本日の谷保かけこみ亭での反戦コンサート、お待ちしております。2022年04月03日 11時48分00秒

★戦争反対、即時停戦を求めて、ウクライナ人民と連帯コンサート@谷保かけこみ亭

 午後3時半~午後9時ごろまで。入場無料※ウクライナ難民支援チャリティコンサートです。
 国立市谷保かけこみ亭にて。

久しぶりのコンサートを終えて2022年04月04日 08時29分27秒

★護憲と平和への闘いは、ここからなのだと。

 また今日も冷たい雨が降り続く。満開の桜を散らす、花腐し(はなくさし)、の雨ではあるが、正しくは、今はまだ菜種梅雨と言うべきか。
 昨日の、谷保かけこみ亭でのウクライナ市民と連帯支援のコンサート、、約6時間にも及ぶ長丁場、ともかく無事に終わった。
 まずそのことをご報告いたしたい。ご参加された方はもちろんのこと、いろいろご支援、ご協力頂いた方々にもまず感謝、御礼申したい。

 本当に、やれやれ、である。今は、終わって心からほっとしている。昨夜は爆睡した。
 三か月ぶりのコンサートの企画、間が空いたからではなく、今まででいちばん大変だった。当日に至るまで気苦労でまさに心労で疲れ果てた。
 実は前日の朝になって、一人の方が突如不参加を申し出てきて、その「説得」に午前中を費やした。そもそもこちらの連絡が遅れたことが原因であり、細かな行き違い、考え方の相違などもあり、「気が萎えた」からと、前日になって「キャンセルしたい」のは、本当に困った。
 こちらはタイムスケジュールも組み立てていたし、チラシには大きく名前も載せていたので、どうしたものか頭痛めた。ならば全てが崩れてしまいまた組み直さなくてはならなくなる。

 これまでやってきたコンサートは、「共謀コンサート」と銘打っても、こちらが基本として演者側にオーファーし、それに応えての出演だから、双方が完全に了解してその関係が結ばれていた。
 が、今回のコンサートは、それとは違い、あくまでも出演者の自由意思でのことで、出演料などは交通費も出ないのである。ならば、出たくない、と言ってきたとしてもそれを止めることはできやしない。できるのは説得ぐらいである。
 幸い、平身低頭でひたすら出演をお願いして、出られる時間帯も調整して了解・納得頂けて事なきとなり、当日は素晴らしい熱い歌声をしかと聴かせてくれた。有難いことである。
 そんなこともあって準備がさらに遅れて前夜も3時間ほどしか寝てなく、ふらふらでコンサートの途中で倒れるかもと大きな不安を抱えて臨んだコンサートだった。
 が、他に一人だけ連絡もなしに現れない出演予定者がいただけで、本番が始まれば、出られた皆さん全員が、客席の方々と「戦争反対!」の熱い思いと、平和を願う、鎮魂の祈りの気持ちで連帯し、大きなトラブルもなく全体として素晴らしいコンサートと成った。

 おかげさまでチャリティの浄財も予想を超える額が集まった。できるだけ早く難民支援のNGOを通して役立てるように手配し、また報告します。

 とりあえず、まずその報告だけいたしました。当日の画像などは、近くまたアップしていきます。

その声が、言葉が、「うた」が届かない2022年04月14日 09時25分20秒

★戦う勇気と戦わぬ勇気と

 この一週間ほど、季節外れの陽気というか、連日、晴れて夏のような暑さが続き、我も老父もその対応に苦慮していた。
 幸い熱中症などで体調を崩すことはなかったものの、まだ体が暑さになれず、暑さの苦手な我は、Tシャツ一枚でいても何とも不快な、のぼせたような気分で困惑、苦慮していた。
 が、今朝からは、小雨がぱらつく曇り空ということもあり、ややうすら寒いほどに気温も下がってきて、ようやくほっとしている。これが平年の気温なのだと思える。暑いよりも寒いほうが気も身も引き締まる。

 慌ただしいのは相変わらずなのだが、それに加えてまたずっと考えていることもあって、答えが見えずブログは空いてしまった。
 ロシアのウクライナ侵攻とそれに関連して、国を、国民を守る「安全保障」についての「問題」である。
 世界は、いま、戦争という最大の「暴力」に揺れ動いている。ロシアのプーチン政権は、国際社会の法秩序を無視して、戦争によりウクライナを、世界そのものを武力で変えようとしている。
 そのことは、まず言語道断であり、どのような理由や理屈を並べても許されるものではない。とにもかくにもこれ以上の死者、犠牲者、難民が出ないよう、一日一刻も早い停戦を望む。
そのうえで・・・

