常に迷う弱き心よ2011年11月23日 01時12分29秒

★常に迷い移ろいさまよう弱き心。

 この何日かブックカフェのことも含めて自分はいったいどこまで本気なのか、それが可能なのかとずっと自問している。やるかやれないかということではなく、自分にできるかできないかという次元の話だ。ある意味、どこまで本気なのかという話でもあり、本当にその気があるのかという自らへの問いかけである。

 問題は一つ、今さらだが、人を迎えるようその準備や仕度、心構えも含め自分にそれができるかということだ。それが自信ない。その気がなければどんなことだって失敗するだろうし、中途半端な選択はありえない。それは心ある友人から人を招くならきちんと常に綺麗にしておかねばならないという忠告を受けて今さらだがはたと気がついたことだ。

 つまるところ、このとことんだらしのない自分が、いつ人が来てもきちんと綺麗に、人を迎えられるよう仕度していられるかなのだ。むろんだらしなく、汚いところでもそれをそのままありがまま見せることだってできなくはない。しかし、それでは金はとれないし、金以前に人は二度と来てはくれない。居心地の良い場所とはとりもなおさず清潔であり一通り片付いている快適なまっとうな空間なのだ。それは誰よりも自分自身それを強く望み好んでいることだ。

 汚い汚部屋、いや「汚宅」ならば友人宅だって二度と行きたくないし行かないはずだ。ならばきちんと常に掃除して片づけておけば良い話のはずだ。問題は果たしてそれが可能なのか、今の自分には正直に自信がない。ではブックカフェも含めてウチでやることすべて諦めるか。ずっと自問している。

 自分はいったい何ができるのか、何をすべきなのかとこれまで考えてきた。しかし今はそれ以前のごくごく基礎的なつまらないことで悩み迷っている。自分は掃除も片付けもごくごく当たり前のことがきちんとできやしない。今のままでは誰も来やしない。来ても二度と来てはくれない。

 悩む以前にまず体を動かし片づけてきちんと清潔にしていくことだ。だがそれはそれとして果たして人が常に来て綺麗な状態に保つことが自分にできるのか。
 
 こんなどうしようもない人間なのだからあるがまま生きるしかないと開き直ってきた。しかし、あるがまますべてをそのまま曝け出すということは、老醜以外のなにものでもないし、それは正直でも誠実でもない。ただ怠惰であり自堕落なだけでしかない。

できる人 できない人2011年11月23日 23時26分21秒

★できない人の最右翼として生きる。

 この世は、いや、人は、大別すれば、できる人とできない人とに分けられるかと思う。むろん、中間辺りに位置している人もいるだろうが、どちらか一方の側に寄っているかは分別できる。

 ここで言う、できる、できないとは、勉強ができるとか、クルマの運転ができるといった個別のことではなく、もっとその前段階のこと、何か学習すべきことが早くできるようになるかどうか、それを問うている。

 例えばの話、ある程度習得まで時間がかかる軽作業があるとする。ある人は一、二度手順を示されればもうすぐにできるようになる。人に教わったり頼らなくても自らで見よう見まねでやってみてできるようになるということだってそうだ。携帯の機能がすぐにあれこれ使いこなせるかどうかということをイメージしてもらっても良い。※むろんのこと増坊は携帯ではメールだって打てやしない。

 それに対して、なかなかそれができない、人から聞いて教わってもちっともできるようにならないという人たちもいる。増坊も今は車の運転は一応難なくできているが、免許を取るまで、つまり教習所で規定の課程を習得するまでがやたらに時間がかかり、できる人の何倍も金を使った。挙句に助手席に座った運転講師から、溜息混じりに「俺もこの仕事長いけれどあんたみたいな人は始めてだよ」というその「できなさ」を感嘆されるお言葉を頂く始末であった。

 そのできる、できなさは、個々において当然のことまた人それぞれ違う。できないことが多く、何をするにも時間がやたらかかる人でもある個別の作業は早くでき、そして素晴らしい結果を出したりすることもあるし、何でも素早くてきぱきできる人がある一点に関しては何故かできないということもある。

 ただ、その人一人をトータルに眺めれば、できる人は基本的に何でも大して苦労せずともさっさとうまくできるようであるし、できない人は基本的に何事もうまくできないことが多いように思える。そのことは器用、不器用ということに置き換えても近しい。また、誤解されると困るが人としての価値や頭の良い悪い、人の善悪ということとは全く関係ない。ただ、この世にはできる人とできない人がいるというだけのことだ。どちらが楽であるか簡便であるかは説明するまでもないことだ。損得勘定においてみれば絶対できる人の方が得である。

