人は常に期待し希望を持つ動物であるが・・・2011年11月29日 23時31分32秒

★西から改革の風など吹きやしない。

 つくづく人は常に何かに期待し希望にすがる動物なのだと思う。

 わりと進歩的だと思っていた知人から届いたメルマガに、「来年は西から改革の風が吹いてくるかもしれない。関西出身の者として危なさを感じながらも、少し期待しています」とあって唖然とした。まあ、人の思いや考えに関してとやかく言う気もないし、まさにその自由な意見を尊重すべきだと考えるが、おそらく大阪のハシストたちに一票を投ずる人の気持ちはこうしたものかもしれないと思い至った。

 でも考えてみるとこうしたことは特に驚くに値しない。民主党政権ができたときも身近の進歩的発言をしていたフォークシンガーや多くの知人たちはかなり手放しで喜んで評価していた。それを見て人は常に期待し新たな事態に対し希望的観測を持つのだと驚いた記憶がある。あんな第二自民党、あるいは自民党よりもさらに右傾化した奴らが揃って民主党と名乗ろうが、民主的なことを何一つするはずがないと当時のブログに断じて書いてある。そして予想通り、自民党政権より良くなるどころか今の日本はさらに混迷の度を深めおそらく今民主党を支持し彼らに期待する人は身近には知る限り一人もいない。※信じられない話だが民主党には政党としてあるべき「綱領」が存在しない。いかに彼らが政治信条もなく自らの選挙目的だけに集まったかそれだけでもわかることだ。

 これは自分の考えが正しいとか先見の明があると誇って言うのではない。ふつうに誰が考えても当たり前のことを書いている。つまり多くの人たちの判断を誤らすのは、そこに期待や希望があるからで、それ自体は決して悪いことではない。ナチスの収容所の中で生き残った人たちには希望だけが救いだったし、希望を早くなくしどうせ助からないと絶望した人から死んでいったと記録されている。問題は希望や期待が真実を観るべき目を曇らせていることだ。

 そして、も一つナチズムで思い出すのは、今手元に資料がなくうろ覚えで申し訳ないが、ドイツのある詩人の残した詩に、ナチスが出てきたとき、最初は自分達とは関係ないと思っていた、彼らがユダヤ人を迫害し始めたときも自分はユダヤ人ではないから他人事だと思っていた、と、ずっと無関心でいたことを告白し、やがナチス政権下じょじょに次々と自由が失われて、最後に自らにもその迫害と弾圧が及び苦しむようになり、挙句に国家的破滅が及んだことを深く悔やむ一文があった。

 確かにハシストたちは問答無用の独裁的専制主義で、もしかしたらこの国の閉塞状況を打ち破ってくれるかもしれない。しかし、考えの異なる者を迫害し弾圧し排斥しても良しとする思想は、絶対に許すことも認めてはならない。その一点のみでも彼らが真の改革者ではないことの証である。今彼らに期待するのも良かろう。しかしいつ何時、その矛先がこちらに向ってくるかもしれないのだ。赤い教職員がいなくなるのは良いことだ、自分とは関係ないことだと高を括っていると彼らはまたさらに新たな「敵」を仕立てて抑圧と迫害、無理なことを民全般に強いてこよう。それこそが彼らファシストの政治手法なのであるから。

 真に立派な為政者、本当の新たな改革者は、対立する者の意見にも真摯に耳を傾け、より多くの人たちの意見が政治に反映されるよう何より寛容かつ謙虚でなくてはならないはずだろう。民主主義の理念とは自由と平等であることは言うまでもない。それを否定する者たちに期待し政治を任すとき、人は自ら地獄のドアを開けたのである。

 政治家とはまず何よりも人の痛みがわからなくてはならない。今大阪を牛耳っている輩は、政治家ではない。府民の抱く不満や不安に乗じ煽り立てるただの扇動者でしかない。口先だけが達者なファシストに、危うさを感じながらも期待する愚を繰り返してはならない。もし、少しでもそこに危うさを感じたなら、その心の声に人は耳を傾けるべきだろうが。

 期待や希望は人が生きていくのに必要かつ欠かすことのできないものだ。だが、政治に関しては期待してはならない。常に疑ってかかれである。そもそも「政治家」という奴らにまかせること自体がまちがいの元だと考えている。政治とは本来自ら関わるべき問題であり、他人に委ねお任せすることではなかったのではないか。