ただ溜息つくだけしか2017年09月05日 22時58分26秒

★まさに内憂外患、家の中も外も

 間もなく母の命日が来る。早いもので母があっけなく死んでもう一年たとうとしている。
 ほんとうはお寺に出向いて一周忌の法要をすべきところなのだが、父の体調と、情けないが金がなくて正式に親族を招いてそれをする余裕が全くなく、今回は命日に墓参りだけでも行けたらと願う次第だ。
 また母もそうしたことに対してはドライかつ無関心な人だったし、あの世からこちらの状況も見ていてくれていると思うので、きっと赦してくれると信ずる。

 そう、このところ出費がかさんで、父が通っているデイサービス二か所の利用代だけで、毎月8万円を超すようになってしまい、それは父のとぼしい年金の半額を超してしまい、もうどうにも首が回らなくなった。
 我がどこかバイトに行き、いくらかでも稼いで補填するしかないのだが、現状ではこちらの都合にあうような調整のきく仕事があるのかどうか。今はなけなしの貯金を取り崩して補填している。
 何しろ父の体調も安定せず、日々彼の調子を見ながらショートステイに行かせているのだ。熱が出たり血圧が高くなって不調を訴えれば、我にすぐ連絡があり、迎えに行かねばならない。
 ならばつまるところ家で待機的にできる仕事、ネットでの古本稼業しかないわけで、それも父が家にいる時は目が離せないので、あくまでも介護施設に行っている間だけしか作業はできない。
 もっと商売に励まねば。

 先日来の騒動の顛末は記した。さあ、これから気持ちを切り替えて、と誓ったものの、今もまだやる気は戻らず、ただただ溜め息つくことしかできないような状況が続いている。
 しかし、まだ幸い本当のお終い、破滅的状況には至っていないわけで、何とか父がまだ生きて意識ある間に、彼の意思も含めて確認できることや事前に準備できることはきちんとさせ少しでも果たしておきたいと願う。

 今の気分はただただ情けなく泣きたいような気持ちだが、まだ本当の終わりでないならば頑張るしかないし、日々何とかやっていくしかない。
 そう泣いて、あるいは法要で母が生き返るならば我は有り金はたいてどんなことでもしよう。我が命を分け与えてもいい。
 しかしもう全ては返らない。失ったものは失ったものとして全て受け容れていかねばならない。そして生きている者はそれでも最後の日まで精いっぱい生きていかねばならない。

 ただそれは辛く苦しいことだ。虚しいことでもある。ただ日々何とかやり過ごし取り繕うだけで仕方ないのかもしれない。そう、我は一人で父を、犬猫たちを背負っているのだから。すへてが中途半端でも致し方ないと思う。

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