「物」に価値とこだわりを持たない時代に・後 ― 2015年03月05日 20時02分16秒
★「手作り」こそが原点、だから価値をもつ アクセスランキング: 133位
進化や進化論との関係はともかく、文明というのは留まることをしらない。そこには人間の知的かつ経済的欲望があるからだが、利便性と経済性を求めて日進月歩、数々の発明や改良が繰り返された。
産業革命後の科学の発達は、まさに驚異のスピードで、人間には死の克服以外にできないことは何もないかのように、科学万能の世の中となった。
宇宙の果てから地の底、人体の奥の奥まで、今は何でもわかってきたし、コンピュータのおかげで、世界中と一瞬にして繋がることができるようになった。
機械も改良に改良を重ねて、より軽薄短小、しかも価格は下がり機能は上がって誰にでも手に入りやすいものとなった。
昭和30年代に生まれて、初めて家に来たブラウン管テレビで、力道山のプロレスを観た世代としては、今、掌中のスマホ画面の中で、AKBのビデオクリップがタダで観られるとは隔世の感としか言いようがない。この半世紀の間に、人類はここまで文明を発達させたのである。
昔、カッパブックスの「鉄腕アトム」の漫画を読んで、21世紀の未来世界に憧れたが、そのかつて夢見た「未来」はアトムのような人型ロボットが家庭にはまだ来てないことと空をマイカーのように飛び交う民間用小型飛行移動システム以外はほぼすべて実現したのではないか。
人型ロボットだって今はあちこちのイベントで話したり踊ったり活躍し始めているし、無人の小型飛行機ならば世界中を怪しく飛び交っているではないか。
いくつもの大きな戦争や災害は世界中で起こったけれど、人類はそれを克服して先進国中心に大きな繁栄を迎えた。この国だって、焼け跡からの戦後復興と今日の大都市の隆盛は昔年を知る者にとっては夢のように思えただ感嘆するしかない。
大量生産と大量消費、世界の貿易のグローバル化、物流革命、モノはより安く早く、品質と性能の良いものが大量に作れるようになった。そして国境をまたいで流通するようになった。
となると当然、価格はどんどん下がる。資本主義の世界の中で、販売競争に勝ち抜くためにはよりさらに安く、品質は良くして消費者のニーズに応えなくてはならない。
結果として市場に出回るものはコスト削減を反映した低価格のものと高級ブランド的高価格のものとに二分されていく。大多数である庶民に向けて「安物」が市場に町に、家庭に氾濫していく。
モノがいっぱいできてもキャパシティ、地球の大きさは変わらないところに、人口も爆発的に増大すれば、各家庭の家中モノであふれかえるようになってしまう。
売る側、つくる側は消費者に買ってもらわないことには商売が成り立たないから、次々と目新しい新商品を出しては莫大な宣伝費をかけて必死に売ろうと血眼となる。
こうした文明では、アメリカ社会に顕著にみられるように、全ての物が基本的に使い捨てとなる。再利用やリサイクルは考えない。使ったら即ゴミ箱行き。機械ならば調子が悪くなれば修理などせずに捨てて新製品を電話やネットでとりよせる。いや、壊れてなくても飽きたり邪魔になれば何から何までゴミである。
「モッタイナイ」の正反対の生き方が、21世紀先進国の主流なのはある意味当然のことであろう。金と資源が潤沢にある国、それが可能な豊かな家庭ならば、そのライフスタイルは一概に否定できない。
限りある地球資源とか、第三世界ではその日の食餌に事欠く貧困層は増大の一途であるとか言っても、金持ちたちにとっては対岸の火事以前に、まったくの別世界の話であろう。
ただ、こうした大量生産と大量消費の、モノを使い捨てにしていく文明は未来永劫続きはしない。金さえあれば何でもでき、何でもかなう、何でもゆるされるという発想は資本主義のもので、そもそもその思想じたい今や限界が見え始めている。制度疲労を起こしている。
むろんこれからだって企業はより安くモノを大量に作り大量に売って儲けようと目論むだろう。すぐに使い捨てとなる安物も大量に出回るだろう。
しかし、だからこそ、大量に出回らないもの、値段は結果として高くなっても本当に良い、安全な信頼できるものは価値を持つに違いない。それはどういうものかと言えば、つまるところ「手作り」のものとなっていく。
都市部に住む者は米野菜は自らは作れはしない。しかし、安かろう悪かろうではない、生産者の顔が見えるもので、自ら手料理を作れば、中国製の何が入っているか怪しい冷凍食品よりは安心でき満足もいく。
むろんそんな暇と金が誰にでもあるわけではないことも現実。しかしこうした時代だからこそ、ますます手作りということ、ハンドメイドということにスポットがあたり、その行為が価値を持つ。その流れはこれから鮮明になっていくことは間違いない。
ロハスとかスローライフとかあれこれ唱える人たちがいるが、それを趣味嗜好とするのではなく、来るべき大震災や有事に備えるためにも「手作り」能力を人は高めておかねばならないと信ずる。
このところ自分に問う。いったい自分は何をどこまでできるのか。作れるのかと。金がないということもある。しかし、できるだけ多くのことを自分で自らできないことにはもうどうしようもなくなってきたのだ。