 我は、そして我の周りにいる仲間たちはたぶん誰でも日本国憲法に記されている不戦、非戦ということを思想信条として誓い、考えの根底においていると信ずる。
 が、世の中の多くの人は、そうではなく、逆に、武力には武力で対抗を。核兵器使用の威嚇には、こちらも核兵器を保持して、と考える人も間違いなく多数いる。
 どちらが正しいか、義があるか、我は、自らの思い、考えに毫も疑いはないが、では、それで、この無法な「現実」、戦争という強大な悪意、つまり傲慢と不寛容の嵐を前にして、その言葉はどれだけ力を持つか、そして我らと異なる考えや立場の人たちに届くか、正直なところ自信がない。
 憲法九条があるから、この国は大丈夫だと、無法な超大国中国やロシア、そして暴走国家北朝鮮に囲まれている日本で、このウクライナ危機のさなかに、その言葉はどれだけ力を持つだろうか。
 戦う勇気よりも戦わぬ勇気を、と。
 残念ながらその言葉は、その声は、そしてその「うた」はなかなか届かない。このウクライナ侵攻という戦争の「現実」を前にしてそのことを痛感することが多い。

 このところ、そうした世の趨勢を受けて、日本共産党までが、侵略時の自衛隊の活用などと言い出して、本当に情けなく悲しく思う。参院選を前にしていたしかたないとしても、どうしてあくまでも持論を通さず、世の流れに乗ろうとしてしまうのか。
 そうしてなし崩し的に、党の独自性、真理に対する優位性を失っていけば、単なる日和見野党の一つとして早晩消滅していく。

 剣、武器、武力、つまり力による威嚇のみならずじっさいの使用に際して、言葉や思想、理念はどれほどの「力」を持つのか。
 「現実を見ろ」とよく言われる。その非道かつ無法な「現実」だからこそ、夢や希望に繋がる「理想」が尊び、求められるべきものであるはずなのに、暴力に対しては、それを抑止するのは、文字や言葉ではなく何よりも対抗するための「力」なのだから、それを増強するしかないという論理が残念ながら力を持ち勝る。
 誰だって、侵略者を前に日本国憲法を手にして、座して死を待つことはしたくない。「徹底抗戦」を謳う指導者たちの声に多くの国民は従うだろう。
 ただ、その先にあるのは、いったんは戦闘は終わったとしても、際限ない暴力の連鎖と、また新たな紛争、戦争の「はじまり」、結果としてさらにまた多くの人々が死傷していくこと、そして本当に「世界の終わり」が来ることだ。

 人間というのは、そうしたもの、こうしたものなのであろうか。それは愚かなのか、それとも生きていくために仕方ない正しい在り方なのか。
 不寛容に対して、寛容はどこまで不寛容にならずにその「主体」を維持できるか、ずっと考えている。答えはでない。
 ただ、失望はしても絶望はしない。きっとどこかに答えはみつかると信じたい。
 まだできること、すべきことがきっとあると。

届かないからこそ~前回の続き2022年04月15日 12時17分14秒

★己も含めその「正義」をまず疑うことから
 
 人は誰しも己の正義、善と信ずるところのものに恃み、寄り掛かってそれを規範に生きているわけであるが、実のところ、その「正義」というものは絶対的、不動のものではなく、極めて脆い根拠のないものではないかとこのところよく考える。
 こんな我にもそうした「正義」や信念のような、それが正しく善だと信じるに足る思想、信条はあるわけだが、それはあくまでも自分にとってのものだというだけの話で、過信して他者に強いたりしてはならないと心するようになった。

 例えばのはなし、我は死刑絶対反対論者であり、人が人を殺す、死刑という「殺す」ことで罪を償わせるという制度自体おかしなことで、殺人犯だとしても「報復」として死に処すのは無意味だと確信している。
 むろん多人数を意図的、計画的に殺害した凶悪犯は、二度と社会に放つことはあってはならないから、終身刑として一般社会から隔離すべきだとは考える。
 ただ、現実問題として、その犯罪者に「殺された」側の遺族としては、殺された者たちは二度と戻らないのだから、その殺害した側の者は、生かしてはおけない、厳罰に強く処すべきだとして死刑を望むのはよく理解できる。
 加害者に対する被害者の気持ちを想像すれば、もし、我も大事に思う愛する人が、理由もなく殺されてしまえば、殺した側にどのような理由や状況があろうともやはり絶対に赦すことはできず、おそらく死刑を望むようにも思える。
 我の考える、大事に恃む「正義」とはその程度のものでしかない。

