母のいないこの一年をふり返って2017年09月09日 07時08分51秒

★生涯でいちばん辛く苦しかったこの一年。

 昨日も書いたが、昨日8日の命日で母の死から一年、何の法要もしなかったが一周忌が過ぎた。ようやくこれで母を亡き人として「過去」へと気持ちを移行することができるような気がしている。
 そう、何とかこの一年、母不在でも我も父も生き延びることができた。今、振り返ってみて、自分の人生で最大の危機、苦しく大変な一年であったと思える。それが過ぎ去り終えた節目としての昨日の命日であった。

 昨年、2016年の年明けから肥大し始めた腹部の癌のため母の体調はしだいに異変が出て来たのだが、春先に応急的手術もし、以後急激に痩せて衰弱も進み二度の救急搬送後、寝たきり状態と化して初夏から我家での在宅看護となった。一人息子である我がほぼ付きりで介護していた。その間のことはこのブログに記してある。
 何とか再び少しでも元気に回復する奇跡を願ったが、けっきょくそれから僅か二か月足らずで骨と皮の姿となって(腹部や手足には浮腫みも出ていたが)、昨年の昨日の早暁に母は逝ったのだ。まさに精根尽き果てた感があった。
 我が付ききりで24時間体制で介護していた期間は長く感じ、不眠不休ですごく辛く大変だったとそのときは思っていたが、今振り返ればその辛さは何も思い出せない。真の地獄、苦しさは、病み弱っていく母を介護していたときではなく、母の死後の半年であったと思い知った。

 母は死ぬ二か月前からほとんど寝たきりで自力ではほぼ何もできないような状態となってしまったが、頭だけは常にはっきりしていて、ほんとの最後の頃は声出すのも辛そうだったが、常に話しかけ返事もあった。
 家事も含めすべてのことは我がやっていたが、じっさいの司令塔、我家の管理担当は相変わらず母であり、病臥しても我にわからない不明なことは母に訊き、何でも相談し指示を仰いでいた。
 母は我にとって唯一のパートナーであり、身体の一部のような存在であった。何しろ半世紀以上も記憶にある限り傍らに常にいた人だったのだから。
 その人が昨年の9月8日を境に突然消えてしまい、冷たい骸に、焼かれて骨と化してしまった。もういくら語りかけても何も返事は返ってこない。
 介護に疲れへとへとだった当初は、今思うと母が死んでほっとしたような気持ちもあった。しかし、どんなに大変であろうと生きているのと死んだのとは天と地、海と空程にも違う解離したものであって、どんな状態であろうとももう少し生きていて傍らにいてほしかったと今でも望む。
 死が辛いのは、もう死者には何もできないということにほかならず、困ったとき迷うとき、日々遺影に語りかけても写真の母は柔和に微笑むばかりで何一つ我に返事はない。夢の中でももう現れない。
 頑固で身勝手で偏狭なうえに呆けて動けずともかく手のかかる父と二人だけの生活となって、当初は本当にまいった。父を殺して我もこの家に火をつけて死のうと真剣に何度も考えもした。母がいないのなら全ては無意味ですべてを終わらそうかと考えもした。
 これこそが真の地獄とようやく気がついた。

 母の死んで年内数か月は、僅かな資産の継承のための煩雑な手続きや四十九日、納骨時に配布する追悼文の作成に追われてともかく慌ただしく母の死の実感はあまりなかった。淋しさもそれほどではなかった。
 が、年もあけて、父と二人だけの正月を過ぎた頃からその「淋しさ」、母はもうこの世のどこにもいないという「現実」がじわじわ効いてきて、我はPTSD 的鬱状態に陥ってしまった。もう何もやる気が起きなく、全ては色と意味を失い無価値に思え何もかもどうでもよくなってしまった。

 死後半年が過ぎ、今年の春先頃から老犬ブラ彦の天寿を全うできた老衰死と子猫たち新たな命の誕生もあり、一度は枯れ果てたと思えた我の気持ちもやっと戻ってきた。そして音楽に関わる活動も再開し始めた。
 そして今、その死から一年が過ぎて、ようやくその母の死を過去のものへと、過ぎたこととして気持ちの中でも処理できるような気がしている。

 それでも今年の大型連休の後の頃は、精神的にかなり落ち込んでいた。去年のその時期、我は母と一泊ながら父祖の地、谷中村へと出かけていたのだ。
 母も既に入退院を繰り返していたが、そのときは今思うと奇跡的に体調も良く、迎えてくれた親戚たちも一様に驚き安堵していた。緑鮮やかな渡良瀬川の蘆原を誰の助けも借りず自力で元気に歩いていたのだ。
 今年もその季節が再び来て、去年は元気に小旅行にも行けた人がもう死んでどこにもいないという事実に、ただ打ちのめされた。共に同行した愛犬ブラ彦ももう死んでしまったのだ。

 この一年はそんな風にして、その一年前はまだ母が生きてこの世にいたことを思い出しては新たな哀しみに襲われるということを繰り返していた。
 そして一年が過ぎ、また季節は繰り返すが、母の死と母の生きていた頃はどんどん後ろへと、過去のこととして遠ざかっていくように思える。
 しかし、哀しみや淋しさは癒えて消えたかというとそれは全然変わらない。今も母のことをこうして書き記すときは涙がいつも溢れ出てきてしまうし、母のいない現実にどれほど慣れたとしてもこの悲しみは不変である。

 先日も近くのスーパーで、母に似た後姿の老婦人を見かけ、突然涙が出てきてしまい困り果てた。背格好も違うが、髪型と被っている帽子が母のそれによく似ていたのだ。
 当然母であるはずはないのだから前に回ってお顔を確認などはしなかった。が、母が今も元気に生きていたならばこうして買い物にも来れたはずだと思い、突然母を思い出したことで涙が止まらなかった。
 スーパーで買い物しながら顔をくしゃくしゃにして涙を堪えているそんな中年男を見たら人は嗤い不審に思うであろう。しかしどうしようもなかった。
 そんな風にしてこれからもまたまず一年生きて行かねばならない。

 母の死と母が生きていた頃はどんどん過去へと遠ざかっていく。やがて母を知る人たち、親しくしてくれた人たちも皆が死に、すべて忘れ去られ消えてしまうだろう。が、我がこの世にある間は、母のことはこの悲しみと淋しさと共に永遠に抱えていく。
 そしてこうも思う。我が生きている限り、母は我が内でいつまでも生き続けていくと。

コメント

_ サクラブルー ― 2017/09/12 12時32分44秒

長い長い、それでいてあっという間の1年であったかと思います。ご苦労さま。読者を代表してねぎらいたいと思います。

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