進化や進化論との関係はともかく、文明というのは留まることをしらない。そこには人間の知的かつ経済的欲望があるからだが、利便性と経済性を求めて日進月歩、数々の発明や改良が繰り返された。
産業革命後の科学の発達は、まさに驚異のスピードで、人間には死の克服以外にできないことは何もないかのように、科学万能の世の中となった。
宇宙の果てから地の底、人体の奥の奥まで、今は何でもわかってきたし、コンピュータのおかげで、世界中と一瞬にして繋がることができるようになった。
機械も改良に改良を重ねて、より軽薄短小、しかも価格は下がり機能は上がって誰にでも手に入りやすいものとなった。
昭和30年代に生まれて、初めて家に来たブラウン管テレビで、力道山のプロレスを観た世代としては、今、掌中のスマホ画面の中で、AKBのビデオクリップがタダで観られるとは隔世の感としか言いようがない。この半世紀の間に、人類はここまで文明を発達させたのである。
昔、カッパブックスの「鉄腕アトム」の漫画を読んで、21世紀の未来世界に憧れたが、そのかつて夢見た「未来」はアトムのような人型ロボットが家庭にはまだ来てないことと空をマイカーのように飛び交う民間用小型飛行移動システム以外はほぼすべて実現したのではないか。
人型ロボットだって今はあちこちのイベントで話したり踊ったり活躍し始めているし、無人の小型飛行機ならば世界中を怪しく飛び交っているではないか。
いくつもの大きな戦争や災害は世界中で起こったけれど、人類はそれを克服して先進国中心に大きな繁栄を迎えた。この国だって、焼け跡からの戦後復興と今日の大都市の隆盛は昔年を知る者にとっては夢のように思えただ感嘆するしかない。
大量生産と大量消費、世界の貿易のグローバル化、物流革命、モノはより安く早く、品質と性能の良いものが大量に作れるようになった。そして国境をまたいで流通するようになった。
となると当然、価格はどんどん下がる。資本主義の世界の中で、販売競争に勝ち抜くためにはよりさらに安く、品質は良くして消費者のニーズに応えなくてはならない。
結果として市場に出回るものはコスト削減を反映した低価格のものと高級ブランド的高価格のものとに二分されていく。大多数である庶民に向けて「安物」が市場に町に、家庭に氾濫していく。
モノがいっぱいできてもキャパシティ、地球の大きさは変わらないところに、人口も爆発的に増大すれば、各家庭の家中モノであふれかえるようになってしまう。
売る側、つくる側は消費者に買ってもらわないことには商売が成り立たないから、次々と目新しい新商品を出しては莫大な宣伝費をかけて必死に売ろうと血眼となる。
こうした文明では、アメリカ社会に顕著にみられるように、全ての物が基本的に使い捨てとなる。再利用やリサイクルは考えない。使ったら即ゴミ箱行き。機械ならば調子が悪くなれば修理などせずに捨てて新製品を電話やネットでとりよせる。いや、壊れてなくても飽きたり邪魔になれば何から何までゴミである。
「モッタイナイ」の正反対の生き方が、21世紀先進国の主流なのはある意味当然のことであろう。金と資源が潤沢にある国、それが可能な豊かな家庭ならば、そのライフスタイルは一概に否定できない。
限りある地球資源とか、第三世界ではその日の食餌に事欠く貧困層は増大の一途であるとか言っても、金持ちたちにとっては対岸の火事以前に、まったくの別世界の話であろう。
ただ、こうした大量生産と大量消費の、モノを使い捨てにしていく文明は未来永劫続きはしない。金さえあれば何でもでき、何でもかなう、何でもゆるされるという発想は資本主義のもので、そもそもその思想じたい今や限界が見え始めている。制度疲労を起こしている。
むろんこれからだって企業はより安くモノを大量に作り大量に売って儲けようと目論むだろう。すぐに使い捨てとなる安物も大量に出回るだろう。
しかし、だからこそ、大量に出回らないもの、値段は結果として高くなっても本当に良い、安全な信頼できるものは価値を持つに違いない。それはどういうものかと言えば、つまるところ「手作り」のものとなっていく。
都市部に住む者は米野菜は自らは作れはしない。しかし、安かろう悪かろうではない、生産者の顔が見えるもので、自ら手料理を作れば、中国製の何が入っているか怪しい冷凍食品よりは安心でき満足もいく。
むろんそんな暇と金が誰にでもあるわけではないことも現実。しかしこうした時代だからこそ、ますます手作りということ、ハンドメイドということにスポットがあたり、その行為が価値を持つ。その流れはこれから鮮明になっていくことは間違いない。
ロハスとかスローライフとかあれこれ唱える人たちがいるが、それを趣味嗜好とするのではなく、来るべき大震災や有事に備えるためにも「手作り」能力を人は高めておかねばならないと信ずる。
このところ自分に問う。いったい自分は何をどこまでできるのか。作れるのかと。金がないということもある。しかし、できるだけ多くのことを自分で自らできないことにはもうどうしようもなくなってきたのだ。
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