終の棲家を考える ― 2012年02月11日 09時37分56秒
★一人者の共同生活はまず難しい。
昨日のことに関していくつか思い出したことがある。それにしても陰気な話ばかりで申し訳ない。若い人には関係ない話であるが、人生も後半となって、ゴールも指呼の間に見えてくるとあれこれ考えてしまうものなのである。
若いときからきちんと人生設計を建てて、貯蓄もし子がいたとしても頼らずにすむよう豪華安全安心の老人ホームに入ることを考えている方もいよう。反面、自分のようにいっさい先行きについてはほとんど考えず、そのときそのとき行き当たりばったりでとりあえずやり過ごして来たバカモノは、平均寿命まで生きられたとしてもあと二十年となって、さすがに己の最後のときについても何も思わないわけにはいかなくなる。そろそろ尻に火がついてもなお涼しい顔でいられるほど覚悟の上の確信犯ではないのである。
さて、そうした老いた一人者たちが沢山いるなら皆で集まって一緒に暮らしたら良いのではないかという考えも成り立つ。じっさい、自立型グループホームのようなものも既にあるかと思う。
大昔、学生時代だったか、何かの話のとき、老後は仲間内で湘南辺りにでも大きな家を買って皆で共同生活を送るのもいいんじゃないかという話題で盛り上がった。その頃から、自分の仲間は芸術家かぶれの変人ばかりだったので、なかなか皆フツーの結婚は難しいのではという認識はあったのだ。
それに当時はあちこちにコミューンのような若者たちが集まって暮らしている集合住宅があって、名前は失念したが三鷹にあったそこへは自分も行ってみて、外人も含めてなにやら皆でわいわいがやがや暮らしているのは楽しそうだなあと憧れたこともあった。福生にも米軍ハウスにそうしたところがいくつもあったなあ。
しかし、じっさいのところ人はエゴと自我の固まりでもあるから、たとえ気のあった友人同士数人でさえも一緒に暮らすことは難しい。お互い好き合って暮らし始めた男女だって、24時間顔を突き合わせていればたいがいうんざりして同棲解消となる。夫婦が長続きをするのは、そこにカスガイとなる子供という共通資産、面倒みなくてはならない足枷があるからで、元々他人同士が一緒に生活を続けることは相当の忍耐を要する作業だと自分には思えるが。さて、どうだろうか。
そうした学生時代の「夢」を先日、人にちよっこと話したら、それって数年前ヒットした映画「メゾン・ド・ヒミコ」じゃないのと一笑された。確かになかなかうまいことを言う。
学生時代、8ミリ映画での自主上映活動もやっていた関係で自分の知人でもあった才人犬童一心監督が撮ったその映画は、ゲイバーの老オーナーが自分のとこの老いたオカマたちを集めて老後はメゾンで共同生活をやっているという話で、オダギリジョーがそこの世話人である。世間から後ろ指指されつつも訳ありの人たちが集まって暮らすハートウォームコメディであった。
だが、それはあくまでも映画の中での話で、現実ではまずうまくゆくはずがない。オカマであろうとなかろうと、皆それぞれかなり強烈な癖のある性格であったからある意味結婚も(同性とでも)できなかった人たちが年とったからと言って他人と一緒に暮らしていけるはずがない。知っている婆さんで実の娘夫婦とでも一緒に暮らすのは息詰まると、90歳になっても一人暮らしを続けている人もいる。
映画に限らず、今テレビのドラマの世界では、朝ドラなどはどれも主人公を取り巻くのは血縁の有無を問わず常に大家族である。皆で集まってはケンカしつつ常に大騒ぎしながら飯食っている。また、子沢山一家のドキュメンタリーもなかなか人気があるようだ。人は、自らは他人と暮らしたくはないくせに、何故かそうした大家族というものに密かな憧れと関心を抱く動物なのである。
人と人の絆は絶やしてはならないが、人は元気なうちは一人で生きていくほうが良い・・・・。
