母は本日退院できた、が・・・ ― 2016年02月06日 22時14分39秒
★抗癌剤はもうこりごりか アクセスランキング: 118位
まず報告したい。おかげさまで、我マス坊の母は本日6日、退院となった。先週の土曜日の昼前、かかりつけの立川の総合病院に連れて行ったら即入院となってしまい、それからちょうど一週間であった。いろいろご心配おかけしたが、ともかく退院でき今ほっとしている。有難いことであった。
実は入院させてもなかなか熱が下がらず、ずっと抗生剤を朝晩一時間点滴で体内に投与して、この数日ようやく平熱となって落ち着いてきたので今日退院できた次第。
担当医としては、もう少しゆっくりして月曜までいたらと勧めていたらしいが、入院している当人よりも我のほうがもう限界となって退院がゆるされるなら一日でも早くと急かしたのだ。
そもそも今回の発熱、当初は風邪かと思っていたのだが、家で薬呑んでひたすら寝ていてもなかなか熱が下がらず、仕方なく病院に行ったら、白血球の数値がかなりダウンしていて、こりゃ危ないとすぐさま入院となった。そして一週間で本日やっと退院となった。その経緯をもう一度記しておく。
癌が再発し、肥大を抑えるため1月18日に、立川のかかりつけ病院に入院し、翌日19日、一日かけて抗癌剤を点滴で体に入れた。そして20日に退院した。一週間後の27日午前に、経過を確認すべく行ってまた採血し数値を調べた。が、そのときは白血球の減少は見られず、医師の話だと今回は通常の六割の分量しか入れなかった、念のため2月1日に、もう一度来て数値を確認するということで帰された。
が、あろうことかその日の夕方から急に体調崩し、熱が39度近くまで上がった。家にあった病院から前に出してもらった風邪薬呑ませて寝かせたら朝にはいったん熱は下がった。が、午後~夕方になってくると熱はまた出て38度台を前後してしまう。なかなか治らない。そんな日が三日続き、土曜も朝から37度5分あったので、週末でも午前はまだ病院はやっていたので、慌てて近くのかかりつけ病院へ車で連れて行った。
そこで血液採って数値を調べたら白血球の数値ががくんと下がっている。このままだと危険だとすぐさま紹介状を書いてもらい、抗癌剤をやった立川の総合病院に行ったら、幸い母の癌の担当医もいてすぐ入院となってしまった。
我としては、熱さえ下がればすぐ退院できるだろうと気軽に考えていたのだが、どうやら風邪やインフルエンザではなく体内、腸に細菌が入り?炎症を起こしているらしいと、かなり高額の強い抗生物質を連日投与して熱を下げることを第一に治療が続いた。
当人は意識もしっかりあり、口から食事も自らとれていたから、入院当初の点滴による栄養補給は数日で終わったが、その後も朝晩10時から一時間、抗生剤を続けて入れて、ようやく一昨日の夜から熱も平常に下がって来て退院の目安がついてきた。
それでも今日も朝6時から採血して、また数値を調べてやっと退院の許可が下りたという次第であった。しかも退院間際まで、抗生剤をまた一時間投与されて、あと一週間錠剤のその薬を持たされて、来週の水曜にまた再度行って採血して確認するということであった。
いろいろ有難いことであるが、改めて今回はかなり危険な状態であったのかと今にして思う。腹部のレントゲンでは、腹膜炎も起こしかけていたとも後で言われた。
そもそもその発熱が何によるものなのか定かではなく、単なる風邪とか庭木伐採、剪定作業に立ち会った疲労感によるものなのかも判断できないが、担当医は抗癌剤の副作用だろうと考えているようで、もう抗癌剤は今後中止にすると退院のときに言われてしまった。
となると、他の治療法は現段階ではないわけで、癌がさらに肥大していくとすればさて、では今後どうしたものかという悩みが出てくる。
