大地震から二週間過ぎて思う2011年03月27日 23時54分11秒

★死の影に脅えることなく死を想うこと。

 大震災から二週間が過ぎ、ようやく当初の混乱から事態は収束、収拾に向かうところに差し掛かってきたように思える。もちろん被災地においてはとてもまだ何一つ先のことは見えず混乱のまま困惑し疲労が増すばかりだという方々がいまだ多々おられるかと想像するが。

 東京多摩地区では、もはや地震数日後から起こった早朝からスーパーやドラッグストアに並んでの米やインスタントラーメンなど保存食料品やトイレットペーパーなどの生活・防災用品を買い溜めするパニック状況は終息した。
 電車などもほぼ通常通り乱れずに走っているし、大地震があったことを示しているのは、駅や店舗などが節電のため薄暗いことと福島原発事故による放射能数値の変動だけであろう。じっさいのところ今も解決のメドすら立たない原発事故と計画停電騒ぎがなければ、被災地に親族友人がいないで大地震の被害が直接なかった者にとってはこの国を襲った未曾有の大震災でさえもニュージーランドで日本人が不運にも亡くなられた局地地震と感覚的にはさほど違うところはないかもしれない。

 今は悲惨かつ深刻な現地からの報道に胸を痛めるが、当事者でないかぎり、しだいに人はどれほどの大惨事でさえ離れたところのこと、過去のこととして他人事として気持ちも記憶も風化していってしまう。これはそうあってはならないという思いで書いている。

 情けないことだが自分も含めて人は生の価値、有難さを死の位置からしか測れない。死が迫り、じっさいに対峙し、迫ってきたり追いつかれたときになってやっと「生きていること」を真剣に考える。
 地震とは異なるが、自分もまた母が病魔に襲われ、一時はかなり重篤状態になって死を意識したときになってようやく生の意義をはっきり認識した。その価値、生きていることの有難さが失う頃になってわかったのだ。
 健康なとき、平穏な日常においては死は常に遠く、考えもしないし存在すら忘れている。ということは生、生きていることすらきちんと自ら向き合っていなかった。ただ日々何だか慌しく忙しいことを口実に時間だけが過ぎてゆき何一つきちんとできず無駄に生を浪費してきていた。

 だが、療養中の母の一件と3.11の大震災を体験してからは、「死」は今や身近な存在となった。机の上の文具のように、手の届くところに今はあるから、常にそれを使って生を測ることもできる。メメント・モリ、死を想えという言葉があるが、死を怖れることなく、死を意識することでより良くしっかり生きていかねばと思っている。

 そう生と死は不可避一体のものであった。自分は愚かにもその一面だけしか見ていなかった。光と影があるならば、陽の当るところだけでなく陰の部分に目をやらねば良い絵が描けない。人生もまた自分が描く絵とするならば、死を見据えて死を想いしっかり生きていく、いやしっかり死んでいかねばならないのである。それこそが生きていくことだった。