 そして翻ってこの自分はというと、もしできない側が左右のうち右側だと仮定した場合、できない人の最右翼に位置することは間違いない。勉強もできなかったが、できないことは会社勤めも社会生活も人間関係も同じことで、基本的にどんなことでもうまくできないし、またできるようになるまでがものすごく時間がかかる。世の中にはそんなこは苦もなくできることが自分にはできやしない。

 そして今いちばん頭を痛めているできないことの筆頭は「かたづけ」であり、この一週間ぐらいずっとどうしたら良いものか真剣に悩んでいた。というのは、綺麗に片付けておかないとブックカフェだろうが何をやるにしろ人を招くことはできやしないからだ。まずもって汚い店ではお金がとれないし、一度は来ても二度と来やしない。
 汚くても平気だ、片付いてなくても全然かまわないならまだ救いがある。問題は、自分もまたそうした片付かない、だらしない汚い店が大嫌いであり、ならば常時綺麗に、ピカピカにしておければ良いのだが、それが難しく、それ以前に片付けすらなかなか進まないことだ。そしてそれがすなわち「できない」ことなのである。世の中にはかなり破天荒なハチャメチャな実生活を送っている火宅の人がままいるが、意外なことに彼の自宅はきちんと片付いて整理整頓されていたということもある。林忠彦が撮った坂口案吾の書斎のようなことは我が家だけかもしれない。

 ただ、考え続けて気がついたのだが、自分は料理とか洗濯とかはたぶん同世代の男の中では「できる」ほうかと思える。またこの世には、質や内容はともかくも文章を書くことがそもそもなかなかできない、苦労する方も多いみたいだから、これも自分はできることになる。その他、不器用ながらも時間はかかってもできること、できるようになったことは長く生きたこともあってかなりある。ならばできる側に位置しても良いかと己惚れもするが、一点圧倒的に絶対できないことがある。それこそが「片付け」、つまり整理整頓なのである。

 古本屋という稼業について語れば、一番の苦労は誰もが、売る本、つまり商売用の本の確保だと口々に言っている。前も書いたが、自分の場合、売る本がなくて苦労したことなど一度もない。本は嫌でも向こうからやって来るし、旅行先でも偶然拾ってしまうことが多々ある。むろんそれは収集のアンテナを常に張っていることもある。が、本に限らず、自分は収拾能力、それもできるだけ金は使わずに求めているモノをうまく手に入れる能力に長けていて自らそれは才能だと自負している。
 が、自分の問題点は、そうして商品として出した本が在庫管理ができなくてよく紛失したり、注文受けてから探してもみつからないことも多々あることで、管理がと整理が今いちばんの悩みだ。

 思えば、博物館などを例に挙げれば、何かを集めてくるコレクターと、それを納め整理分別し管理する学芸員のような仕事は全く別であり、自分の場合、収拾能力抜群、管理能力ゼロという相反する要素が一人の人間の中にあることによって今に至る悲惨な本の山を築く事態になったのだと思い至った。
 つまるところ、自分にとって欠けているのはこうした管理能力、整理整頓する力、才能であり、そんなことは世間の人はごく当たり前に意識せずともできることかと思われるだろうが、自分にはひどく難しい。

 考えてみれば洗濯はするしできる。だが、靴下一つとっても片片になって片っ方がみつからないということは日常的だし、そうした衣類の整理も当然できやしない。料理は作るが、先日ご覧頂いたように台所は常に散らかってものすごい有様だし、すべてにわたって常に探しものはするが、どこかにそれは必ずあるはずなのにすぐにはまず出てこない。こう書いてきて、そうか、すべてのモノゴトにおいて管理する力が自分にはないからこうした混乱した事態、何事も片付かない状態に陥るのだと気がついた。

 実はこのことは親たちもまた同様であり、何でも捨てられない戦中派のモッタイナイ世代ということ以前に特に母親は片づける能力が極端に劣っている。昨今ではこうした人たちのことを医学的にもビョーキであるという診断も出ていて、片づけられないシンドロームをどう矯すかという本も沢山出ている。
 自分もまたそうした病気だと思わなくもないが、だからといってそれで良しとすることもだから解決するわけでは全くない。たぶん、経済的に余裕あれば家政婦さんとか、作家ならば本当の秘書、マネージャーに部分的に任せて負担を軽くする手もあろう。あるいは掃除好きの妻を娶るとかの手もあったかと気がつく。しかしそれはもはやどうにも不可能な自分は一人でやるしかない。この広い家を一人で綺麗に維持していくことはかなり難事業だと来られた方はご理解いただけると信ずる。

 だが、できなくてもともかく日々少しでも片付け作業をやるしかない。これは愚痴ではなく、現状分析であり現況報告である。
 できない自分でもできないながらも生きていかねばならない。それと自宅公開をどう結びつけるかだ。