しかし、先のことはともかく、今は何とか無事?に退院となったことだけでも有難いことだと感謝せねばなるまい。じっさいのところ、風邪だと思い込み、あのまま週明け月曜まで家で風邪薬だけ呑ませていたら、たぶんさらに熱は上がり急患で病院に運ばれても手遅れとなっていた可能性も高い。土曜日に立川に行き、幸い担当医とも会えたから適切な治療が受けられたわけで、相変わらず運が良いと言うべきか、ギリギリセーフであった。
昔の人はいざしらず、今の日本人は、病院で生まれ病院で死ぬ。我の周囲の同世代の者を見回しても、その親たちで既に亡くなった人は、風邪程度で家族も当人も気軽に入院したはずなのに、入院中に感染症罹ったり、急に肺炎併発して容体急変したりと、思いがけず不帰の人となってしまう。
今回も抗癌剤をやったということもあったが、まさかこんなふうに一週間も熱が下がらず入院するはめとなるとは思いもしなかった。その副作用は吐き気とかメマイ程度のものかと予想していたのだが、母がベテラン看護師から聞いた話だと、このように39度には至らない程度の高熱が続くことはままあるらしい。担当医からも今後も37度台でもまた熱が再発したらすぐさま来るようにと釘を刺されてしまった。
今の気持ちとしては、癌治療のためには、再度もう一度は抗癌剤投与もやってみる価値はあるかとも思うものの、やはり高齢であることと、六割がたの分量でこんなふうな副作用が出るのだとしたら、おっかなくて躊躇うのが筋かとも考えてしまう。
年寄りにとって、入院すると生きて退院できないこともままあるのである。今回は幸い「退院」できたが、これからは覚悟のうえで入院させねばならないと知った。
それと・・・これは書くべきか迷うが、母が入院して不在となると、さらに高齢の認知症の父と我、男二人だけの生活はとても維持できないことを今回痛感した。父のボケが母がいないと急激に進み、息子一人だけでは介助不可能だと思い至った。ともかくうっかり目が離せない。
彼の妻がいないと不安からなのか、あちこちにトンチンカンな電話をかけたり、早朝寒い中起きだして庭先で作業始めたり、何度でも同じ質問を執拗に繰り返してきたり、些細なことで怒り暴れたりと、それにこちらもキレて悶着、騒動が絶えない事態が多発して精神的にこちらまで疲弊してしまった。そんなこんなで夜になると頭痛が激しくこの一週間、病院通いと家事に追われて自らのことは何一つできなかった。
何とかこの一週間で母が戻って来たので、父の発狂的ボケ騒動は収まったが、一週間がぎりぎり限界で、もしこのまま母が不在となれば、父を息子が殺すか、さもなければ父は施設に預けるしか対処のしようがない。
今さらながら、母の存在の大きさと、何とか我が家は老いた父と母、それに初老の息子の三人が揃っているからぎりぎり維持可能なのだと深く思い知った。その一人でも欠ければこの家は成り立たない。
いずれにせよ、もう母の熱は上がらないこと、減少した白血球が戻ることを祈り期待するしかないし、それは可能だと今は思うものの、今回の一件で我が家は新たな段階に入ったと今思わざるえない。
辛酸佳境に入ったとは考えないが、癌抱えた病身の母とアクティブ多動性認知症の父を二人だけにして、息子一人で山梨へ何泊も出かけたり家を空けることはもうできないかもしれない。
せいぜい晩飯の支度だけしてから、夜から近場のライブに出かける程度は可能だろうが、老親二人だけにして、つまり母一人に父を頼んで長く家を空けることは困難となった。まあ、それもこれも当然の帰結であるけれど。老いはさらに進みさらにすべてが困難となっていくのも仕方ないことなのだ。
こいつぁ、春から縁起がいいわ~い、という歌舞伎の見切りがあるが、今の気分は、こいつぁ、春から憂鬱だわ~い、であろうか。
まあ、今晩は、ともかく母が帰って来たので、父も犬猫たちもそして我も一家全員が喜び安心し枕高く眠れるであろう。汝、明日のことはまた明日煩えと聖書にはある。今晩は何も考えず退院できた喜びを味わいたい。
外は冷たい雨が降り続いている。