 そしてその程度のものだと自覚したうえで、この今起きている戦争も含めて、社会全体に漂う雰囲気、傲慢と不寛容な悪意に満ちた時代を憂う。
 何より思うのは、その傲慢と不寛容な当事者たちが、自らは正義だ、善を為していると信じて、その行為をしていることで、その「絶対的正義」が根底にあるからこそ、揺るがず動じず続けてしまうわけで、まさにどうしようもない。
 そして、そう自らの正義を信ずる人たちに、誰かが別の視点からの意論や異なる声、こちらの考え、意見を伝えようとしても彼らは絶対に耳を傾けない。
 ましてさらに頑なに攻撃的にさえなって敵対視してくることも多い。※安倍晋三たちがそうであったように。
 彼らをこちら側に寄せること、いや、その前にこちら側の声を届けることすら困難に思えてくる。

 しかし、だからといって、一切が無駄だ、処置なしだと諦め放擲して、彼らが成すままにさせてしまうのは誰にとっても「損失」であり、ある意味責任放棄ではなかろうか。
 どんなことでも、ある悪しきこと、異常なこと、大変な事態が起きてると目にしたとき、それをそのままにして、見なかったこと、見て見ぬふりをしてしまうのは、結果として「共犯」だという意見がある。
 学校や職場、教室でイジメがあり、その被害者が自死を選んだとして、イジメに加わらなくてもそれを知りながら何もせず、見て見ぬふりをしてしまえば、加害者でなくてもやはりそれに手を貸したと批判されても仕方ない。

 ならばこそ、たとえ相手にも誰にも届かぬともまず声に出し、言葉をつむぎ記し、他者に語らう、つまり小さな声でも「うた」をうたうべきではないのか。
 我は自分が愚かで弱く卑小な人間だと強く意識している。常に何度でもあやまちを繰り返す。なかなか本当に改まらない。本当に愚かである。
 しかし、人はたいがいは皆やはり同様なのではないか。
 愚かでないとしても人は弱く、ときに誤るものであろう。絶対に間違いを犯さぬ人間はいないはずだ。神の御子ナザレのイエスはともかくもお釈迦さまをはじめ世の聖人君子とされる人たちでさえ、人は皆迷い過ちを犯して試行錯誤し、真理という気高きところへ行きついた。

 そう、残念だが、人は必ず間違いを犯す。過ちは繰り返される。だからそれを糾弾する以前に、人間とはそうしたものだという意識をもち、まず自らを省みて、傲慢と不寛容な人たちに臨むべきではないか。
 彼らにはこの声は届かない。しかし、いつの日か、いつかきっと、そうした声を放つ者たちがいたことを思い起こすときが来るかもしれないし、歴史とは、そもそも歴史はそうした名もなき人たちの小さな声が積み重なった上に成り立っているのではないか。

 渡良瀬の鉱毒被害訴えに後半生を捧げ窮死した田中正造の闘いは無意味であったか。いや、日本の公害闘争の原点として、彼の声は今もなお我らのうちに響いている。
 そう襤褸の旗を今こそ高く掲げよう。届かなくとも、だからこそ声をあげていこう。人は皆弱く迷い過ちを起こす者だからこそ。

どんな時代、どんなときでも2022年04月16日 00時16分48秒

★ともかく今できることを、少しでも、少しづつでも

 失望は常にする。だが、絶望はしない。まだ生きてここに在るかぎり、最後の最後まで、意識のある限り、叫び訴え続けていく。
 いい時ばかりは続かない。いや、逆に世の中はどんどん悪くなっていく。
自分を取り巻く環境も、何もかも昔のほうが良かったと思える。
 が、過去は戻せないし思い出にひたる暇はない。そんな余裕はどこにもない。

 人生がまだ続くのならば、その中で、そのときできること、すべきことを精一杯できるだけやっていくしかない。
 こんな卑小な人間だが、まだできることとすべきことがある。そう信じて、その役割を果たすべく、もがきあがいていく。
 もう何も怖れない。もう何も拒まない。どう思われようとどう扱われようと一切気にしない、かまわない。
 すべては生きている間だけのことなのだから、その中で、とことん思う存分自分ができること、なすべきことをやってきたい。産まれてきて、まだ生きている使命を果たすべく。

 いま、そこに迫りくる確実な危機について思う。核戦争はやがて近くひしひしと迫りくる。だからこそ、それを見据えて、我もまた旧約ヨナ書のヨナのごとく、蔑まされようと、近づくその危機をこの町の人々に叫んでいく。
 プーチンだけではない、真に悔い改めるのは、実はいま在る我ら皆すべてなのだと。
 そう、正義なんてどこにもない。まず我らは自らその顔を洗い、ひしひしと自らを鏡をみてみることからだ。