四畳半の学生下宿に別れを告げる ― 2012年11月02日 20時21分05秒

★「社員」の四畳半下宿の引越し。
今日、2日は、近く東京の下宿を引き払い実家のある茨城県笠間に居を移すウチの「社員」の引越しの手伝いで、車を出してアパートのある都内祖師谷まで出向いた。
彼が四畳半で長年使っていた小型冷蔵庫ともう今は映らないテレビ、そして処分する自転車を車に乗せて持ち帰ってきた。これらはウチから粗大ゴミとして回収業者に出す予定だ。都内だとそうした粗大ゴミはやたら金がかかるのと運ぶのにも手間がかかる。今回、その他、彼のところに預けていた荷物、不要雑誌などもあったので、車で引き取りに行ったという次第。
そのアパート、-いや正しくは学生向け下宿と呼ぶべきであろう、-に社員ことTは、大学時代から実に31年間も住み続けていた。俺の周りは基本的に奇人変人の宝庫だが、ダントツはやはりこの男かと思える。
彼がそのYさんという大家さんの離れの四畳半に住み始めたのが1979年。世田谷区祖師谷の閑静な住宅地の広い庭の中に、大家Yさん夫婦が自宅に隣接して下宿として別棟を建てたのがいつかは知らない。ただ、その「下宿」は、まさに下宿としか呼びようがないもので、昨今のアパートとは違い普通の民家であってその各部屋ごとを貸していた。今ではもうそんなところはたぶん都内にはどこにもない。
大家宅とは入り口は別だったが、普通の玄関から入ると、左手に共同のコンロが二つあるジントギの流し場がある狭い炊事場、右手奥に共用の便所が一つ、一階には四畳半の部屋が三つ。二階もほぼ同じ間取りで、むろんのこと各部屋の中には流しもトイレも付いてはいない。各部屋とも畳の四畳半と半間の押入れ、その上に物入れがあるだけ。家賃は当初1万2千円そこらだったという。もちろん風呂などどこにもないから銭湯へ行く。
今の若い人は田舎から出てきたとしてもそんな部屋で生活することはたぶんよほど貧乏でもまずできっこない。いや、そもそもそんな下宿というかアパートは都内にはもはやどこにもない。何よりシャワーもないどころか、台所もトイレも共同というのは耐えられないのではないか。その頃の自分だってチュウチョしたはずだ。そこにはプライバシーがほとんどない。
でもTという男はその下宿の四畳半一室に1979年から今年までずっと暮らしていた。じっさい、この10年は他の下宿人は順次出ていってしまい今では下宿人は彼ただ一人となっていたのである。大家がよく彼を追い出さなかったと感心もするが、近年はその建物の二階は大家の孫に当る若い子持ち夫婦世帯が住み始めていて、一階の半分も彼らの風呂場に改造されたそうで、Tは長い付き合いでもあるので言わば大家たちのご好意で置いてもらっていたようなものだったのだ。今の家賃は近年ずっと値上がりも更新料も取られずに2万円。それを直接隣の大家へ月末に払いに持っていく。
彼としてはこのまま還暦ぐらいまでそこに住んでいるのかと考えていたのだったが、拙ブログで経緯を報告したように、増坊宅での作業中に事故が起きてしまい、頭を強く打って入院騒動があり、今は幸い回復したもののそれを機に、ついに東京での生活を引き払って老母が一人で暮らしている実家に戻ることとなったのだった。じっさいのところ近年は、その老親たちの世話もあって彼も東京と茨城を月半ば間隔で行ったり来たりしていたのであった。
だから、近いうち実家には戻らねばと彼も考えていたはずだし、学生時代から住み続けたその四畳半と近くオサラバする日が近いうちに来るとは彼を知る者は皆考えてはいたわけだが、それが今年6月のウチでの「事故」がきっかけとなるとは運命とは皮肉なものでもある。
その四畳半に、今日十何年ぶり、いやに20年ぶりぐらいに行って感無量でもあった。まるでタイムカプセルを開けたような気がした。学生の頃は酔っぱらって帰れなくなったときなど何度も転がり込んで泊めてもらった思い出も沢山ある。と言ってもたかが四畳半であり、その部屋の記憶はさほどないが、その大家の庭や台所など全く昔の記憶通りであった。閑静な世田谷の住宅地の奥の学生向け下宿。たぶん、これで最後の店子も出たので、大家の婆さんが生きているうちはともかく、近く全部壊して孫夫婦たちはマンションでも建てるのであろうか。
