どんなことでも維持して続けていくことは大変だ。2013年06月25日 16時03分01秒

★維持し続けていくことについての考察

 言うまでもなく、どんなことでもそれを維持し続けていくことは大変である。政党であろうと客商売であろうと同じことで、さらに広げて言ってしまえば人生だって生活だって維持し続けていくことは生半可なことではない。このところつくづく思う。
 と、先日のイベントの後片付け、皿洗いやゴミまとめをしつつ考えた。

 ただ、お店経営など客商売ならば、何より経済的諸状況が問題となるからこれでは儲からない、つまり経営的にやっていけないとはっきりすればすぐに撤退すれば済む。会社など企業経営も同様にもうどうにもならなければ倒産、破産という手続きで終わらせることができる。

 問題はそうした経済のことだけに収まらない行為、運動で、ビジネスならば撤退の時期がすぐに見え終わらせようもあるのだが、宗教や政治活動も含めてある理想や目的のために活動する行為や運動はおいそれとは終わらせにくい。何よりもその運動・活動を維持して続けていくためのキモチを維持していくことが難しい。

 つまり始めた当初は何であろうとそこに至る昂揚したキモチ、モチベーションが存在しているから大変でも辛くもないが、しだいに時間と比例していくようにそのやる気、「情熱」は下がって何事も大変に思えてくる。したことはないが結婚生活や育児だって似たようなことに違いないのではないか。

 特にある目的意識を共有し始めた運動体、もしくはグルーブでは長続きしないのは経済的な問題以前に、時間と共にその情熱が薄れて人間関係も面倒かつ疎遠になっていくことが大きいと思える。結果、一部の運営者だけに負担がかかりその人がリーダー、言いだしっぺだとしても彼のやる気も失せてきてその運動自体含めてモノゴトは自然消滅していく。

 逆にこれがある個人的趣味、研究行為などだと飽きることはあっても存外コツコツと長続きすることを思うと、そこに個人と集団の違い、つまり人間関係が大きく関係していることに気がつく。とある共通の目的意識で集った集団、運動体だと当初のモチベーションを長く維持していくことはまず不可能なのかもしれない。大学などのサークルならば、そこは期間限定であるし次々と新陳代謝されるからそうした問題は発生しない。要するに同じ顔ぶれで集い長く行動していくことの限界でもある。夫婦間、親子間の倦怠感も同様かと思う。

 何でこんなことを書いているかというと、実は早くも拙宅無頼庵、この当人マス坊自体が活動していくことの困難さというより維持、続けていくことのキモチの問題に悩んできているからだ。このところ定期的イベントは常に大盛況で固定客も増えてきた。それは大変喜ばしいことだしありがたいと思う。だから良いことであり何一つ問題ではないはずなのに、何故か気持ちのもやもやは晴れない。このままだと鬱病になりそうだ。

 お客様が来てくれることが問題なのではなく、こちらのモチベーションがどうにも何かすっきりしない高まらない。これは贅沢な悩みなのだろうか。
 人が来てその供応、後片付けが大変なのではない。それは面倒だと思わなくもないが辛いとか大変だとかそれで気持ちがダウンしたりはしない。これは要するに自分の関心の向かいどころ、イベントの関わり方の問題なのかもしれない。利潤が目的である「お店」ならばお客が来てくれるだけで目的は果たされているがウチはそうではないことを記しておく。基本的に儲けなど客の多寡とは関係なく発生しないことも。
 このままだとどこそこかの自宅を開放してたまに催しをやっている某氏のように面白くないと突然キレてしまうかもしれない。何でも同じことだが、自らやってみて初めて分かること、見えてくることもあるということだ。今は彼の気持ちもわからなくない。なるほどそうだったのかという思いでいる。

 というわけで近く、今年の後半からは、詩朗読のイベントとライブ公演も積極的に企画していく。そうでもしないともはや自分のモチベーションを維持できない。映画塾とフォーク講座のラインナップに変更はないが、まずはすべて参院選が終わってからである。自分も楽しめることをやっていこう。乞うご期待、とまず自分に言っておこう。