それは神の御心にかなっているか2015年01月10日 21時50分14秒

★神は偉大なり、であるが            アクセスランキング: 145位

 天国や地獄も含めて死後の世界があるとか、神に会ったとか神を見たという人はいない。
 むろん、臨死体験的に死後の世界を垣間見てきたと証言する人はいくらでもいる。しかし、その人は死んだ人ではなく、死に損なって生きている人、まだ死んでいない人だから、その人がいくら死後の世界について存在を語ったとしたとしても何の証拠にもならない。
 また、天から神の声を聞いたり、直接神が眼前に現れてその姿を見、声を聞いたという人も古来たくさんいるとされる。が、現代科学ではそれは認められてはいない。つまりSTAP細胞と同じく、発見者がいくらあります!と叫んだとしても科学的に実証されないかぎりその存在は認められはしない。
 が、現代科学的に存在は否定されようとも死後の世界も神の存在もある、いる、と信ずることは可能だし、科学的に証明されないからといってその存在が否定されるわけではない。つまり信ずる者にとってはそれは確かに存在しているわけであり、それこそが信仰であり宗教というものそのものなのである。科学的証明の有無ということのみで信仰や宗教という心を否定することはあってはならない。

 そして今これを記す我であるが、神は確かに存在する、いる、おられると信じている。死後の世界もまたあると考えている。ただ、洗礼も受けずキリストを受け入れず悔い改めもしない者は死後裁きにあいそのままゲヘナ、地獄の業火に焼かれるとは考えていない。
 またキリストを信じ支持する者ではあるが、神はそのキリストと三位一体の唯一のものだとも考えていない。むろんギリシア神話の神々のように、日本神話のように、各自個性持つ八百万の神がいるとはまったく思わない。その存在は唯一のものではあるが、キリストの神でありアッラーの神でもあり、旧約聖書の神ヤハウエでもあると考えている。
 またもし日本の神を統合したとすれば天照大神もそこに連なる。さらにニューエイジ的思想で言ってしまえば、宇宙意思のようなものこそがいつの時代でも世界のどこでもどの民族にとっても「神」であり、彼はこの人類をつくり愛し常に変わらず見守っていてくれている。
 そしてそれゆえに神は様々なメッセージを様々な手段や方法で我々に与えてくれている。キリスト教やイスラムで言うところの各預言者という存在もまたその一つであり、ときに悲惨な天変地異や大事故、飢饉、世界規模の疫病すらも人類に対しての警告であると考えられる。

 こんなことを書くと正しく義ある信仰を持つ方々からはご批判を受けるし、科学的思考に裏打ちされたマルキストたちからもまさに非科学的だと糾弾されるであろう。なぜそう考えるに至ったかはきちんと説明すべき大事なことであり、こんなふうに簡単にサワリというか「結論」だけ書いても誰にも伝わらないと思える。
 しかし人の魂というものは存在するし、よって死後の世界もまたあり、そうした非現実的、非科学的とされる見えない世界を統合し支配するというべきか、まさに総元締めとしての存在は確かにある、おられるのである。

 なぜそう思うか、考えたかを語らねばならないはずだが、それはこの我が人生じたいを父祖の代からも含めて振り返って語らねばならないほどだから簡単には書けない。
 ただ、その存在を常に感じていることと、神に愛されているとは自ら言うべきではないと思うが、幸いにしてこれほどの非道な者でもまだ見捨てられずに生かされているからだとだけ記しておく。自分のような破滅的な者がここまで生き長らえただけでも奇跡であった。こんな罪深い男が他者を殺さず自殺もせず刑務所に入ることなく生きてこられたことだけでも神の愛、慈しみであったのだ。

 そして常に我には様々なメッセージがときに試練という形で届く。情けないことに愚かさ甘さゆえその真意を汲み取れずに結果として失敗や失態という答えしか示せないことも多いが、幸いにして致命的なダメージは回避して頂いている。いつも後になって冷や汗ものだが。
 そして今もこれからも含めて全てのことはまず神の意志であって、基本神の御心にかなうことであれば、どんなことでもかなうしうまくいくと信じている。もちろん最低限のとことんの努力はしたうえで。

 フランスで預言者ムハンマドを侮辱する記事を載せたとしてその新聞社を襲撃し多くの人々の命を奪ったイスラム原理主義?者たちの事件。その行為はまったくのテロであり武力と恐怖で言論と報道の自由を抑圧しようというもので絶対にゆるされない。この事件でイスラムに対する偏見と批判をまた憂う。
 何よりも問いたいのは、ムハンマドもアッラーの神もこうした行為を求め望んでいたのだろうか。そうせよとコーランにあるとは思えない。神は偉大である。偉大故に信ずる者はもっと謙虚に、真に神の御心にかなうよう深く考え神に祈り義のある道、生き方を求めなくてはならないはずだ。どんな宗教でも批判されたとしても一方的に無抵抗の者たちを武器や銃器という暴力で殺害することを是とはしないはずだ。偉大な神はそんな狭量な心の持ち主ではない。それはオウム真理教がそうであったようにカルト集団でありテロ組織でしかなく宗教と信仰の名に値しない。

 残念なことにどの宗教でも信ずる者がその神の御心を曲解して勝手に都合よく解釈してしまい神の名の下に大きな過ちを繰り返して起こす。それはイスラムだけではない。万世一系現人神の名の下にアジア全域を侵略した灰色の国家の時代もあったではないか。

 信仰を持つ者こそもっと謙虚に、常に何をするにせよその行いは神の御心に真にかなっているか自問すべきではないか。そしてあえて言う。ひとは信仰を持つべきなのである。自分だけで生きていると思うことこそ大きな驕り間違いなのである。生きているのではない。生かされているのだ。