沢山の庭木で埋め尽くされた広い庭の奥にあった学生向け下宿。彼も自分も学生だった1970年代後半にはこんな賃貸、貸し部屋が成り立っていたのである。それが80年代に入ると、もっと家賃は高くてもユニットのバストイレ、狭いキッチンが各部屋ごとに付いたワンルームが登場してくる。学生は従来の学生向け下宿屋やトイレ共同のアパートを嫌い、皆そうしたワンルームマンションに住むようになる。それが時代の流れなのだと今はよくわかる。
でも、今日そうした最後の四畳半下宿を訪れて、田舎から東京に出てきた学生にとってはこれでまずは十分ではないかと思った。ただ、そんな狭い部屋に50代半ば過ぎまで30年以上も住み続けるという男もまたヘンであることは言うまでもない。しかし、ならばこそいったいいつまでそこに住み続けられるのか、大家側から追い立てられるまでその部屋に住んでもらいたかったという気もする。ギネスブック級ではないか。その引越しの原因に自分も大きく関係しているのだから望むべくもないけれど。
四畳半といえば思い出す、「男おいどん」などの松本零士のマンガではないけれど、本来ひとが生きていくのには四畳半で十分なのである。本当はその世界だけで生きて死ねれば素晴らしいことではないのか。ただ自分はそれができなかった。それはモノを増やさないという強い節制する克己心、自制心が求められる。あの狭い部屋で30年以上も過ごしたTという男は奇人変人と片付けるより本当にエライ大人物なのかもしれない。
今日、2日は、近く東京の下宿を引き払い実家のある茨城県笠間に居を移すウチの「社員」の引越しの手伝いで、車を出してアパートのある都内祖師谷まで出向いた。
彼が四畳半で長年使っていた小型冷蔵庫ともう今は映らないテレビ、そして処分する自転車を車に乗せて持ち帰ってきた。これらはウチから粗大ゴミとして回収業者に出す予定だ。都内だとそうした粗大ゴミはやたら金がかかるのと運ぶのにも手間がかかる。今回、その他、彼のところに預けていた荷物、不要雑誌などもあったので、車で引き取りに行ったという次第。
そのアパート、-いや正しくは学生向け下宿と呼ぶべきであろう、-に社員ことTは、大学時代から実に31年間も住み続けていた。俺の周りは基本的に奇人変人の宝庫だが、ダントツはやはりこの男かと思える。
彼がそのYさんという大家さんの離れの四畳半に住み始めたのが1979年。世田谷区祖師谷の閑静な住宅地の広い庭の中に、大家Yさん夫婦が自宅に隣接して下宿として別棟を建てたのがいつかは知らない。ただ、その「下宿」は、まさに下宿としか呼びようがないもので、昨今のアパートとは違い普通の民家であってその各部屋ごとを貸していた。今ではもうそんなところはたぶん都内にはどこにもない。
大家宅とは入り口は別だったが、普通の玄関から入ると、左手に共同のコンロが二つあるジントギの流し場がある狭い炊事場、右手奥に共用の便所が一つ、一階には四畳半の部屋が三つ。二階もほぼ同じ間取りで、むろんのこと各部屋の中には流しもトイレも付いてはいない。各部屋とも畳の四畳半と半間の押入れ、その上に物入れがあるだけ。家賃は当初1万2千円そこらだったという。もちろん風呂などどこにもないから銭湯へ行く。
今の若い人は田舎から出てきたとしてもそんな部屋で生活することはたぶんよほど貧乏でもまずできっこない。いや、そもそもそんな下宿というかアパートは都内にはもはやどこにもない。何よりシャワーもないどころか、台所もトイレも共同というのは耐えられないのではないか。その頃の自分だってチュウチョしたはずだ。そこにはプライバシーがほとんどない。
でもTという男はその下宿の四畳半一室に1979年から今年までずっと暮らしていた。じっさい、この10年は他の下宿人は順次出ていってしまい今では下宿人は彼ただ一人となっていたのである。大家がよく彼を追い出さなかったと感心もするが、近年はその建物の二階は大家の孫に当る若い子持ち夫婦世帯が住み始めていて、一階の半分も彼らの風呂場に改造されたそうで、Tは長い付き合いでもあるので言わば大家たちのご好意で置いてもらっていたようなものだったのだ。今の家賃は近年ずっと値上がりも更新料も取られずに2万円。それを直接隣の大家へ月末に払いに持っていく。
彼としてはこのまま還暦ぐらいまでそこに住んでいるのかと考えていたのだったが、拙ブログで経緯を報告したように、増坊宅での作業中に事故が起きてしまい、頭を強く打って入院騒動があり、今は幸い回復したもののそれを機に、ついに東京での生活を引き払って老母が一人で暮らしている実家に戻ることとなったのだった。じっさいのところ近年は、その老親たちの世話もあって彼も東京と茨城を月半ば間隔で行ったり来たりしていたのであった。
