涯使うことはないと思う。何故なら音質は良くてもモノがないものには馴染めないのと使いこなせないだろうからだ。今だって、車に付いているのはカセットデッキであって、長い運転のときにはお気に入りのカセットテープをセレクトして積み込む自分なのである。

 今ではCDだってなくなっていく時代なのだ。思うに、レコードがCDにとって変わられたとき、サイズが小さくなったように、やがてはモノとしての「実体」は不要となる兆しは見えていたのだろう。カセットテープは最後のアナログとして小さくともまだ「物」であった。しかし音楽がデジタル化されてしまえば、全てはデータファイルに過ぎないのだから、もうモノは不要となるのも必然の理であった。

 今、手元のICレコーダーのマイクロSDカードをたまに入れ替えるときがある。録音したライブなどのデータ自体は、パソコンに取り込んであるのだから消したって良いのである。が、パソコンもいつクラッシュするか定かではないので、そのカードも安いものなのでそのまま保存してある。
 しかし、取り出してそのごくごく小さいまさに爪の先ほどのチップを見て本当に不思議でならない。クシャミでもしたら吹き飛んで絶対みつからない。こんな小さなものに何十時間も音が入って記録されているのである。カセットテープのように、目に見えてその走行が確かめられ、それで録音していると安心できた世代としては死ぬまでこうした機器にはどうしても馴染めない。

 目に見えて手にとれるものだけが現実なのだと疑り深いトマスは思ったが自分もまた同感なのである。老いぼれの戯言はこの辺でとりあえず終わりとしておく。