まず報告したい。おかげさまで、我マス坊の母は本日6日、退院となった。先週の土曜日の昼前、かかりつけの立川の総合病院に連れて行ったら即入院となってしまい、それからちょうど一週間であった。いろいろご心配おかけしたが、ともかく退院でき今ほっとしている。有難いことであった。
実は入院させてもなかなか熱が下がらず、ずっと抗生剤を朝晩一時間点滴で体内に投与して、この数日ようやく平熱となって落ち着いてきたので今日退院できた次第。
担当医としては、もう少しゆっくりして月曜までいたらと勧めていたらしいが、入院している当人よりも我のほうがもう限界となって退院がゆるされるなら一日でも早くと急かしたのだ。
そもそも今回の発熱、当初は風邪かと思っていたのだが、家で薬呑んでひたすら寝ていてもなかなか熱が下がらず、仕方なく病院に行ったら、白血球の数値がかなりダウンしていて、こりゃ危ないとすぐさま入院となった。そして一週間で本日やっと退院となった。その経緯をもう一度記しておく。
癌が再発し、肥大を抑えるため1月18日に、立川のかかりつけ病院に入院し、翌日19日、一日かけて抗癌剤を点滴で体に入れた。そして20日に退院した。一週間後の27日午前に、経過を確認すべく行ってまた採血し数値を調べた。が、そのときは白血球の減少は見られず、医師の話だと今回は通常の六割の分量しか入れなかった、念のため2月1日に、もう一度来て数値を確認するということで帰された。
が、あろうことかその日の夕方から急に体調崩し、熱が39度近くまで上がった。家にあった病院から前に出してもらった風邪薬呑ませて寝かせたら朝にはいったん熱は下がった。が、午後~夕方になってくると熱はまた出て38度台を前後してしまう。なかなか治らない。そんな日が三日続き、土曜も朝から37度5分あったので、週末でも午前はまだ病院はやっていたので、慌てて近くのかかりつけ病院へ車で連れて行った。
そこで血液採って数値を調べたら白血球の数値ががくんと下がっている。このままだと危険だとすぐさま紹介状を書いてもらい、抗癌剤をやった立川の総合病院に行ったら、幸い母の癌の担当医もいてすぐ入院となってしまった。
我としては、熱さえ下がればすぐ退院できるだろうと気軽に考えていたのだが、どうやら風邪やインフルエンザではなく体内、腸に細菌が入り?炎症を起こしているらしいと、かなり高額の強い抗生物質を連日投与して熱を下げることを第一に治療が続いた。
当人は意識もしっかりあり、口から食事も自らとれていたから、入院当初の点滴による栄養補給は数日で終わったが、その後も朝晩10時から一時間、抗生剤を続けて入れて、ようやく一昨日の夜から熱も平常に下がって来て退院の目安がついてきた。
それでも今日も朝6時から採血して、また数値を調べてやっと退院の許可が下りたという次第であった。しかも退院間際まで、抗生剤をまた一時間投与されて、あと一週間錠剤のその薬を持たされて、来週の水曜にまた再度行って採血して確認するということであった。
いろいろ有難いことであるが、改めて今回はかなり危険な状態であったのかと今にして思う。腹部のレントゲンでは、腹膜炎も起こしかけていたとも後で言われた。
そもそもその発熱が何によるものなのか定かではなく、単なる風邪とか庭木伐採、剪定作業に立ち会った疲労感によるものなのかも判断できないが、担当医は抗癌剤の副作用だろうと考えているようで、もう抗癌剤は今後中止にすると退院のときに言われてしまった。
となると、他の治療法は現段階ではないわけで、癌がさらに肥大していくとすればさて、では今後どうしたものかという悩みが出てくる。
しかし、先のことはともかく、今は何とか無事?に退院となったことだけでも有難いことだと感謝せねばなるまい。じっさいのところ、風邪だと思い込み、あのまま週明け月曜まで家で風邪薬だけ呑ませていたら、たぶんさらに熱は上がり急患で病院に運ばれても手遅れとなっていた可能性も高い。土曜日に立川に行き、幸い担当医とも会えたから適切な治療が受けられたわけで、相変わらず運が良いと言うべきか、ギリギリセーフであった。