だから、近いうち実家には戻らねばと彼も考えていたはずだし、学生時代から住み続けたその四畳半と近くオサラバする日が近いうちに来るとは彼を知る者は皆考えてはいたわけだが、それが今年6月のウチでの「事故」がきっかけとなるとは運命とは皮肉なものでもある。
その四畳半に、今日十何年ぶり、いやに20年ぶりぐらいに行って感無量でもあった。まるでタイムカプセルを開けたような気がした。学生の頃は酔っぱらって帰れなくなったときなど何度も転がり込んで泊めてもらった思い出も沢山ある。と言ってもたかが四畳半であり、その部屋の記憶はさほどないが、その大家の庭や台所など全く昔の記憶通りであった。閑静な世田谷の住宅地の奥の学生向け下宿。たぶん、これで最後の店子も出たので、大家の婆さんが生きているうちはともかく、近く全部壊して孫夫婦たちはマンションでも建てるのであろうか。
沢山の庭木で埋め尽くされた広い庭の奥にあった学生向け下宿。彼も自分も学生だった1970年代後半にはこんな賃貸、貸し部屋が成り立っていたのである。それが80年代に入ると、もっと家賃は高くてもユニットのバストイレ、狭いキッチンが各部屋ごとに付いたワンルームが登場してくる。学生は従来の学生向け下宿屋やトイレ共同のアパートを嫌い、皆そうしたワンルームマンションに住むようになる。それが時代の流れなのだと今はよくわかる。
でも、今日そうした最後の四畳半下宿を訪れて、田舎から東京に出てきた学生にとってはこれでまずは十分ではないかと思った。ただ、そんな狭い部屋に50代半ば過ぎまで30年以上も住み続けるという男もまたヘンであることは言うまでもない。しかし、ならばこそいったいいつまでそこに住み続けられるのか、大家側から追い立てられるまでその部屋に住んでもらいたかったという気もする。ギネスブック級ではないか。その引越しの原因に自分も大きく関係しているのだから望むべくもないけれど。
四畳半といえば思い出す、「男おいどん」などの松本零士のマンガではないけれど、本来ひとが生きていくのには四畳半で十分なのである。本当はその世界だけで生きて死ねれば素晴らしいことではないのか。ただ自分はそれができなかった。それはモノを増やさないという強い節制する克己心、自制心が求められる。あの狭い部屋で30年以上も過ごしたTという男は奇人変人と片付けるより本当にエライ大人物なのかもしれない。
コメント
_ Yozakura ― 2012/11/06 16時25分16秒
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どなたのコメントも付加されていないので、書き込みます。
何時も興味深い話題が提供されるブログですが、この「33年前の4畳半下宿への入居と最近の引っ越し顛末記」、増田さんの筆にも何時になく力が入り、要所要所で「うん、うん」と大きく頷きながら読み進めていきました。
「社員氏の価値観とライフスタイル」は、正に、鍋の蓋と本体の如く表裏一体、ピッタリと符合しており、それ故、この「時代離れした離れ下宿の4畳半」で、社員氏も大いに日常のささやかな至福を満喫されたことでしょう。
増田さんの文体やトーンにも、「出来ることなら、家族と一緒の住まいよりも、こうした時代遅れの下宿で暮らしたかったなぁ----」と云う、或る種の羨望とも、諦観とも取れる感慨が行間より窺え、大いに共感したものです。
実は数年前の年明けの寒い頃、2007年か、或いは2006年の年頭に、増田さんと共に、文京区から台東区に掛けて下町の路地を巡るツアーを実行し、各地に残された文豪や有名人の旧居や古い遺跡を探訪しては、「東京下町の小さな旅」を楽しんだものです。その節は、お世話様でした。
で、その際、旧居探訪のツアー開催の契機となったのが、その昔、1970年代後半に、その周辺に住んでいた私の下宿体験だったのです。
その「下宿」こそ正に、その「社員氏が多年に亙り居住し、引き篭もりの逼塞生活を堪能なさった4畳半」と酷似した造作と間取りを備えていたものであり、
増田さんの巧みな描写と相俟って、往時の生活をしばし思い出しただでけでなく、下宿に籠る人間の心理・心性まで推測し、これを読者の眼前に開陳した増田氏の筆捌きを堪能しました。
ご家族の介護やら、商売の難しさ等、悩みは尽きないと想像しますが、どうぞ、この調子でブログに加筆していって下さい。
お元気で。