インターネットはこの「文明」そのものを変えていく⑥2013年04月04日 10時22分09秒

マス坊の近所のファミレスPの山桜が満開であった。
★モノとして求められるは「衣食住」関連だけ

 今日、4日は久しぶりに朝からカラッと晴れて強い陽射しが戻り暖かくなった。いや、外にいると汗ばむほどで、マス坊は早くもTシャツ一枚でいる。風は強いが爽やかで気持ちいい。

 さて、前回の続き。思うことなどを書き続けていこう。

 かつて、とある落語の名人の高座噺に、「落語なんて、あってもなくても良いところか、なくてもなくてもちっともかまわないもの」という名言があったと記憶する。確かに、落語に限らず、芸能や芸術、文化全般のものは、生きていくのにどうしても不可欠なものではない。ある意味、ご飯やパンと比べれば「なくてもちっともかまわない」ものだ。
 しかし人生のスパイス役として、常にメインではなくとも副菜として常に必要であり、それがない人生は無味乾燥としたつまらないものであることは言うまでもない。

 しかし、そこに実物としてのモノが必要かというとそれこそなくてもかまわない。CDやレコード、カセット、ビデオから昨今のiPodなどの記録媒体、メディアがなくたって実演、つまり生のライブの場と機会さえあれば芸術や芸能はことたりる。つまり美術や演劇、音楽は自ら足を運べば出会い楽しむことができる。それこそがそもそも芸能、芸術の原点だったと気づく。
 むろん、映画芸術、レコード芸術という記録したもの=作品を機械での「再生」を目的にした芸術も存在するが。

 さておき、モノが物として、実物がないと役立たないものは、結局、「実用品」だけであり、それは何かと考えると「衣食住」のこと、つまり人が生きていくのにどうしても不可欠なものだけだとわかる。具体的には食品、衣類、生活用品、そして家、住居である。それらを入手するためには「お金」というモノが必要なのだが、今の時代果たしてお金はその実物が必要でじっさいに動いているかは甚だ怪しい。お金こそが現物がなくてもその信用取引だけであるようにもないようにも右へ左へ動く。

 そしてインターネットはそうした実用品、日用品の流通さえも変えた。今では、食品、日用雑貨でさえも街の商店で買うのではなく、インターネットで注文する人が多い時代なのである。紙のカタログ雑誌、テレビ通信番組も含めネット通販、通信販売が大流行りで、ネット環境にない老人はともかく若い人こそ家電から衣類までほぼ何でも「通販」で購入してしまう。
 これでは町の小売り商店はやっていけるはずがない。ヨーカドー規模の大スーパーなら週末ごとに大売出しの広告を撒き、一週間分の食材を買いにくる家族を車で迎え入れられる。それならば薄利多売で儲けも出る。他の細々とした不意に必要になったモノなどは、コンビニやドラッグストアチェーンで買えば済む。音楽や本、情報はダウンロードしてモバイル携帯で持ち運ぶ。
 もう町には本屋も雑貨屋も薬屋も酒屋もCDショップも必要ない。せいぜい求められるのは、生鮮食料品、つまり魚屋と八百屋、肉屋それに焼きたてのパン屋ぐらいだろうが、それだってスーパーが一つあれば事足りるのである。今はコンビニだって生鮮食品を扱っている。
 
 今の時代の今の人たちは21世紀、インターネットの普及でこうして生きていく。故山本夏彦翁はこう書いた。「すべては日々新たに、いったん出来上がったものは旧に戻せない」と。
 それは良い悪いではない。残念だけれどそういうシステムができてしまっている。ならば我々はその中でどう生きていくか。あるいはそのシステムをどれだけカスタマイズできるかだ。