昔の人はいざしらず、今の日本人は、病院で生まれ病院で死ぬ。我の周囲の同世代の者を見回しても、その親たちで既に亡くなった人は、風邪程度で家族も当人も気軽に入院したはずなのに、入院中に感染症罹ったり、急に肺炎併発して容体急変したりと、思いがけず不帰の人となってしまう。
今回も抗癌剤をやったということもあったが、まさかこんなふうに一週間も熱が下がらず入院するはめとなるとは思いもしなかった。その副作用は吐き気とかメマイ程度のものかと予想していたのだが、母がベテラン看護師から聞いた話だと、このように39度には至らない程度の高熱が続くことはままあるらしい。担当医からも今後も37度台でもまた熱が再発したらすぐさま来るようにと釘を刺されてしまった。
今の気持ちとしては、癌治療のためには、再度もう一度は抗癌剤投与もやってみる価値はあるかとも思うものの、やはり高齢であることと、六割がたの分量でこんなふうな副作用が出るのだとしたら、おっかなくて躊躇うのが筋かとも考えてしまう。
年寄りにとって、入院すると生きて退院できないこともままあるのである。今回は幸い「退院」できたが、これからは覚悟のうえで入院させねばならないと知った。
それと・・・これは書くべきか迷うが、母が入院して不在となると、さらに高齢の認知症の父と我、男二人だけの生活はとても維持できないことを今回痛感した。父のボケが母がいないと急激に進み、息子一人だけでは介助不可能だと思い至った。ともかくうっかり目が離せない。
彼の妻がいないと不安からなのか、あちこちにトンチンカンな電話をかけたり、早朝寒い中起きだして庭先で作業始めたり、何度でも同じ質問を執拗に繰り返してきたり、些細なことで怒り暴れたりと、それにこちらもキレて悶着、騒動が絶えない事態が多発して精神的にこちらまで疲弊してしまった。そんなこんなで夜になると頭痛が激しくこの一週間、病院通いと家事に追われて自らのことは何一つできなかった。
何とかこの一週間で母が戻って来たので、父の発狂的ボケ騒動は収まったが、一週間がぎりぎり限界で、もしこのまま母が不在となれば、父を息子が殺すか、さもなければ父は施設に預けるしか対処のしようがない。
今さらながら、母の存在の大きさと、何とか我が家は老いた父と母、それに初老の息子の三人が揃っているからぎりぎり維持可能なのだと深く思い知った。その一人でも欠ければこの家は成り立たない。
いずれにせよ、もう母の熱は上がらないこと、減少した白血球が戻ることを祈り期待するしかないし、それは可能だと今は思うものの、今回の一件で我が家は新たな段階に入ったと今思わざるえない。
辛酸佳境に入ったとは考えないが、癌抱えた病身の母とアクティブ多動性認知症の父を二人だけにして、息子一人で山梨へ何泊も出かけたり家を空けることはもうできないかもしれない。
せいぜい晩飯の支度だけしてから、夜から近場のライブに出かける程度は可能だろうが、老親二人だけにして、つまり母一人に父を頼んで長く家を空けることは困難となった。まあ、それもこれも当然の帰結であるけれど。老いはさらに進みさらにすべてが困難となっていくのも仕方ないことなのだ。
こいつぁ、春から縁起がいいわ~い、という歌舞伎の見切りがあるが、今の気分は、こいつぁ、春から憂鬱だわ~い、であろうか。
まあ、今晩は、ともかく母が帰って来たので、父も犬猫たちもそして我も一家全員が喜び安心し枕高く眠れるであろう。汝、明日のことはまた明日煩えと聖書にはある。今晩は何も考えず退院できた喜びを味わいたい。
外は冷たい雨が降り続いている。
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