2012年の「うた」をとりまく状況考察・52012年02月20日 23時34分36秒

★今「うた」は生活からもっとも遠い時代であるが

 今年の春の選抜高校野球、自分は全く興味も関心もないが、その入場行進曲がAKB48の「Everyday、カチューシャ」に決まったとちょっと前のNHKのニュースで報じられていた。そしてその曲についてアナウンサーは、「去年一番ヒットした」と説明し一瞬であるが、彼女たちが唄っているシーンも流れた。それでびっくりした。

 と、書いたのは、実は増坊はその曲を全く知らなかったのである。自分は一度聴けば最近の曲であれば大抵は耳に残り、脳内音楽リストに入ってくるのだが、ちょこっとニュース内で流れたのを聴いた限り、その曲は未知の曲であり、タイトルも全く知らなかった。あるいは聴いていたのかもしれないが全く印象に残らなかったのかもしれない。
 去年最もヒットしたというその曲を全く知らなかった自分に呆れもし驚いたが、今これを書いて読んでくれている方ですぐに、ああ、あの曲ね、とメロディがすぐ思い浮かぶ方はいるのだろうか。AKBなるやたら数だけ多い女性アイドルグループはご存知でもおそらく自分たちの世代、おっさん、オバサン層では楽曲まで詳しい人はいないのではないか。

 ただ、彼女たち、いったい全員で何人擁しているのかわからないものの、自分は今売れている人気ある上位の子たちなら大概顔と名前は判別できる。10~15人程度なら名前を挙げることだってできる。何故なら古本稼業で扱う雑誌類などの表紙やグラビアに常に彼女達のうち誰かは必ず登場しているからで、人気ある子なら見ればこの子は誰かほぼ識別できる。ともかく一昨年ぐらいから彼女たちものすごい人気で、雑誌表紙、グラビアだけはなく、電車の車内吊りからスーパー、コンビニの広告、その他あらゆるジャンルのチラシにまでAKB関連の誰かしらが一人、もしくは数人固まって出ている。だから当然顔なじみとなるのである。

 彼女たちはアイドルなのだから当然歌手が本業なのだと思うが、それだけあちこち日々見かけるわりにはその「Everyday、カチューシャ」のように楽曲の印象は薄い。それは自分がテレビやラジオなどあまり観ず聴くことがないからでもあろうが、存外うた自体は街中で流れていないのではないか。
 むろん、去年もいちばんCDなど楽曲が一番売れたアーチストは彼女たちであり、今最も人気あるグループなのだからうたもヒットしているはずだ。だが、個人的感想としては人気のわりに曲の印象はとても薄い感じがする。まだ以前のモーニング娘のほうが同様のコンセプトでありながら一曲一曲楽曲ごとこちらに届いたような強い印象が残っている。単に自分がその頃よりもさらに歳をとって、モノゴトに疎くなってきて、感性のアンテナが錆びついたというだけの話かもしれないが。

 ただ、一つだけはっきりしていることは、彼女たちは歌手という以前に、存在自体が商品であり、若者たちに向けた健全な性的商品として、ビデオクリップやライブコンサート、及び参加型企画商品が主であり、ビジュアルがまずありきで、耳から聴く音楽としての「うた」は二の次、三の次となってしまっていることだ。つまりAKBとは存在自体が商品であり、一つの社会現象であり、その子たちが便宜的にうたも唄っているということのほうが正しいと思える。だからもはや彼女達は従来の意味での「歌手」だと考えてはならないのだろう。

 自分が知るアイドル、例えば、好きな人たちだけを挙げれば、南沙織とか、麻丘めぐみ、最後は石野真子や小泉今日子まで、むろん、グラビアでも売っていたが、やはりそれぞれ素晴らしい楽曲があり、そこには筒美京平ら天才的作曲家、プロのコンポーザーが存在していた。アイドルではあったが彼女たちはあくまでもうたがメインの歌手であった。
 だから当時だって、オジサンには唄ううたがないと嘆く声も多々あったが、それぞれの楽曲は巷に流れて、ヒットした曲はオジサンだって知っていた。

 21世紀の今の時代、うたはどこまで人の心に届いているのか。昭和30年代に生を受け、ずっと歌謡曲の黄金時代を過ごし、そこに新たにフォークソングという自作自演の「うた」が登場して、さらにニューミュージック、日本語のロック、J・ポップなるものまで常に同伴者として音楽を聴いてきた者として、今の時代の「音楽」とうたについて深く憂慮せざるえない。
 うたはどこから来て、どこへ向うのか。この話まだまだ続く・・・。