本の価値と人の価値・32012年11月09日 21時58分49秒

★本の価値をあらためて問う

 嘘か誠か、その存在も含めて世には霊というものがあり、霊感が強く霊を引き寄せる体質、霊が集まってくる人もいるのだという。その例に倣って言えば、自分は本に好かれる、本がいやでも集まってくる「古本体質」らしく生来本とは縁が切れないし本集めに窮したことはない。パリに行ったときでさえ、通りがかった引越し現場のゴミ箱から20世紀初頭のグラフ誌など拾わざるえなかった。それは本が拾ってくれ、まだ捨てられたくない、人に読まれたいと望んでいるからであろう。

 だが、そのことと「売れる本」が集まることはまったく別の話である。自ら苦労しなくとも自然に、意図する意図せざるに関わらず本はウチに集まってくる。意識して集めることもなくはないが、大概は人伝に引取りを依頼されることも多い。しかし、引き取ってもその九割方はネットでは値のつかない、「クズ本」なのである。それは古く汚れているからではなく、これまで説明したように限りなく「1円本」に近いゆえ儲けが出ないからである。

 手元に来た本の束をほどいて一冊づつISBN番号が付いている本は、その数字をアマゾンの本のページ検索欄に打ち込んでいく。するとマーケットプレイスのリストにあるその本のページが表示される。その本の情報が値段と共に出、ついでに同じ本の中古品も価格の低い順に見ることができる。以前はそれほどでもなかったが最近ではほぼ最低値が「1円」からで、それに+送料250円と出てくる。1円でないとしても大抵の本が100円以下である。それはコミックスでも変わらない。

 自分は溜息をつき、そうした本は値のつく本と別に分けて一箇所に平積みにしていく。その売れない本の山はどんどん高くなって溜まっていく。その本たちは基本的に「処分」するしかない。でないとすぐに部屋が本に埋まってしまう。
 本好きを自認してまあこんな商売を始めたわけであるが、最近では本当の本好き、愛書家、読書家は古本稼業など向いていないしすべきではないとつくづく思う。古本屋とは古本を扱う「商売」が好きに他ならない。

 自分の場合、ウチにそうしてきた本は、自分用に、自ら関心のある本、求めていた本、読んでみたい本などはまず別に取り分けておく。それは音楽や詩、生活、思想などの本であり手元にいつまで置いておきたいかは別としてともかく読んでみないことには始まらないし判断できない。そんな“大事な”本でも「商品」として来たときに直ちに右から左へ動かしていけるのが本当のプロの古本屋なのである。

 そして残った本を検索して市場価格を調べていく。アマゾン側のリストに載っていない本もなくはないが、ISBNも付いていない本当の「古書」や一部の数学、物理などのごく専門書を除けば実感では今では九割方の本が1円本でありそれに順ずる値段に落ちてしまっている。つまり文芸書だろうが実用書であろうが、発行から時間とある程度版を重ねて冊数が世に出た本はほぼすべて1円の値でしかネットでは流通していないということなのだ。そのことはアマゾンマーケットプレイスに見る限り、今や本はほとんどが市場価値はないということだと言っても良いかと思う。

 誰が本を殺したか。本は自滅したという見方もある。しかし、経済の仕組みと時代の流れで今はそういう時代なのだとしか自分には言えない。本格的な「電子書籍時代」を前にして紙の「本」はいよいよ滅亡前夜、その流れがこんな結果だという診断もできよう。
 ただ、一つだけハッキリしていることはそうした時代だとしても「本の価値」自体はほんとうは下がりも変わりもしていないのである。下がったのは市場での価値=価格だけなのだ。【もう一回書いて終わりしたい】

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