「客商売」について考えた・続き。2012年02月05日 22時44分20秒

★「商売」の前に「人間」が好きでないと。

 世の中には客相手の商売、特に飲み屋とかを生業とする人がいる。まあ、それは喫茶店でも良いのだが、美味しいコダワリのコーヒーを淹れる喫茶店の場合、それはたぶん間違いなくそこの主人、マスターはコーヒーが何より好きであるはずだろう。では、居酒屋のオヤジが酒好きで大酒呑みかというと知る限りそうした人存外少ない。むしろ当人はアルコールはダメで呑めないという人もけっこういるようだ。素人考えでは、酒好きだから居酒屋を始めたんだろうと、安直に考えてしまうが商売としてやっている人は仕事中は呑める人でも呑まない人がほとんどだ。

 古本好きが昂じて古本屋になったとか、蕎麦好きが極まって自ら打った蕎麦で蕎麦屋を始めたという話はよく聞くものの、酒が好きで酒屋はともかくも飲み屋を始めたという人はまずいないと思える。理由は簡単で、酒がいくらでもある環境で酒飲みに囲まれて呑みながら商売をやっているとどんな人でも酔って勘定はデタラメになってくるし、まず何より体がもたない。アル中になるか肝臓を壊してやっていけなくなる。それも当然で、客は常連さんでも間を空けてやってきて呑む。そうして次々来る客をマスターは相手して連日呑まざるえない。客は個々に来て呑むわけだがこちらは一人で連日呑んでいるので体がおかしくなってしまう。だから賢明なマスターは仕事中は酒は極力呑まない。ゆえにアルコールに全く弱くても酒場を経営している人たちがいるのである。

 しかし、またこうも思う。今自分が酒をやめて素面のときに酔っぱらっている人たちを見ると非常に醒めた気持ちというか、味気ないというべきか嫌悪感に近い気持ちになることが多い。それはお互い酒を呑み共に酔ってしまえば楽しく浮かれてバカ騒ぎだろうが与太話であろうが面白く愉快で何でも許してしまえるが、素面ではとても許容できないことは忘年会シーズンなどにヨッパライの集団に出くわしたとき誰もが感じることであろう。ならば酒を呑まないマスターはそうした酔客を相手にどう思っているのかだ。

 ウチの近所の自分が通っていた焼鳥屋で、ジジイの親父が一人でやっている店があるが、そこでは夜も更けて親父も疲れてくると、酔ってなかなか帰らずクダ巻いている客に、もう早く帰れ!あんたの相手なんかしたくない、と怒鳴りつけ帰らせることがままある。まあ、そんな気持ちも今は実によくわかるし、そこは極端な例としてもたぶん客商売のマスターは皆内心同じような気持ちを抱えているのかもしれない。

 また、関連して思うのは、客は店を選べるが、店は客を選べないというのが真理ならば、客商売と言うのもかなり辛い仕事であろう。気のあう良いお客ばかり来るならばともかく、中には不しつけな文句ばかり口にする不愉快な客も来ることもあるかもしれない。中には一見さんお断りとか、店主が店のルールを知らない客を怒鳴り散らすラーメン屋のような極端な店もあるのかもしれないが、たいがいは客の言いなりである。お客様から文句が出れば平身低頭となろう。だって、どんな客でも下手に怒らせたりすれば口コミで評判が悪くなってやがては客足が減ってしまうからだ。
 
 ならば、自分がもしそうした客商売をやっていたらどうであるかと考えてみる。実は大昔、学校を出て社会人になり始めた頃、勤めた会社に関係したブティックみたいな店でバイヤーをやっていたことがある。セールスマンはやったことはないが、店員として客応対をしていた。ただ、そのときはあくまでも臨時的な仕事で、単に店番を任されていたに過ぎず、売り上げが悪かろうが、客から文句が起ころうが知ったことでなかった。これが歩合制とか、自ら始めた自分の店であったなら全く気持ちは違っていただろう。考えただけでもそれはかなりしんどい。

 例えば今自分が飲み屋でなくても古本屋でも何屋でもいいが、じっさいに店舗を構えてやってくるお客を待つ側となったと考えてみる。いつ客が来るかわからないものをただ待っているというのも辛いだろうし、それよりもどんな客が来るのか考えただけで怖気づく気持ちもある。
 もともと自分は誰よりも極端な小心者の対人恐怖症、あがり症でもあり、何度も会って親しくなってしまった人には嫌がられるほど慣れなれしくできても初めての人とは目も合わせられない。そんな人間がどんな人が来るのかわからない客商売なんかできるはずもない。何より人間嫌いの気分も時折頭をもたげる。

 と、こう考えて気がつくのは、のみ亭のマスターにせよ誰にせよ、そうした商売を何十年も続けていられる方は客商売が好き、酒が好きとか以前に、そもそも人間が好きなんだと思える。つまり客であろうがなかろうが人が来ること、人と会うことが好きで苦にならないという性分なのではないか。それはとても素晴らしいことだと心から思える。人として尊敬すべきであろう。
 自分のように偏狭、ヘンクツで、どちらかといえば人間嫌いの者は恥じ入るしかない。そう、そんな人間が、これから自宅で人を招く「店」をやろうとしている。これはとんでもない無謀なことである。猫舌の猫が熱々のラーメンを食べたがるが如くの暴挙かもしれない。無理無謀ではないかと俺を知る仲間うちでは言う者も。

 しかしまたこうも考える。もし人は他者との間に自分のように境界線、心の壁を作りがちだとしたら、意識してそれはなくしていくように心がけるべきではないのか。むろん、双方の心の中に土足でどかどか踏み込むべきではない。が、昨今の戸建て住宅のように外から見えず誰も入れないよう高い塀で覆い隠すこともない。心はいつもオープンに、包み隠さず曝け出したいと思うし、また逆にこちらにそれを見せてくれる人と出会いたいとも願う。繰り返しになるが、来る者は拒まず、去る者は仕方ないということだ。

 ともかく今思うことは、人と人は心の垣根をもっと下げるべきだということだ。それはおいそれと簡単にはできない。しかしそれはすべきことだと信ずる。そうした考えの流れの中に、自分にとっての「客商売」はある。そう、願わくば自分もまた人間好きでありたいのであろう。