昨日のことに関していくつか思い出したことがある。それにしても陰気な話ばかりで申し訳ない。若い人には関係ない話であるが、人生も後半となって、ゴールも指呼の間に見えてくるとあれこれ考えてしまうものなのである。
若いときからきちんと人生設計を建てて、貯蓄もし子がいたとしても頼らずにすむよう豪華安全安心の老人ホームに入ることを考えている方もいよう。反面、自分のようにいっさい先行きについてはほとんど考えず、そのときそのとき行き当たりばったりでとりあえずやり過ごして来たバカモノは、平均寿命まで生きられたとしてもあと二十年となって、さすがに己の最後のときについても何も思わないわけにはいかなくなる。そろそろ尻に火がついてもなお涼しい顔でいられるほど覚悟の上の確信犯ではないのである。
さて、そうした老いた一人者たちが沢山いるなら皆で集まって一緒に暮らしたら良いのではないかという考えも成り立つ。じっさい、自立型グループホームのようなものも既にあるかと思う。
大昔、学生時代だったか、何かの話のとき、老後は仲間内で湘南辺りにでも大きな家を買って皆で共同生活を送るのもいいんじゃないかという話題で盛り上がった。その頃から、自分の仲間は芸術家かぶれの変人ばかりだったので、なかなか皆フツーの結婚は難しいのではという認識はあったのだ。
それに当時はあちこちにコミューンのような若者たちが集まって暮らしている集合住宅があって、名前は失念したが三鷹にあったそこへは自分も行ってみて、外人も含めてなにやら皆でわいわいがやがや暮らしているのは楽しそうだなあと憧れたこともあった。福生にも米軍ハウスにそうしたところがいくつもあったなあ。
しかし、じっさいのところ人はエゴと自我の固まりでもあるから、たとえ気のあった友人同士数人でさえも一緒に暮らすことは難しい。お互い好き合って暮らし始めた男女だって、24時間顔を突き合わせていればたいがいうんざりして同棲解消となる。夫婦が長続きをするのは、そこにカスガイとなる子供という共通資産、面倒みなくてはならない足枷があるからで、元々他人同士が一緒に生活を続けることは相当の忍耐を要する作業だと自分には思えるが。さて、どうだろうか。
そうした学生時代の「夢」を先日、人にちよっこと話したら、それって数年前ヒットした映画「メゾン・ド・ヒミコ」じゃないのと一笑された。確かになかなかうまいことを言う。
学生時代、8ミリ映画での自主上映活動もやっていた関係で自分の知人でもあった才人犬童一心監督が撮ったその映画は、ゲイバーの老オーナーが自分のとこの老いたオカマたちを集めて老後はメゾンで共同生活をやっているという話で、オダギリジョーがそこの世話人である。世間から後ろ指指されつつも訳ありの人たちが集まって暮らすハートウォームコメディであった。
だが、それはあくまでも映画の中での話で、現実ではまずうまくゆくはずがない。オカマであろうとなかろうと、皆それぞれかなり強烈な癖のある性格であったからある意味結婚も(同性とでも)できなかった人たちが年とったからと言って他人と一緒に暮らしていけるはずがない。知っている婆さんで実の娘夫婦とでも一緒に暮らすのは息詰まると、90歳になっても一人暮らしを続けている人もいる。
映画に限らず、今テレビのドラマの世界では、朝ドラなどはどれも主人公を取り巻くのは血縁の有無を問わず常に大家族である。皆で集まってはケンカしつつ常に大騒ぎしながら飯食っている。また、子沢山一家のドキュメンタリーもなかなか人気があるようだ。人は、自らは他人と暮らしたくはないくせに、何故かそうした大家族というものに密かな憧れと関心を抱く動物なのである。
人と人の絆は絶やしてはならないが、人は元気なうちは一人で生きていくほうが良い・・・・。
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