これからのこと2016年11月04日 07時24分37秒

★少しづつでも我が人生を再構築させていく

 母が突然死んで間もなく二か月となる。この間実に慌ただしくともかく忙しかった。
 我が24時間介護していた母がいなくなったのだから、もう時間は自由にとれるかと思っていたら、事態は全くそうならず、いろいろ諸般の死後の事務的手続きに追われ、ご香典など頂いた方へのお返し作業などもあったうえ、父もまた認知症が一気に進みさらに手がかかるようになってしまい心身さらに疲弊した。母がいなくなっても相変わらず身動き取れないのは全く変わらない。
 まだ保険や銀行口座の「相続」などの手続きはいくつか残っているが、母の交友関係や親戚などに対しての諸連絡、香典などのお返しはほぼ終わりが見えて来たのでやっと気持ちは一段落である。
 父も新たなデイケアが見つかり、土日中心に「お泊り」も頼めることになったので、ようやくまた音楽イベントなどに関わること、集会も含めてそれに出かけることができるものと思う。やれやれだ。

 それにしてもつい先日までハローウィンで街はバカ騒ぎしていたと思ったらもう早くもスーパーではクリスマス商戦、お歳暮の賑いである。そう、気がつけばもう11月なのだ。今年も残すところもう二か月もない。時の経つ速さに驚かされる。
 今年、母が死んだ2016年という年は、我は生涯忘れないだろう。先に「突然」死んだと書いた。じっさいは末期癌で余命僅かと宣告されていたのだからちっとも突然でもなかった。しかし、我の気持ちとしては、そう簡単に本当に、母が死んでしまうとは全く考えてもなかったし、やはり60年もずっと傍らに、離れていた時も常に「存在」していた人が消えて、この世からいなくなってしまったという現実はまだまだとても信じられない。ちっとも受け入れられていない。長い覚めない夢を今も見ているような気がする。
 だが、現実の話、この世に残っていた母の唯一の肉体、焼かれた骨は、町田の我が墓所の墓石の下に我の祖父母たちと共に収めてしまったし、にこやかに微笑む遺影はあっても、もはやこの家のどこにも母はいないし、二度と帰ってこないし会えないのである。
 そしてその現実を踏まえて、呆けて手のかかる老いた父とアラ還の息子は、これからもあまり仲の良くない二人だけでこの家で生活して行かねばならない。いったいどうしたもんだろう。母のいない、妻のいない人生を。

 これまでは母と父と老いても両親健在という想定で、我は我がこと、世間は趣味道楽と揶揄されるようなことを好き勝手、自由気ままにやってきた。親の家で暮らしていたから、恥ずかしい話、「生活苦」というのは、本質的には感じていなかった。この歳で親の脛齧るニートだとは自認はしないが、本来は真剣に働いて家に金を入れるべきところ、親たちの世話する名目でそれは免除され、ネット古書店などで稼いだ僅かな収入はそのまま道楽で散財してきていた。
 家のこと、様々な支払いや手続き、税の申告など一番根幹の大事なことは、全て母に任せて、我は単純労働的家事だけに専念してきた。すべては母が生きてこの家にいてこそ、そうした家計運営システムは成り立ち得た。
 今、母がいなくなり、環境は一変して、ならばこれからどういうシステムでこの家を維持していくか、我はきちんとどこから収入を得ていくかようやく考える時間もできてきた。そして家計管理も全て担当してみて、生活というのがこれほど大変で面倒なものかと痛感している。母が死んで母の分の年金は消滅したので入る金より出る金のほうが多い。生活苦を今になって噛みしめている。
 認知症かつ、大腿骨骨折が完治せず、今も杖と介助なしには自力歩行が困難な92歳の父を我一人で抱えてしまえば、たとえバイトでも外に勤めに出るのは難しい。父がいると何しろ目と手が離せない。デイケアなどの通所サービスでは、こちらの時間も制約されてしまう。

 もしバリバリの会社員ならば、おそらくこうした事態には、もはや会社は辞めざるえないわけで、そうしない限り父を特養などの介護施設に入れるしかすべはない。お金はかかってもそうした介護専門施設に手に余る老親を預けてしまえば、たまの休みに見舞いに行けば良いだけで子は自らの仕事、己の人生に専念できる。
 ならば父の年金は全て特養につぎ込んで、我はこの歳では難しいのは承知のうえ、「就職」して自ら我が生活分は稼いでいこうかと、母の死後この間ずっと考えていた。真に新しい我が人生、面倒な親のいないマイ人生を始めたいと。

 しかし、父はもう92歳なのである。どんなに元気な人でもまず百までは普通は生きられない。ましてこんなヨタヨタかつ、だいぶ呆けてきた人が生きたとしてもあと数年であろう。まあ、父は母の分までも頑張って生きると、会う人に励まされる都度そう答えているが、本当に先のことは定かでない。
 これからさらにボケも進めば体もさらに弱り、ふらつき転んだりしてあっけなく事故死するかもしれないし、また誤嚥から肺炎に至り、最後は病院任せで送ることにもなろうかと考える。
 場合によっては意外としぶとく持ち直して百近くまで生きてしまうかもしれない。
 ならば、父と暮らせる日々、先の事が見えないからこそ、ともかくできるだけ長くいっしょにこの家でやっていくべきではないのか。むろんのことものすごく大変だと思う。今だって、その世話に疲弊して来ている。息子はキレまくりである。
 だからこそうまくデイサービスなどを利用して、父と息子が24時間顔突き合わせて過ごさないような日をうまく生み出していく。

 母の時も思ったが、我に妻子あらばともかくも、我一人だけで誰かの面倒を始終看ることは絶対できやしない。母の時は末期癌で、自宅で最期を、と家族で願ったから我はともかくやったしやるしかなかった。 
 しかし、父のことはまだ先が何も出ていないのだ。妻を先に喪った男はすぐ後を追ってあっけなく死んでしまうとよく聞かされる。ならば父もまたこの先一年がまず勝負かもしれない。
 来年の母の命日9月8日まで、入院などもせず父が無事にこの家で我、息子と暮らせたらばたぶんこの先もあと数年は生きるものと想定してもよいかと思える。
 むろんかなりの高齢、超老人なのだからいつ何が起きてもちっともおかしくない。朝は元気でも夜には倒れたり、前の晩は何ともなくても翌朝はもう目覚めないことだって予測もしておかねばならないだろう。

 というわけで、母が死んだからこれまで我がやってきたこと、活動がまたそのまま再開できるわけもなく、父という重荷を背負いつつうまく我が人生をもやっていくにはどうしたら良いか、再構成、再構築せねばならない。どうあがいても前と同じ生活には戻れない。

 漱石の句に、菫程な小さき人に生まれたし というのがある。明治の男としては珍しく乙女チックな、やや気恥ずかしい感もある俳句だが、今の我もまた実にそう思う。強く共感する。
 いつの間にか人はどんどん大きくなって、その人生は肥大し手に余るものとなってしまう。どんどん抱えるものは増え続けるからこそ、できるだけシンプルに、小さいがしっかりと根を下ろし可憐な花を毎年咲かせる菫のように生きられたらと願う。そう、憧れる。人生がもしやり直せるならば。菫のように生き直したい。

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