「客商売」について考えた。2012年02月04日 23時55分20秒

★客商売についてふと考えた。

 暖かい立春であった。光のどけき春の日に、という言葉が頭をよぎる。都内では梅も咲き出したそうだ。沈丁花の蕾もだいぶ膨らんできた。この厳冬もそろそろ終わりが見えてきたように思える。むろんまだ氷点下の日もあるだろうしもしかしたらまた雪が降るかもしれない。しかし豪雪に喘ぐ日本海側の人たちには申し訳ないが、住むところを選べるならばやはり太平洋側に限るとつくづく思う。
 北国、あるいは雪国の、その良さや魅力も大いに認めたうえで、雪がほとんど降らない、積もらないという便利さ、快適さは老いた者には何より有り難いことだとつくづく思う。じっさい雪下ろしや雪掻きだけで、毎冬何人もなくなっているのである。その労苦を少しでも肩代わりするボランティアもあるかと思うし自分にその時間的余裕さえあればと考えもするが、けっきょくテレビのニュースで雪国の人たちの苦労を横目に眺めては、大変だなあと呟くだけなのである。

 ふと、「客商売」という言葉について考えた。

 増坊も一応は商人の端くれとして、古本をネットで細々と売っては小商いをしているわけだが、これは客商売かというとそうではないと気がつく。むろんネットでの通販であろうと相手はお客様であり、客相手に商売をやっているからには客商売には違いない。しかし、ネットなどの通信販売では、通常は相手の顔も反応も見えない、伝わってこないものである。それは客商売なのだろうか。

 お客様=向こうはAmazonという会社のサイトを見て途中Amazonの仲介で注文が届き、こちらがその注文の本を購入者に発送すると決済も終わり、やがて仲介手数料を引かれた額がこちらに振り込まれる。いや、自店舗で直接販売していてもメールだけのやりとりに終始して相手方と電話で話すこともほとんどありえない。
 むろん時に何らかの要因からトラブルが起き、客と直接あれこれ交渉やらのやりとりをすることもなくはないが、そんな時は「客商売」だと思うときもあるけれど、それもまたメールで済ませるわけで、お客と直接会うまたは話すなどのふれあう機会はまず皆無といっても良い。

 それに対して、本当の商売、――と書くと語弊あるが、じっさいにリアル店舗の場で、店に来られた客を相手に行う商売こそが「客商売」なのだと断言しても良いと思う。それは別に何かを売らなくてもかまない。飲食業、サービス業などでも同じことで、たとえ掃除代行、介護援助などでもそこに生身の客、利用者がいるなら客相手である限り、客商売だと気がつく。なぜなら客との間で生身のふれあいと直の反応があるからだ。
 バーチャルなネットでの商売をやっている者とってはそうした相手の顔が見える商売、反応がすぐ返ってくる商売に憧れる気持ちもなくはない。が、じっさいのところ、今の自分にとってはかなり怖れもあるしまた大変な気力、労力のいることに思えてならない。顔やすぐに反応が見えない通販のほうが自分には向いているとつくづく思う。

 そしてそんな自分が感心するのが飲み屋やレストランなど個人営業のような店のマスターなのである。「客商売」という言葉を思うとき、例えばまず思い浮かぶのが、たとえば西荻ののみ亭の主人とか、吉祥寺のスナックブロンのマスターたちなのだ。《もう一回続きを》