そして今思うこと2022年03月12日 23時39分56秒

★もう、次はない。

 歳をとって良いことは一つもない、と誰もがよく言うが、我にとっては、一つだけ確かな良いことはある。
 それは、若い時にはわからなかったことが、わかる、見えてくるということで、愚かさや迂闊さ、だらしなさなど相変わらず若いころからバカのままでも、今は、その上で、ワカル、気づくことがある。
 今回の自らがしでかした転落事故の一件からも。

 すべて、この世に起こることには意味があるとようやくわかってきた。意義はともかく、意味である。善いことも悪いことも、戦争ですら、だ。
 意味というのは、理由や原因であり、その起こった状況や時点も含めて、分析、解析して、良いことであろうともそこから学ばなくてはならない。
 ましてそれが悪しきこと、事故や災難、不祥事などならなおさら繰り返さぬよう、また、天災など避けられぬことならば「その時」に備えなければならない。
 人類の進歩と文明の発展は、その繰り返しの上に、今がある。
 きちんと検証しなかった文明は結果として滅び、遺跡や史書の中にその往時の面影を残すだけだ。

 さらに、「意味」というのは、メッセージ、つまり警告でもあり、なぜ、そのとき、それがそこで起こったのか、を深く考えねばならないのである。
 そのまま、そうした「考察」や対処法を怠るとまた同様の事態が必ず起こる。
 ガードレールのない狭い通学路で、登校する小学生が車にはねられたならば、何らかの処置をしない限り、またさらにそうした事故は必ず起こる。
 我は、今さらながら今回の階段からの転落事故で、心から反省した。
以前から、階段や通路にさえ本やモノを置いて、不便だともちろん感じていた。
 が、何とかしないとなあ、と思い、近いうちきちんと片づけようと思い、そうして結果としてずっと「そのまま」にしてきていた。
 自分の人生の失敗、行き詰まりは、ようやくわかったのは、要するに「とりあえず」としたことが、多忙や怠惰を理由として、「そのまま」にしてしまい、結果として「常態化」してしまったことであった。

 もし、今回、転落時に頭でも打って脳挫傷などから死んでしまったら、すべてはその「とりあえず」のままで終わってしまい、我は、「とりあえず」生きた人として地獄の閻魔帳に記されることだろう。
 つまり、それはまだしっかり、きちんと本当に生きていないということに他ならない。
 常に、いつか、今度、そのうちに、と思い、片付けも含めて何も進められず、「とりあえず」状態にして、そのまま人生のタイムリミットが来てしまえば、ほんとうに「とりあえず」でしか生きていないではないか!

 やりかけのこと、まだやりたいこと、そしてやるべきこと、まだまだいっぱい我にはある。
 これまでは常に何であれ、先送りにして、いろんなモノゴトを後回しや、そのままほったらかしや、出しっぱなし、放置・放擲してきた。
 そしてもう人生そのものの持ち時間も残り少なくなってきて、結果として痛い目に自ら陥り、本当に今度こそやっと気がついた。
 ともかくまずは、床に、通り道に、まして階段にはモノを置かない。そして何事もそのままにせず、その都度できるだけ早く処理・対応していくこと。
 世間の人は実は皆さんそうしたことを当たり前にしてやっていたのだ。親の教育であろうか。ウチでは、親もまた片付けができない人だった。
 我の場合、かなり病的な部分によるもののようにも思えるが、「ビョーキ」だとしても、それで良しすることはできないだろう。だってそれは医者や薬で解決することではないのだから。
 とにもかくにも今回のメッセージ、警告をきちんと受け取り、いっぺん、一気にはできないとしても、少しでも少しづつでも何であれ、きちんとしていくことだ。
 キリストの看板ではないが、天の国は近づいた 悔い改めよ である。

 本当にもう次回はない。愚かさは仕方ないが、その愚かさのため自ら命を縮めてしまうのは、真に愚か者であろう。